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ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第三章 泥の果ての直轄採用! 本社への左遷
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第10話 高貴なお方と弾道ミサイル

「ほら、エサ(朝食)だ。さっさと食えよ」


「ごちそうさまでしたぁっ!!」


 今日も私の土下座はキレッキレの絶好調である。

 差し出されたトウモロコシの薄焼きパン(トルティーヤ的なやつ)を両手で受け取り、個室(独房)の外にいるサキルと目で会話しながらフフッと笑い合う。

 サキルの目は「あんた、毎朝毎朝よくそんなに綺麗に床に頭がこすりつけられるね」と呆れているが、これも生き残るための社畜の基本スキル、いわば「毎朝の定時挨拶」だ。


「さあ、今日も私の愛おしいヘドロちゃんたちと、濃厚なデトックス・アクティビティを楽しみましょう!」


 首輪につながれた縄を現場監督官に引かれながら、私は青空に向かって大きく伸びをした。


 毎日快適な八時間睡眠。

 適度な有酸素運動(ドブさらい)。

 食事の配給つき。


 体調はすこぶるいい。


 現代社会で片道一時間半の満員電車に揺られ、サビ残で終電を逃していた頃に比べれば、健康優良児そのものである。


 周りの奴隷さんたちが、まるでこれから処刑場にでも向かうかのように重い足取りで歩いているのに対して、私ひとりだけが完全にスキップ状態だった。


「おい、全員集まれ。……あ、シャク、お前はもっと離れてろ」


「はーい、ソーシャルディスタンスですねー」


 今日のお仕事現場である市街地の主要幹線水路に到着したところで、現場監督官から招集がかかった。

 すぐ目の前で「早く僕をすくって!」と素晴らしいドブ臭を放つヘドロちゃんたちが待っているのに、まさかのおあずけを食らってしまった。


「いいか、お前たち。今日は一日、絶対にドブから顔を出すな。水路の底にへばりついていろ。この近くを、宮廷の、それも言葉にするのも恐ろしいほど『高貴なお方』がお通りになる。お前たちの汚らわしい顔を、万が一にでもそのお方の視界に晒すんじゃない。いいな。……特にシャク!」


 監督官が、カッと目を見開き、私を指差した。


「お前だ、お前! お前は作業を始めると、まるで何かの邪神が憑依したかのようにキチガイじみて元気になるから危なくてしょうがない! 今日は絶対に自重しろ  いいな、死にたくなければ大人しくしてろ!」


「えー? ジ・チョ・ウ……ってナンデスカ? ワタシ、コッチノコトバ、ゼンゼンワカラナイネー」


 私は監督官に向けて、いかにも「海外から来たばかりの外国人労働者」を装って両手を広げ、肩をすくめてみせた。


「そうか。お前のその、人を小馬鹿にしたような滑らかな公用語の響きだけはバッチリ理解できるんだがな?」


 監督官が引きつった笑いを浮かべる。

 相変わらず「呪われたバケモノ」扱いではあるものの、毎日きっちり納期通りに水路をピカピカにする私に対し、監督官もいつの間にか体罰の代わりに軽口を叩ける程度にはデリケートな信頼関係(?)が築かれていた。


(高貴なお方って誰かしら? 王様? それとも役員クラスの神官とか? ――ぶへっ!!)


 考え事をしていたら、背後から監督官に背中を蹴られ、私は頭からドブへ盛大に突き落とされた。

 プハッと顔を出し、ぷるぷると頭を左右に激しく振って、髪と顔から水と泥を払う。完全に濡れた犬の挙動である。

 まあ、どのみち仕事を始めれば秒で全身ヘドロまみれになるのだ。最初に頭から突っ込まれたところで、私の業務効率(パフォーマンス)への影響は皆無。実質ゼロカロリーならぬノーダメージである。はっはっは。


「奴隷生活、マジでサイコーッ!!」


 心の底からの歓喜を叫びながら、私は監督官の言うところの「キチガイ」のようなトップスピードでヘドロを掻き出し始めた。

 本当にこの国は、労働基準法がないわりには奴隷の待遇がすこぶるいい。

 なんと午前と午後の合間に、しっかりとした休憩時間までくれるのだ。


 「休憩だ!」の合図とともに、他の奴隷さんたちは恐怖に怯えながら「高貴なお方」に見つからないよう、蜘蛛の子を散らすようにドブから上がって物陰に隠れていった。

 が、私は移動するのも面倒なので、誰もいなくなった静かなドブの底にドカッと座り込み、のんびりと泥水を眺めて休憩することにした。上空の直射日光も遮られるし、静かでめちゃくちゃ落ち着く絶好のサボりスポットである。


 やがて、遠くから太鼓の音と、物々しい足音が響いてきた。


「よーし、それじゃあドブさらい再開だ! いいな、今から作業が終わるまでは、絶対にドブからお前たちの汚い顔を出すんじゃないぞ。おい、シャク、聞いてるのか! 水路の底に伏せていろ!」


 地上から監督官の焦ったような怒声が聞こえた気がしたけれど、私はドブの底から片手をひらひらと振って、テキトーに受け流した。いつもの「はいはい、了解ですー」という塩対応だ。


 こんな態度をしても、私が鞭で打たれることはない。


 私はこの国では「触れると命を吸い取られる、歩く事故物件(呪われた白い女)」として恐れられている。

 体罰を加えるためには「直接肌に触れるか、鞭で打つ」という接触が必要だが、看守たちも恐怖のあまり、私に近づこうとすらしないのだ。

 さっきの蹴りくらいが最大限の暴行だ。


 今のところ、私に日常的に触れてくるのは、バディ(信者)のサキルただ一人。


 あ、あと初日に「社章(ジャガーのタトゥー)」を二の腕にガリガリ彫ってくれた、あの筋肉モリモリの大男の彫師さんも平気で触ってきたっけ。

 あの人はたぶんサキルと同類で、神の呪いなんてハナから信じていない「唯物主義(リアリスト)」のクチな気がする。

 根拠はないけれど、職人の目をしてたしね。


 そんな無敵の「呪いバリア」のおかげで、奴隷の身分でありながら、女性特有の性的被害や理不尽な暴力も皆無。

 呪いさん、本当にありがとう。

 前世の不運をここで一気に回収している気分である。


 その呪いのパワーに感謝を捧げながら、私は無心で、狂ったように木製のスコップを動かしていた。


 私の辞書に「自重」の文字はない。

 今日中にこのS級難所の泥を排除して、傾斜を整え、この水路のバイパス機能を完全復活させるのだ。それこそが社畜のプライド!


「ふんぬっ! はっ! どけっ、愛しのヘドロちゃーん!!」


 ザッパーン! と景気よく泥をはね上げながら作業に没頭していると、にわかに、水路の「真上」の通りが、耳をつんざくような騒がしさに包まれていることに気がついた。


「どけっ! 道を開けろ! 跪けッ!!」


「ヤシュ・バラム様のお通りだ! 穢れた目を上げるな!!」


 複数の屈強な戦士たちの怒声と、すさまじい数の足音が、どんどんこの水路の真上の土手に近づいてくる。


(ヤシュ・バラム……? 確かサキルが言ってたような。ティカルの王で軍司令官だっけ? ま、私には関係のない遠い雲の上の話ね)


 上の喧騒なんてどうでもいい。平社員以下の私は、目の前のタスク(泥)を片付けるだけ。

 水流の傾斜を作るため、私はさらに深くドブの底へ身体を沈め、渾身の力で泥の塊を、頭上へ向かって思い切り撥ね上げた。


「そぉいっっ!!」


 バシャアアアアアアアアアッッ!!!


 その瞬間、水路の真上の漆喰で舗装された歩道に、ちょうど「誰かの足」が踏み込んできた。

 しかも、タイミングがいいのか悪いのか、私の放った「弾道ミサイル級の特大ヘドロの塊」は、その人物の足元――いや、純白の美しい礼服の裾に向けて、吸い込まれるように着弾したのである。


 べちゃっ。


 嫌な、本当に嫌な音が、一瞬にして周囲の喧騒を静まり返らせた。


「……え?」


 私はスコップを握ったまま、嫌な予感がして、監督官の「絶対に顔を出すな」という忠告を完全に無視して、ドブの底からひょこっと顔を上げた。


 そこには、豪華なケツァール鳥の緑の羽飾りを頭に戴き、ヒスイの胸飾りを輝かせた、息をのむほど体格のいい一人の大男が立っていた。


 年の頃は二十代後半か、三十代初め。

 彫刻のように整った冷徹な美貌。

 でかい。

 しかし、その双眸には、人間の温かみなど一滴も存在しない、凍りつくような「死のオーラ」が宿っている。


 その、顔がいい大男の――。

 雪のように白く、美しく織り上げられた最高級の儀礼用キルト(腰布)の太ももあたりに、私が今さっきすくい上げた、いちばん濃厚で、いちばん臭うブラックヘドロが、芸術的な斑点(スプラッシュ)を描いてべっとりと付着していた。

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