第13話 あなたの投稿では
森川との最初の打ち合わせで、美咲は用意したメモを何度も見た。
どこまで家族のことを書くのか。
娘の名前や顔を出さずに書けるのか。
仕事と子育てをしながら、どのくらいの頻度なら続けられるのか。
聞いておきたいことばかりだった。
森川は急がせず、一つずつ確認してくれた。
「娘さんが話題になるための連載にはしたくないんですね」
「はい。私がどうだったかを、書きたいです」
言ってから、美咲は少し落ち着いた。
これだけは最初に伝えたいと決めていた。
原稿料と掲載回数、締切の目安を聞いた。
その場で何でもできますとは言わず、一度持ち帰った。カレンダーを開き、パートの勤務と莉子の予定の間に、書ける時間を探した。
それから、引き受けたいと返事を送った。
最初の原稿は、何度も直した。
書けば伝わると思っていた箇所に、森川から質問が戻ってきた。
『写真を見て、何に気づきましたか』
美咲は原稿を机に広げた。
家の工作だと分かった、と書いていた。けれど、読者はまだ、莉子の作品を見たことがない。
「星の形が、気になったんだよね……」
観覧車を見に行った。
一つだけ角の短い星が、今も輪の上についている。
星を切り直した日のことを書き足した。
お好み焼きについても、ハート形だったことだけでなく、右上の丸みが崩れていたことを書いた。
自分には当たり前に見えているものを、知らない人へ渡すには、もう一度見直す必要があった。
何も起こらない一晩の方が、書くのが難しいことも知った。
夫の声を聞いて怖くなった、と書いたあと、どんな声だったのかと聞かれた。
いつもと同じ声だった。
そう書き直したとき、ようやく自分でも、怖かった理由が分かった。
「ママ、音読、聞いて」
莉子が国語の教科書を持ってきた。
「あ……ごめん。あと少しだけ」
返事をしてから、美咲は顔を上げた。
娘は開いた教科書を両手で抱えていた。その姿を見て、急に申し訳なくなった。
健太が椅子を寄せた。
「今日はパパが聞くよ」
「ここからだよ」
莉子が最初の行を指した。
健太は音読カードを手元へ引き寄せた。
「あさ、ことりが、まどに、きました」
娘の声が居間に響いた。
美咲は健太を見た。
「……ありがとう」
頼らなければ間に合わない。
頼れば、また何か書かれるのではないか。
その不安は、すぐには消えなかった。
それでも、美咲は机へ戻った。
莉子の母親でいることと、一人で全部を引き受けることを、同じにしたくなかった。
*
締切の日、夕食を作った健太が言った。
「ご飯、作ったから」
「ありがとう。あと、片づけもお願いしていい?」
「え、そこも?」
流しには、使った食器とフライパンが残っていた。
健太にとっては、料理を出したところで今日の担当が終わったのだろう。
「今日、原稿を送らないといけないの」
「……分かった」
「明日は私が夕飯をやるから」
健太はスポンジを手にした。
美咲は席を立たなかった。
これまでなら、もう自分で洗ってしまったかもしれない。
その方が早いと思いながら、自分の用事を後回しにして。
今日は、原稿へ戻った。
送信を終えたときには、肩が固まっていた。
少し遅れて、森川から受け取りの連絡が来た。
『ありがとうございました。今回の最後の場面、よく伝わりました』
美咲は短い返事を書いた。
うれしかった。
たくさんの人に見られた数字より先に、約束したものを届けられたことに、ほっとしていた。
打ち合わせをし、直し、次の原稿を書く。
書く気になれない日には、ノートに短く残すだけにした。
うまくいかない回もあった。美咲が読み返して削った文章も、森川に待ってもらった日もあった。
少しずつ、頼まれる仕事が増えた。
連載をまとめて本にする話が決まってからも、終わりではなかった。最初に書いた文章を、何度も読み直す時間が続いた。
健太とは、相変わらず同じ家にいた。
それをもって夫婦が元に戻ったのだとは、誰にも書かなかった。
今日できたことと、まだできないことを、区別して暮らしていた。
*
半年後、机の上に、本の見本が届いた。
書名は『私の話を、私の言葉で』。
美咲は表紙に触れ、最初のページを開いた。
娘が賞状を持って帰った日が、活字になっていた。
隣で健太が見ていたのは、家計のノートだった。
「今月、こんなに入ったの?」
美咲の欄には、原稿料と書籍分を合わせて三十八万円。
健太の欄には、三十二万円とある。
「本の分も入ったから」
「俺の給料より……」
「毎月同じじゃないよ。でも、続けて頼んでもらえる仕事は増えた」
健太はノートを閉じた。
今度はスマホで、美咲のアカウントを開いていた。
「三十四万……」
美咲は森川からの連絡を確かめていた。
次の打ち合わせは、日曜日の午後二時。
カレンダーに入れて、資料を用意する時間を考える。
「俺、三十万で止まったのに」
「え?」
「……何でもない」
健太は画面を伏せた。
美咲は聞き返さなかった。
その夕方、莉子が新しい工作を持ってきた。
「ママ、できた!」
小さな紙の家だった。
前側の壁がなく、部屋の中が見える。中央には、三人分の椅子を並べたテーブルがあった。
「おうち?」
「うん。こっち、ママのお仕事する机」
隅に、小さな机と、紙を折ったノートが置いてある。
美咲は身をかがめた。
「私のも、作ってくれたの?」
「ここで書いてるから」
莉子にとっては、説明するほどでもないことらしかった。
美咲が机に向かう時間も、この家の中にある。
娘はそれを見て、紙の家に入れてくれた。
「……ありがとう。うれしい」
両手で持ち上げると、紙の机が少し揺れた。
美咲はすぐに水平へ戻した。
「観覧車の隣に置いていい?」
「うん」
莉子がテレビ台へ運んだ。
青い星のある観覧車の隣に、新しい家が並ぶ。
美咲はその前に立ち、しばらく見ていた。
*
日曜の午後、美咲は打ち合わせの資料を鞄に入れた。
ページが揃っていることを確かめ、玄関へ向かう。
「今日は夕飯と、娘のお風呂をお願いね」
「洗濯も、まだあるんだけど……」
「うん。私、帰ったら畳むね」
健太の足元には、洗う前の衣類が入ったかごがあった。
流しには皿と鍋が残っている。
美咲は帰宅後の予定を考え、鞄の持ち手を握り直した。
「夕飯と風呂と洗濯か……」
健太が、かごと流しを見比べた。
一つ終えても、別の仕事が待っている。見栄えのいい皿を一枚撮れば済むわけではない。
美咲は夫を振り返った。
「あなたの投稿では、いつも一人でやってたよね?」
健太の口が、わずかに開いた。
けれど、言葉は出てこなかった。





