都合のいい女扱いして、心も手柄も奪っていた先輩へ。辞めたあとの地獄はお一人でどうぞ。私は私の幸せを見つけました。
◆◆◆ 佐倉澪 ◆◆◆
深夜二時十二分。
今日の会議に出す資料の、最終更新の時刻だ。保存したのは、わたし。名前も、わたしの名前で残っている。
朝いちばんにそれを開くのは、神谷部長。閲覧履歴に、毎回名前が残る。何を見ているのかは、聞いたことがない。
会議でそれを読み上げて、評価されるのは、わたしの上司の榊さん。
わたしが作って、榊さんが前に立つ。ずっと、そうしてきた。
わたしはそれを、愛だと思っていた。
◇◇◇
四半期の業績会議は、通販の数字から始まる。四十二・三パーセント。もう誰も驚かない。神谷部長だけが、そこで手元の画面を見る。毎回。あの数字で、何を見ているのか。
商品企画の番。隣で榊さんが立つ。ヴェール。敏感肌向けのファンデーション。発売十四か月で、うちの主力。彼の声は、会議室のいちばん後ろまで届く。入社した年、わたしはその声を本気で尊敬していた。
「来期これを増産するとして、原価はどこまで落ちる?」
役員のひとりが、報告の途中で口を挟んだ。榊さんではなく、こちらを見て。なぜ、こちらを見るのか。席が近いからだと思っていた。
「そうですね、ロットを上げれば、当然」
言葉が、半歩ぶん止まる。わたしは端末を共有に切り替えた。正面のモニターに数字が出る。榊さんは一瞥して、前を向いた。
「一・五倍で、原価率は三十一・二パーセント。二・四ポイント下がります。ただ、充填ラインの空きが来月末までありません。前倒しで押さえるなら、来週中に決めていただく必要があります」
「よく詰めてるな」
「榊くん、いい仕事したよ」
「ありがとうございます」
榊さんがこちらを向いて、少しだけ笑った。わたしも笑い返した。
この笑い方を、見るたびに、わたしは何かを差し出していた。
◇◇◇
入社した年、教育係が榊さんだった。五つ上で、当時はまだ主任。人当たりがよくて、覚えが早い。彼と組んだ新人はみんな彼を好きになる、と同期に言われた。そのとおりになった。
最初に覚えたのは、月次の集計だった。販売データと在庫を突き合わせて、店舗別に並べて、前月と比べる。毎月、手で作っていた。榊さんはそれをやりながら、よく終電を逃していた。
「これ、毎月手でやってるんですか」
「そうだよ。誰かがやらないと出てこないからね」
言い方が優しかった。だから、何も言えなかった。
家に帰って、本を買った。プログラミングの入門書。三千円くらい。半分も分からなかった。もう一冊買った。三か月後、集計が一時間で終わるようになった。
榊さんに見せた。彼は本当に驚いた顔をして、「助かる」と言った。
帰りの電車で、わたしはにやにやしていたと思う。二十二歳だった。あの一言を、そのあと何年も、何度も思い出した。
三年目に、競合の価格を毎朝拾う仕組みを作った。四年目に、アンケートの自由記述を整理する手順。五年目に、議事録の要約。
情報システム部の小柳さんには、何度も頭を下げた。要件を自分で書いて持っていった。企画職でそれをやる人間はいなかったらしい。小柳さんは最初、明らかに面倒くさそうだった。三度目からは、向こうからミーティングの場を用意してくれた。
覚えるたびに、自分が変わっていくのが分かった。榊さんの言うことが、少しずつ、遅くもたついて聞こえるようになった。気づかないふりをした。
いちばん時間がかかったのは、制約のほうだ。企画は、絵を描くだけなら誰でもできる。「それ、本当に作れるの」と聞かれて答えられるようになるのに、三年かかった。原価。処方の組み合わせ。生産ロットの下限。薬機法で書けない表現。卸の棚。それを全部つないで、会議の場で数字を出せるようにした。
作り始めたのは、榊さんの企画が差し戻された夜だった。悔しかった。本人より、わたしのほうが。
やがて、会議で誰かが「その原価は」と聞くと、榊さんがわたしを見るようになった。わたしが画面を出す。榊さんが読み上げる。
「二人の手柄だろ」
彼はよくそう言った。
「今、君の名前を出すと角が立つよ。うちの部、そういうとこあるから。俺が矢面に立つ」
守られている、と思っていた。本当に、そう思っていた。
二時の更新時刻と、翌朝の閲覧履歴。それが三年続いた。見ているのに、なぜ何も言わないのか。一度も言われなかった。だから、それが普通なんだと思っていた。
そういえば、休日に自分のために化粧をした記憶が、あの頃のわたしにはない。ヴェールは使っていた。社員だから。それだけだ。
◇◇◇
その夜も、チャットが来た。
「起きてる? 明日の資料、ちょっと見てくれない?」
二十二時を過ぎていた。着替えて、電車に乗った。この時間の下りは空いている。窓に映る自分の顔を見て、髪を少しだけ直した。誰に見せるためかは、考えなかった。
彼の部屋の合鍵は、三年前からわたしが持っている。
資料の話は五分で終わった。直すところは二か所。彼はそれを聞き終わる前に、わたしの手から端末を取り上げた。端末を床に置いて、それからわたしを、ベッドに引いた。
「明日の役員会の数字、朝いちで出しといてくれる?」
事が済んだあと、彼はベッドの上で端末を見ながら言った。
今?
声には出さなかった。たぶん半拍ぶん、返事が遅れた。
「うん」
身を起こして、床の服に手を伸ばした。急ぎだと言われたから。その背中を、彼が後ろから抱き寄せた。そのまま、押し倒された。力は入っていない。じゃれるような手つきだった。それでも、起き上がれなかった。
「……その前に、もう一回」
なぜ、今なのか。咎める声でも、急かす声でもない。さっき数字を頼んだときと、同じ声だった。
頭のどこかで、わたしは数えていた。帰って資料を直したら、眠れるのは四時間。三時間になる。二時間になる。
抵抗しなかった。引き止められることが、求められている証拠に見えた。時間を削られるたびに、わたしは彼にとって必要なんだと思えた。
嬉しかった。我慢していたわけじゃない。
彼の部屋を出たのは一時過ぎだった。自分の部屋に帰って、コートも脱がずに端末を開いた。直すところは、二か所。
更新時刻が二時を回るのは、こういう夜だ。
◇◇◇
十月の終わり、彼は二つのことを同じ夜に言った。
「ハルナドラッグの、早見さんとこの娘さんと。……結婚しようと思ってる」
部屋の空気が動かなくなった。
ハルナドラッグ。北関東を中心に六十店舗のドラッグストアチェーン。全国区じゃない。地元では強い。うちみたいな中堅にとって、あそこの棚を何本取れるかは小さい話じゃない。去年、営業がずっと落とせなかった相手だ。
「詩織さんっていうんだ。今年の二月の展示会の懇親会で紹介してもらって、それから何度か」
二月の展示会。わたしも行っていた。彼が途中でいなくなったのを覚えている。どこへ行っていたのか、いま分かった。
「向こうのお父さんが、俺を気に入ってくれてて」
彼はグラスを回した。
「向こうと組めれば、北関東の棚は違ってくる。……部長の話も、現実味が出る」
そう。
「いい子なんだ、本当に。悪い子じゃない」
そう。
顔は知っていた。懇親会で、遠くから見ただけ。肌のきれいな人だった。ヴェールなんて必要ない肌だ。きっと、深夜二時に原価表を開いたりしない。
そう考えている自分に気づいて、膝の上で指を組み直した。
「会社では、けじめをつけたいと思ってる」
うん。
「でも」
彼はわたしの手を取った。
「君とは、今まで通りでいたい」
今まで通り。夜中のチャット。五分で終わる資料の話。服に伸ばした手を止められること。あと三時間。あと二時間。彼が言っているのは、そのことだ。そのことを、彼は「今まで通り」と呼んでいる。たぶん彼は、それを優しさだと思っている。
その瞬間、わたしの中で、ずっと鳴っていた音が消えた。
返事はしなかった。鞄から鍵を出して、テーブルに置いた。
かちゃ、と小さい音がした。
「え、ちょっと」
彼が何か言っていた気がする。覚えていない。
◇◇◇
退職の意向を伝えたとき、神谷部長は「そう」とだけ言った。引き止められると思っていた。理由くらいは聞かれると思っていた。聞かれなかった。
「引き継ぎは、できるところまでやります」
「お願いね」
それだけだった。
資料は全部作った。手順も、権限の一覧も、月次の流れも。試算は担当者と一度動かした。条件が変わったとき、何を優先して組み直すか。そこだけは三日かけても書き切れず、判断が必要になる項目を残した。
最終出社日、部長が部屋まで来た。
「次のところ」
言いかけて、自分で首を振った。
「行き先は聞かないわ」
はい、と答えた。聞かれたら言うつもりだった。競合だから、言いにくくはあったけれど。
部長はドアの前で一度止まって、こちらを見ないまま言った。
「三年、待たせたわね」
「……はい?」
何を、三年。答えはなかった。部長はそのまま出ていった。
榊さんはその日、出張だった。会わずに済んだ。
◆◆◆ 榊直人 ◆◆◆
佐倉が辞めて一か月、俺はまだ、何を失ったのか分かっていなかった。
最初におかしいと思ったのは、月次の資料に数字だけが並んでいたときだ。増減の理由も、来月の対策もない。部下に聞いた。
「それ、佐倉さんがやってました」
「じゃあ、このまま会議に出せっていうのか」
「集計はできています。対策は、課長に判断をいただくようにと」
会議でも同じことが起きた。初回ロットの話で、役員から原価率を聞かれた。
「それは、佐倉が」
言いかけて、口を閉じた。もういない人間の名前を出してどうする。
「確認して、後ほど提出します」
夜になっても、誰も残っていない。二十二時にコンビニへ行く癖だけが、残っていた。
二十二時。佐倉にチャットを送っていた時間だ。
◇◇◇
試算の仕組みが止まったのは、十二月だった。原料の値上げを入力すると、条件を満たす処方がないと出る。中身を開いた。一行も読めなかった。
情報システム部へ行った。小柳さんは面倒くさそうな顔もせずに、俺の画面を覗いた。
「ああ、これ。佐倉さんのやつですね」
「直せますか」
「コードは直せます。ただ、原価の上限を変えていいんですか」
小柳さんは眼鏡を上げた。
「上限を守るなら、処方かロットを変えることになります。何を変えるかは、企画で決めていただかないと」
「じゃあ、そういうのが分かる人を回してもらえませんか」
「うちにもいません」
きっぱりしていた。
「業務を分かってて、それをこっちの言葉に直せる人ですね。すぐ採れる人じゃありません。私、十五年ここにいますけど、めったに見かけません」
小柳さんは画面を閉じた。
「その一人が、佐倉澪さんです。この秋に辞めましたけどね」
責める口調ではなかった。事実を言っているだけだった。だから、何も言い返せなかった。
ヴェール2の企画は、三回差し戻された。三回目に、役員が言った。
「絵は綺麗なんだよ。でも、これ本当に作れるのか」
作れるかどうかを、俺は言えなかった。
その夜、古い資料を漁った。ヴェールの初期案。競合分析。処方の比較表。どのファイルも、更新履歴の作成者名は同じだった。時刻を見た。一時四十分。二時十二分。一時五十八分。二時三十分。
コメント欄に、佐倉の指摘が残っていた。
「ここ、この表現だと薬機で引っかかります。差し替え案を三つ置いておきます」
「原価、卸の条件を織り込むと〇・八ポイント上がります。修正版に上書きしました」
全部、深夜だった。なぜ深夜なのか。俺はそれを、佐倉が仕事熱心だからだと思っていた。
思っていた、というのは嘘だ。俺は何も思っていなかった。朝には出てくるものだと思っていた。
画面を閉じた。
三年目の秋のことを、そこで思い出した。秋物の企画で、俺の案と佐倉の案を並べた。会議に出す前に、二人で見比べた。佐倉の案のほうが、明らかによかった。
その夜、俺は天井を見ていた。眠れなかった。三時に起きて、水を飲んで、また横になった。翌朝、会議で俺は自分の案を出した。佐倉の中身を混ぜて。名前は出さなかった。出さないと決めた覚えはない。口が勝手にそうなった。
角が立つから、と後から自分に言った。その言い訳を、俺はそのあと四年間、毎回考え続けた。
守っていたわけじゃなかった。
一度もなかった。
◇◇◇
年が明けて、詩織と結婚した。
詩織は俺を、業界でいちばん誠実な人だと思っている。誰かがそう言っていたらしい。俺の帰りが遅い日でも、起きて待っている。先に寝てていいと言っても、寝ない。
朝、洗面所でヴェールを塗りながら、詩織はよく言う。
「これ、ほんとにいいの。夕方まで崩れないし、肌も荒れない」
実家の店で、いちばん目立つところに置いてある。
「直人さんが作ったんだよね」
鏡越しに、そう聞かれる。
「そうだよ」
俺はそう答えている。何度も。なぜ答えられるのかは、考えない。
義父になったハルナドラッグの社長も、俺によくしてくれる。会うたびに肩を叩く。棚の話も、向こうから出してきた。
誰も、俺を責めない。一人もいない。
一度、神谷部長に相談した。
「佐倉が抜けてから、企画が回らなくて」
「そう」
「どうすればいいと思われますか」
「まず、あなたの案を持ってきて」
書類から目も上げなかった。
その夜、チャットの画面を開いた。佐倉とのやりとりが、まだ残っている。
「起きてる? 明日の資料、ちょっと見てくれない?」
最後の一件は、去年の十月だ。しばらく指を止めて、画面を閉じた。何を送るつもりだったのか、自分でも分からなかった。
◇◇◇
次の年の二月、業界の展示会があった。佐倉が辞めてから、一年と四か月。視察の名目で、幕張へ行った。社内にいたくなかっただけだ。二年前、詩織と引き合わせてもらった懇親会も、この会場だった。
入口でパンフレットをもらって、セミナーの一覧に目を落とした。名前があった。
佐倉澪。ルミナ・コスメティックス、商品企画部。演題は「制約から始める商品企画」。
会場は満席だった。後ろの壁際に立った。
壇上の佐倉を見て、最初に思ったのは、誰だこれ、だった。
服が違う。七年間、俺が見ていたのは、紺かグレーの、体の線が出ない服だった。今の佐倉は、自分に似合うものを知っている人間の服を着ている。化粧もそうだ。うちにいた頃のは、会社員の顔だった。今は、自分の顔として作っている。
話し始めると、もっと違った。声の出し方。間の取り方。
途中、佐倉が何か言って、会場が笑った。百人以上が、いっせいに。七年間、俺の前で佐倉があんなふうに笑ったことは、一度もなかった。
腹の底が、勝手に重くなった。惜しいことをした、と思った。
次の瞬間、自分がいま何を考えたのかに気づいて、口の中が乾いた。惜しい。俺が惜しんでいるのは、佐倉が幸せそうなことじゃない。あれが俺のものじゃなくなったことだ。
昔、佐倉が服に手を伸ばそうとした。何度も。そのたびに、俺は後ろから抱き寄せて、押し倒した。力は入れていない。じゃれるような手つきだった。それで佐倉は、いつも起き上がるのをやめた。俺はそうやって、佐倉の半拍を全部黙らせてきた。
壇上の佐倉には、その手が届かない。
質疑応答になった。前の席の男が手を挙げた。
「大変勉強になりました。これは、御社に来られてから作られた仕組みなんでしょうか」
佐倉はマイクを持ち直した。
「いえ」
一拍あった。
「七年かけて覚えたことです」
それだけだった。会社名も、誰のためだったかも、言わなかった。その七年に何があったかを知っているのは、この会場でたぶん俺だけだ。
拍手が起きた。目は合わなかった。向こうは客席を見ていなかった。
俺は会場を出た。通路で、神谷部長と行き合った。部長も来ていた。なぜ来ていたのか、聞かなかった。何か言わなければいけない気がした。
「……優秀な後輩でした」
部長は、何も言わなかった。
◇◇◇
四月の人事で、神谷部長が役員に上がった。取締役商品本部長。女性では二人目。俺が、商品企画部長になった。
昇進の祝いを、役員がひとり出してくれた。営業畑の常務。二年前の役員会でヴェールを褒めた人だ。
「よかったな。三十六で部長は、うちじゃ早いほうだ」
「ありがとうございます」
「ハルナドラッグさんと縁ができたのは大きいよ。北関東、うちはずっと弱かったからな」
はい、と答えた。そのために結婚した、とは言わなかった。
「まあ、正直なことを言うとな」
常務はグラスを置いた。
「あの椅子、もう一人候補がいたんだ」
「そうなんですか」
「佐倉くんだよ」
箸が止まった。
「……佐倉が、ですか」
「当たり前だろう」
常務は笑った。おかしそうに。
「見てる人間は見てるよ。君の名前で出てくる企画の中身が、誰の手で作られてるかくらい、二十年もこの会社にいれば分かる。分からんと思ってたのか」
何も言えなかった。七年間、俺は彼女の名前を出さなかった。角が立つから、と言って。役員には、見抜かれていた。
「じゃあ」
声がうまく出なかった。
「じゃあ、なぜ佐倉じゃなかったんですか」
常務はグラスを持ち上げて、少し傾けた。
「あの子は辞めるとみんな思ってたからな」
「なぜです」
答えは返ってこなかった。常務は氷を鳴らして、店の壁のほうを見た。
「まあ、ハルナドラッグさんとの縁は大きいよ。営業も助かってる」
話は、別のところへ行った。俺は箸を持ったまま、動けなかった。
俺とのことも、知られていたのだろうか。俺がよそへ行けば、佐倉は辞める。そう見られていたのだとしたら。
棚だけじゃなかった。
俺は、俺より優秀な候補を、自分でこの会社から追い出した。
店を出たあと、会社に寄った。エレベーターホールで、神谷さんと行き合った。もう部長ではない。役員だ。
「おめでとう、榊くん」
「……ありがとうございます」
言おうか迷って、結局言った。
「神谷さんも、佐倉は辞めると思っていたんですか」
神谷さんは表情を変えなかった。
「ええ」
「なぜ、ですか」
「三年前から、あの子は残らないと思っていた」
少しだけ、間があった。
「役員会で聞かれたから、そう答えた。それだけ」
何も言えなかった。
「あの子の資料の更新時刻、見たことある?」
答えられなかった。一時四十分。二時十二分。一時五十八分。
「わたしは毎朝見ていたわ。三年間」
エレベーターが来た。神谷さんは乗り込んで、閉まるボタンに指をかけた。それから、思い出したように顔を上げた。
「この前、展示会で言ってたわね。優秀な後輩でした、って」
「……はい」
「二十五年前にも、同じことを言った人がいたのよ」
その先を、俺は待った。
「わたしのときは、わたしの企画を持っていった人が、そう言ったの」
「……何の企画だったんですか」
「通販。店を持たずに売る、っていう」
扉が閉まりかけた。
「その人、去年、惜しまれて辞めたわ」
閉まった。
俺は、動かない扉をしばらく見ていた。止められたわけじゃない。あの人は、何もしなかっただけだ。
◇◇◇
十月、ハルナドラッグの本部へ行った。来春の棚の商談だ。義父が顔を出してくれると聞いていて、正直、助かると思っていた。商談は和やかに進んだ。バイヤーも丁寧だった。
終わりがけに、義父が入ってきて、俺の肩を叩いた。
「よく来たな」
それから、思い出したように言った。
「そうだ。悪いな、直人くん」
「はい」
「ルミナさんの新しいの、うち、全店で出すことにしたよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「敏感肌用のやつだ。おたくのヴェールと真っ向からぶつかるところだけどな。あれは良かった。バイヤーが揃って推してきてね」
「……そうですか」
「悪く思わんでくれ。商売だからな」
バイヤーが来春の棚割りを差し出した。ヴェールの列は、半分になっていた。
「そこは、なんとか」
義父を見た。さっきまで俺の肩にあった手は、もう下りていた。
「売れる商品を持ってきてくれ。待ってるよ」
帰りの車で、自社のカタログを開いた。ヴェール2の欄は、まだ「開発中」のままだ。二年目になる。
ルミナの新商品を誰が作ったのか、義父は知らない。俺が結婚して取った棚に、佐倉の商品が並ぶ。
会社に戻ったのは十九時過ぎだった。席に、四半期の資料が回ってきていた。通販の売上構成比は、相変わらず四割を超えている。
来週、俺がこれを読み上げる。
営業から、棚の縮小を織り込んだ売上見込みも届いていた。減収分の回復計画を、次の役員会までに。責任者欄には、俺の名前があった。
ヴェール2は止まったままだ。資料の空欄を開く。
今度は俺が、数字を出さなければならない。
◇◇◇
十一月の初め、外まわりの帰りに、会社の裏の通りを歩いていた。ガラス張りの店に、二人いた。神谷さんと、佐倉だった。
佐倉が何か話していて、神谷さんが声を出して笑っていた。俺は七年、あの人が笑うところを見たことがなかった。佐倉の前には、うちのじゃない化粧ポーチがある。二人でそれを覗き込んで、また笑った。
神谷さんが顔を上げた。目が合った。一秒くらい。それから、何事もなかったように視線を戻して、佐倉の話の続きを聞いていた。
佐倉は、最後までこちらを向かなかった。
誰も、俺を責めない。
一人も。
◆◆◆ 佐倉澪 ◆◆◆
辞めてから初めて神谷さんに食事に誘われたとき、わたしは聞いた。
「三年、待たせたって。知っていて、なぜ何も言ってくれなかったんですか」
神谷さんは、カップを置いた。
「あなたが自分で離れるまで、と思っていた。仕事の評価まで黙っていた言い訳には、ならないわね」
「待ちたくなかったです。わたしは」
「ええ。ごめんなさい」
その日は、次の約束をしなかった。ひと月後、新しい職場の話をしたくなって、わたしから誘った。
それから月に一度、会っている。十一月の初めも、会社の裏のガラス張りの店だった。
配布が始まった新商品のサンプルをポーチから出すと、神谷さんが急に顔を上げた。
「どうしました?」
「なんでもない」
そう言って、また笑った。この人の笑い方は、見ているだけでいい。
サンプルを手の甲に伸ばして、神谷さんが言った。
「これ、あなたが名前を決めたの」
「はい」
北関東のチェーンが、来春から全店で出してくれる。その売り場を、見に行こうと思っている。
十二月。今朝は休みなのに、早く目が覚めた。鏡の前で、新しい口紅を開けた。誰とも約束はしていない。この色をつけて出かけたかった。
いま、わたしの企画には、わたしの名前がついている。七年かかった。それだけのことに。
作品を読んでいただき、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけましたら、ブクマ・評価で応援していただけると嬉しいです!




