「俺の彼女なんだから、その笑い方やめろ」と言われたのでその彼女、今日でやめます
「その笑い方、ちょっと引くんだけど。彼女なんだからさ」
怜央が私の耳元で囁いたとき、机の向こうでは環がまだ机に突っ伏して笑っていた。
環はクラスで一番気の合う女友達だ。昼休みには一緒にお弁当を食べ、帰ってからもどうでもいい写真を送り合っている。
文化祭まであと二週間。放課後の教室には切りかけの段ボールとお菓子の袋が散らばっていて、さっきまでみんな腹を抱えていた。相田史也の描いた案内図の猫が、教室の入口から出口まで異常な長さで伸びていたせいだ。
「これ、胴体の途中にも足つけとかなくて大丈夫なわけ?」
環が指さすと、史也は大まじめな顔で返した。
「足増やしたら別の生き物じゃん。猫なんだから四本で耐えてもらわないと」
耐えるとかそういう問題じゃない。
また吹き出しかけて、私は隣の怜央を見た。眉間に寄ったしわが目に入り、慌てて口元を手で押さえる。飲み込んだ息が喉の奥でつっかえた。
「ねえ、人前なんだからもうちょい普通に笑えないの?」
「……ごめん」
喉の奥で小さく呟くと、怜央はすぐに自分のスマホへと視線を落とした。向かいの史也が怪訝そうにこっちを見ていたので、私は余っていた紙コップを無駄に重ねてごまかした。
史也とは小学校からの腐れ縁だ。昔から、私が気まずい思いをしているときに限って、変に目ざとい。
「ほら、これ見て。昨日送ったやつ」
怜央がスマホの画面を環たちに向けた。環は猫の絵を眺めたまま「あー、うん」と気のない相槌を打っていたけれど、私は動画のサムネイルを見て慌てて会話に入った。
「あ、これ面白いよ。後半、犬が戻ってくるとこがすごい笑えるの」
怜央が私に教えてくれた動画だった。みんなが画面をのぞき込み、怜央が満足そうに口元を緩める。犬が戻ってくる一番面白い場面で、私は重ねた紙コップの縁を親指の爪でカリカリとなぞっていた。
笑っちゃいけないって分かっているから、画面は見ないようにした。
付き合い始めた四月には、同じ動画を何度も再生して二人で涙が出るほど笑ったはずだった。私が息を吸う変な音に怜央がつられて、あの日の夜は顎が痛かったのを覚えている。
最初に言われたのは、その少し後だった。公園のベンチでスマホを見ていたとき、通りかかった他校の生徒がこっちをチラッと見た。その瞬間、怜央が私の膝をピシッと叩いたのだ。
『声、でかいって。女子があんな笑い方すんの、正直きついよ』
言われた瞬間、サーッと血の気が引いた。嫌われたくなくて、次から気をつけるね、と笑って取り繕った。
六月には教室で『俺の彼女なんだから、頼むから恥ずかしい思いさせないで』と言われた。昼休みで、周りもみんなうるさかったのに。その日の帰り道、恥ずかしいって言われるの、普通にショックなんだけど、と勇気を出して言ってみた。
怜央は呆れたように笑って『じゃあ普通に直せばよくない?』と返してきただけだった。
家に帰ってから検索した。『笑い方 上品にする方法』『口を開けない笑い方』。鏡の前でぎこちなく口角を上げてみて、途中で自分が惨めになってやめた。その代わり、笑いそうになったら手で顔を覆う癖だけがついた。
その日の片づけ中、史也がカッターの刃をカチカチと戻しながら、ぽつりと言った。
「小森、なんか最近、笑い方変じゃね?」
「え? そう? 普通に笑ってるじゃん」
「途中で急に息止めるから。何、あの猫そんなにスベってた?」
「スベってたっていうか、あれは普通にひどいよ」
「そこは認めるんだ」
史也が困ったように笑うので、つられてまた吹き出しそうになった。隣の席はもう誰もいないのに、私はびくっとして反射的にそっちを警戒してしまった。
史也は何か言いかけて、パチンと道具箱の留め金を鳴らした。
「これ、棚の上乗っけとく?」
「うん。……ありがと」
深く突っ込まれなかったことに安堵して、そんなことでホッとしている自分が酷く惨めだった。
二日後、私たちは教室の後ろでダンボールの文字を切り抜いていた。
休憩に入ったところで、環が「ちょっとこれ見てよ」とスマホを突き出してきた。昨日の夜、弟にあの胴長猫の話をしたら、対抗して描いてきたらしい。猫の背中に駅が三つあった。
「弟、これ路線図にしちゃったんだけど」
「待って、乗れるのそれ」
「急行は尻尾止まんないらしい」
もう耐えられなかった。環の淡々とした解説がツボに入って、私は椅子の背もたれに倒れ込みながら思いきり吹き出してしまった。
お腹が痛い。環の弟、会ったこともないのに天才すぎる。
「……ねえ、何回言えばわかんの? マジで恥ずかしいんだけど」
低く冷めた怜央の声が降ってきて、咄嗟に手が口元へと跳ね上がった。
環のスマホの画面では、急行列車が猫の尻尾を通過している。ほんの数秒前まであんなに息ができないほどおかしかったのに、私の体は反射的に「ごめん」と言おうとしていた。
そのとき、ふと分からなくなった。
この半年、私は怜央の前で、いつ最後に思いっきり笑ったんだっけ。
何か面白いことがあるたびに彼の機嫌を伺って、喉を締めつけて、声を押し殺して、失敗したら小さくなって謝って。怜央と会えるのが嬉しくてたまらなかったのは、最初の数週間だけだ。最近はずっと、家に帰って玄関の鍵を閉めた瞬間に、やっと口元の筋肉がだらんと緩むような毎日だった。
私は、口元に当てていた手を、ゆっくり膝へ下ろした。
「ねえ怜央。……もう、別れよ」
怜央は怪訝そうに眉をひそめ、鼻で短く笑った。
「は? 何言ってんの。ちょっと注意されたくらいで大げさすぎ」
「六月のときも嫌だって言った。傷つくからやめてって。直せばいいじゃんって言われたけど……もう無理。笑うたびに怒られるの、ほんとに疲れた」
最後の方は息が震えて、声がうまく出なかった。環がスッとスマホの画面を伏せる。聞かれてしまったと分かって耳がカーッと熱くなったけれど、もう言葉を飲み込むのは嫌だった。
「ちょっ、今ここで言うことじゃなくない? あとで話そうって。実花さ、俺の彼女としての自覚がちょっと――」
「だから、その彼女やめるって言ってんの」
机の上のハサミと筆箱を両手でわしづかみにした。立ち上がったとき、ガタッと椅子が耳障りな音を立てて倒れそうになり、反射的にまた謝りそうになるのを奥歯で噛み殺した。私は椅子を引きずって、環の隣まで歩いた。
「環、こっちでやっていい?」
「……うん。ここ、ゴミどかすね」
環が黄色の画用紙の端を寄せてくれた。私はハサミを握り直して切り抜きを再開したけれど、指先がガタガタと震えて、文字の角を斜めに切り落としてしまった。
かっこよく言い切ったつもりなのに、手元は全然ついてこない。
床に落ちた画用紙の切れ端を拾おうとかがんだら、環が無言でセロハンテープの台を目の前に差し出してくれた。そのそっけない優しさに触れた瞬間、視界がぐわっと歪んだ。
ここで泣いたら、ただのヒステリーだと思われて全部がうやむやになる。私は唇を噛んで、黄色い紙の繊維だけをじっと見つめ続けた。
その日の夜、怜央から何事もなかったかのように面白動画のリンクが送られてきた。
既読をつけずに放置していると、数分後に『まだ怒ってんの?笑』と通知が来た。私は画面を睨みながら、文字を打っては消し、最終的に『本気で言ってる。もう無理だから。これからの連絡はクラスの全体LINEにして』とだけ送った。
返信を待っていたら、また「大げさだ」「お前のためを思って言ったのに」と丸め込まれそうで怖くて、指が震えるまま個人トークをブロックした。スマホをベッドに投げ出した瞬間、手のひらがじっとりと汗ばんでいることに気づいた。
翌日の放課後、怜央が私の机のほうへ歩いてくるのが見えた。けれど私の隣にはすでにダンボールが高く積んであって、環が仁王立ちでそれにガムテープを貼っていた。
「実花。昨日のLINE、何あれ」
「書いてあった通りだけど」
「は? マジであんなくだらないことで別れる気?」
私がハサミを止めて無言で見上げると、怜央はあからさまに苛立ったように首の後ろを掻いた。
「篠原もなんか言ってやってよ。俺、別に間違ったこと言ってないだろ? あんなゲラゲラ品のない笑い方されたら、周りだって普通に引くじゃん」
「別に引いてないけど」
環は手の動きを止めず、視線すら怜央に向けなかった。
「てか、そんなこと言われてたんだ。昨日初めて知ったわ」
「いや、だから俺が気遣って二人きりのときに言ってやって――」
「小森に文句言ってこいとか、頼んだ覚えないけど」
ダンボールの山を支えていた男子が、鬱陶しそうに顔を上げた。怜央が普段、よく一緒に購買へパンを買いに行っているクラスメイトだった。
「お前だってツボ入ったら声デカいだろ」
「は? それとこれとは話が別だし。彼女なんだから、身内として――」
「だから、俺らをダシにすんなって言ってんの」
怜央が言葉に詰まり、居心地悪そうに周りを見回したあと、すがるように私を見てきた。
『言い方がキツかっただけなんだよね』『みんなもそんな怒らないで』って、いつもなら私が間に入ってフォローしていた。怜央の失言で空気が凍るたびに、冗談めかして場を取りなしてきたのは私だった。帰り道に『実花がいて助かったわ』って頭をポンポンとされるのが、どこかで誇らしかったりもしたのだ。
でも今は、ただハサミを握り直した。切り損ねた画用紙の裏に、無言でテープを貼る。
怜央はしばらく突っ立っていたけれど、誰も助け舟を出さないと分かると、舌打ちを一つ落として自分の席へ戻っていった。
帰り際、下駄箱のところで環が私のブレザーの裾をクイクイと引っ張った。
「昨日、いきなり席移ってきたとき、テンパっててあんま気の利いたこと言えなくてごめん」
「ううん。全然。ずっと平気なフリしてた私のせいだし」
「肉まん食べて帰ろ。今日は私の奢り」
環が先に歩き出し、私は小走りで追いついた。コンビニのイートインで食べた肉まんは、敷き紙が底の皮にべったりくっついてうまく剥がれなくて、それだけのことがどうしようもなく情けなくてボロボロ泣いた。環は鞄からポケットティッシュを出して、私の手に握らせた。
「ほら、鼻かんで。肉まんしょっぱくなるよ」
そう言って自分の半分を私のトレイに乗せてくれたので、私は鼻をすすりながら、ちょっと笑った。
文化祭までの残り一週間、なぜか史也と同じ机で作業する時間が増えた。
私が切り抜いた文字を、史也が案内板の木枠へまっすぐに貼り付けていく。あの奇怪な胴長猫を描いたのと同じ人間とは思えないくらい、史也の手元は器用で几帳面だった。定規を当ててじーっと見ていたら、史也が露骨に嫌そうな顔をした。
「……何その目。絶対また猫のこと思い出してるだろ」
「いや、同一人物の手とは思えなくて」
「一生擦るな、そのネタ」
思わずプッと吹き出しそうになって、反射的に両手で口元を塞いだ。私のその動きを見て、史也の手がピタッと止まる。
「……喋らんほうがいい?」
「え? ううん、全然。何?」
「いや、小森、手元狂って『入』になっちゃってるから」
見ると、『入口』の『口』の枠線をまるまる切り落として、ただの『入』になっていた。枠ごとゴミ箱に捨ててしまったらしい。
「あ。『入れ』ってことにはなるかも」
「命令形にすんなよ」
史也が呆れたように笑いながら、足元のゴミ袋をガサゴソと漁って、私が捨てた四角い紙屑を拾い上げてくれた。
喉の奥で、ククッと自然に声が漏れた。
もちろん、毎日平気だったわけじゃない。廊下の向こうから怜央の笑い声が聞こえてくると、心臓が跳ねて肩がこわばった。史也と二人で資材を運んでいるときに怜央とすれ違うと、ものすごく気まずくて下を向いた。
そういうとき、史也は「ペン足りねーな」とか「今日何時まで?」とか、どうでもいい業務連絡しか言わなかった。変に慰めてこないし、無理に笑わせようともしてこないから、私も愛想笑いを作らずに済んで、それが本当に楽だった。
前々日の放課後、ペンキを塗った板を乾かすために窓際へ並べていたとき、史也が「そういえばさ」と外を眺めながら言った。
「小森、小6の文集でさ。『将来の夢:給食のおばちゃん』って書いてたよな」
「ちょっと、なんで覚えてんの。揚げパン毎日タダで食べられると思ってたの」
「マジでアホだよな。俺は大工って書いたけど」
「覚えてるよ。家の絵描いてたでしょ。屋根が玄関のドアノブくらいまで下がってるやつ」
「雨風には最強の設計だから」
低すぎる屋根の形を手で再現したら、史也が窓ガラスの方を向いたままフッと肩を揺らした。
「あの文集配られたときさ、お前が真っ先に吹いたんだよな。で、つられて周りも笑い出して、最後は担任まで笑ってた」
「……ごめん。からかわれたみたいで嫌だった?」
「全然。つーか俺もおかしくなって一緒に笑ってたし。なんか、お前が笑うと釣られんだよな、昔から」
史也は乾きかけの板を見つめたまま、独り言みたいに言った。私は自分の指先についた黄色のペンキを親指でこすった。
「怜央は、それが嫌だったんだと思う。『女子のくせに下品』って」
「あいつの趣味とか知らねーよ。俺はいいと思うけど」
あまりに雑で、あまりに即答だったから、一瞬何を言われたのか分からなかった。
心臓がドクッと跳ねて顔を上げると、史也はペンキの乾き具合を確かめるフリをして板の端をつついていた。まだ乾いていなかったらしく、指先にべっとり黄色がついて「うわ、最悪」と小さく毒づいている。
さっきまであんなに器用に避けてたのに。
「……これ、あと十分は乾かないわ」
「……うん。乾かないね」
急に沈黙が重くなって、窓ガラスに映る自分の顔も見られなくなって、私は意味もなくダンボールの切れ端を並べ替えた。
文化祭当日、切り落とした『口』を補修した案内看板はしっかり役目を果たし、展示は大盛況で終わった。
最後の客が退場して、後片付けが始まった夕方。教室の後ろには、最後まで作業に残っていたいつものメンバーが集まっていた。
ゴミ袋をまとめていた史也が、机の隙間からくしゃくしゃになった大きな模造紙を引っ張り出した。
「あ、これ。もらって帰っていい?」
広げられたのは、あの最初の胴長猫だった。環が描き直したせいで、ずっと机の奥に突っ込まれていたやつだ。
「え、持って帰るの? 愛着湧いちゃった?」
「いや、姉貴に見せたら『写真じゃ画角に収まらないから現物持ってこい』って言われて」
「現物支給される長さの猫って何なの」
環のツッコミに、ついに堪えきれなくなった。史也がシワを伸ばそうとすればするほど、猫の胴体にある謎の折り目が浮き彫りになっていく。
私は机に両手をついて、喉の奥から声を上げて笑った。お腹が捩れそうで、息を吸うたびに変な音が出て、目尻に涙が滲んだ。手で顔を隠すのなんて、完全に忘れていた。
「……俺の前では、一回もそんな笑い方しなかったじゃん」
凍りつくような声がして、教室の空気がスッと冷えた。
顔を上げると、ゴミ袋を持った怜央が、数歩離れたところで私を睨みつけていた。さっきまで自分の班の連中と談笑していたはずなのに、その顔は信じられないくらい歪んでいた。
「相田といると、そんなに楽しいわけ?」
責め立てるようなトーンに、一瞬だけ背筋がヒヤッとした。でも、口元を隠すために手は動かなかった。私はまっすぐに怜央を見た。
「……笑うたびに、やめろって言ったの怜央じゃん」
「あんなの、ちょっとは自重しろって冗談半分で言っただけだろ。普通そこまで真に受ける?」
「冗談なわけないでしょ。『彼女として恥ずかしい』って、みんなの前でも言ったじゃん」
「それはっ……!」
怜央が言葉に詰まり、周りの視線を気にしてチラチラと目を泳がせた。私はもう、止まる気がしなかった。ここで黙ったら、またあの『息を止めて笑う自分』に逆戻りしてしまう。
「ずっと顔色見てたんだよ。面白いことがあっても、怜央が嫌な顔してないか真っ先に確認して、喉詰まらせて……。今日、さっきまで、そんなこと一回も思い出さなかった」
声が震えていたけれど、自分でも驚くくらいはっきりと言い切っていた。怜央は持っていたゴミ袋をドサッと床に落とした。
「だから! 俺はお前のために言ってやったんじゃん! 彼氏なんだから、人前で恥かかせたくないと思うの普通だろ!?」
「だから、その彼氏面が迷惑だったって言ってんの」
冷たく言い放ったのは、私の横にいた環だった。
環は自分のスクールバッグを肩にかけると、怜央を底冷えのする目で一瞥した。
「自分の好みを押し付けて彼女いびってただけのくせに、何被害者ぶってんの? マジで見苦しいんだけど」
「篠原には関係ないだろ! 実花、頼むから一回話そうって。俺が悪かったよ、言い方は悪かった。だからもう笑っていいから、戻ってこいよ」
怜央が一歩詰め寄ってきた。
『もう笑っていいから』
その言葉を聞いた瞬間、胸の中に残っていた最後の未練みたいな澱が、すうっと冷えて消えていくのが分かった。
「……許可取って笑ってたわけじゃないよ」
「え?」
「もう笑ってる。怜央に言われなくても、ずっと前から」
私は自分の頬に触れた。思いっきり笑いすぎて、まだじんじんと熱い。
怜央の許しなんかなくても、私は環や史也の隣で、とうに息が切れるほど笑えていたのだ。
「もう二度と戻らない。じゃあね」
怜央の顔からサッと血の気が引いていくのが見えた。彼は何かを言いかけて、でも周りの男子たちの冷ややかな視線に気づいて、口をパクパクと動かしたあと、ぐしゃぐしゃになった猫の紙に視線を落として俯いた。
私は一度だけ小さく息を吐き、自分の鞄を持った。
大丈夫だよとか、ごめんねとか、反射で出そうになるクッション言葉は、もう喉のどこにも残っていなかった。
「帰ろ、環」
「うん。お腹すいた」
教室を出て階段を降りる。後ろから史也が小走りで追いついてきて、特に何も言わずに私の隣の定位置に収まった。
階段の踊り場で、私は環に「明日の代休、何時まで寝る?」と聞いた。環が「夕方まで一歩も動かない」と即答して、また三人で笑った。今度は誰も、耳元で文句を言ってくる人はいなかった。
週明け、怜央が私に話しかけてくることはなかった。
廊下ですれ違っても目を逸らされたし、昼休みに私たちが騒いでいても、睨んでくることすらなくなった。教室の隅で小さく息を吸い込む癖は、少しずつ消えていった。
木曜日の放課後、買い出しの残りを片付けたあと、史也と二人で並んで駅へ向かった。
夕方の冷たい空気の中で、史也があの猫の絵のその後を話してくれた。冷蔵庫に貼ろうとしたら横幅が足りなくて、結局自室の鴨居から吊るされているらしい。
「部屋入るたびに猫のケツに頭ぶつかるんだよな」
「それ、ただのトラップじゃん」
私が笑うと、史也は嬉しそうに目を細めた。そして、駅の手前のコンビニの前で、急に立ち止まった。
「小森」
「ん?」
振り返ると、史也は右肩の鞄をなぜか左肩に掛け直して、それからもう一度右肩に戻すという謎の反復横跳びをしていた。耳の先が、夕焼けのせいだけじゃなく赤くなっている。
「……あのさ。俺、小森と付き合いたい」
駅へ吸い込まれていく人の波の中で、その声だけがやけにクリアに耳に届いた。
あまりに直球で、心臓が跳ね上がって言葉を失った。あのペンキの日の夕方がフラッシュバックして、カッと顔に血が上る。
「あ、いや、今すぐどうこうしろってアレじゃなくて! なんか……その、明日も一緒に帰れたらいいなっていうか、そういう――」
「明日も一緒に帰りたい」
史也の言葉を遮るように、私の口から勝手に声が飛び出していた。
史也が目を丸くして固まる。私は両手で鞄の持ち手をぎゅっと握りしめて、震えそうになる息を整えた。
「……私も、史也のこと嫌いじゃないし。文化祭終わったら一緒に残る口実なくなるの、普通に嫌だった」
「……マジで?」
「マジ。看板の板、もう一枚くらい壊れればいいのにって思ってた」
「俺も思ってた。もう一匹猫増やすか、みたいな」
「やめて。廊下が猫で埋まる」
思わず吹き出すと、史也が脱力したように前髪をくしゃっとかき上げた。
「……あー、死ぬかと思った。心臓止まる」
「大げさだなあ」
「大げさじゃねーよ、めっちゃ練習したんだからな、昨日家で」
「誰相手に? 猫?」
「猫」
真顔で即答されて、もう我慢できなかった。「あはは!」と声を出して笑うと、史也も観念したように笑い出した。
笑いすぎて上がりかけた右手を、途中で止める。
そしてそのまま、隣にあった史也のブレザーの袖口へ伸ばした。指先が触れると、史也の手がビクッと跳ねて、それから少しぎこちなく開いた。私はその隙間に、自分の指を滑り込ませた。
史也の指が、折れそうなほど優しく、でも力強く握り返してくる。男子の手は、思っていたよりずっと大きくて、驚くほど熱かった。
「……日曜さ」
史也が改札の前で足を止めて、繋いだ手を見つめたままボソッと言った。
「駅前のクレープ屋、行かない? なんか期間限定のやつあるらしいから」
「いいね、行く。あれでしょ、いちごのやつとスペシャルチョコだっけ」
「そう、それ。……半分こしよーぜ」
「史也、甘いのいける口だっけ?」
「小森が食うなら食う」
なんだそれ。
顔を見合わせたら、また同時に笑ってしまった。
私はもう口元を隠さなかったし、史也も少しも顔をしかめなかった。
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