第12話 私の話を、私の言葉で
ノートの一行目に、美咲はこう書いた。
娘の工作が金賞を取った日。
書いてから、しばらくペンを止めた。
何をされたかを並べるつもりで開いたのに、最初に思い出したのは、莉子が賞状を抱えて駆けてきた姿だった。
金賞、と口にしたときの声。
夫に先に言わないでと頼まれたこと。
いちごの大きなケーキを選ぶ、小さな指。
スマホから、あの夜の写真を探した。
三人で写った一枚を開く。肩が窮屈そうでも消さなかった写真。
あの日は、本当にうれしかった。
今となっては、写真を撮ったあとに健太が何をしたのか知っている。
けれど、莉子が笑っていた時間まで、なかったことにはしたくなかった。
美咲は続きを書いた。
夫が雑誌をどけてくれたこと。娘が眠ったあと、食器はやっておくと言ってくれたこと。
そこまで書いてから、休憩室の話へ進んだ。
言葉が出ず、同じところを何度も書き直す夜もあった。
「悲しかった」と書くだけでは、何が悲しかったのか、自分でも読み返して分からなかった。
もう少し考えて、夫に聞くことさえ怖かった、と書いた。
健太が、椅子のそばへ来た。
「それ、全部載せるの?」
「まだ途中」
「長くない? 最初に、何をされたか書いた方が」
美咲は顔を上げた。
夫はノートをのぞいていた。投稿をよく読まれる形に整えようとしている、その目をしていた。
「最初に、うれしかったことを書きたい」
「でも、それじゃ」
「私が書くから」
健太は椅子の背に手を添えたまま、黙った。
美咲はノートへ視線を戻した。
夫の意見を聞かなければ上手に書けない、と昨日までなら思ったかもしれない。
だが、何から話すかを決めるところまで、任せるつもりはなかった。
*
投稿の下書きには、写真を添えなかった。
娘の顔も、賞状に書かれた名前も、自分を信じてもらうために差し出したくなかった。
すでに出回ったものはある。
それでも、美咲の手で増やすものは選べる。
『「パパの休憩室」で、娘の作品を捨てたことにされていた妻です』
何度も読み返した。
この一文だけを見て、妻が言い訳を始めたと思う人もいるのだろうか。
怖くなり、続きへ目を落とす。
『私が知っていた夫は、娘が金賞を取ったとき、一緒に喜んでくれた人でした』
『だから、私にはなかなか聞けませんでした。あの優しい夫が、本当は私を嫌っていたらと思うと、怖かったんです』
由紀に見せてもらった写真のことを書いた。
ハート形のお好み焼きを、自分も喜んで食べたことを書いた。
訂正を求めたのに、居場所を取り上げた妻にされたことも。
夫が家事を一切していなかったとは書かなかった。
今後も必ず一緒に暮らすとも、もう別れるとも書かなかった。
分かっていることと、まだ決められないことを、無理に一つの結論にしないようにした。
公開ボタンの上で、指が止まった。
「……怖いな」
机の端に、莉子の絵があった。
手をつないだ三人。その下に、パパ、ママ、りこ、とある。
その絵を見て、家族だから黙っていた方がいいとは、もう思えなかった。
莉子が描いた母親を、夫が書いた悪い妻のままにしておきたくなかった。
美咲は投稿した。
少し後、健太の訂正投稿に案内が加わった。
『こちらは妻本人が書いた投稿です』
画面を確かめ、美咲はスマホを伏せた。
眠れなくなりそうでも、今夜はそれ以上読まないと決めた。
灯りを消す前に、ノートだけ、閉じずに置いておいた。
翌朝、玄関で靴を履こうとして、届いていたコメントを読んだ。
『優しかったときまで疑いたくなるの、つらいですよね』
『私も旦那さんの投稿を信じていました。ごめんなさい』
美咲は腰を下ろした。
息をつくと、一緒に涙が出た。
自分が書いたことを、読んでくれた人がいた。
夫についての怒りだけではなく、自分がうれしかったことも、怖かったことも。
「ママ、靴は?」
「あ……今、履く」
「泣いてる?」
「うん。ちょっと、ほっとして」
「ほっとしたのに?」
「そういうときも、あるんだよ」
莉子は不思議そうに見ていたが、少し待っていてくれた。
美咲は目元を拭き、靴に足を入れた。
*
数日後、美咲は休憩室で理恵に声を掛けた。
「少し、読んでもらえますか。私が書いたものなんです」
「藤沢さんが?」
理恵は差し出されたスマホを受け取り、一行目を読んだ。
顔を上げる。
「……あの奥さんって、藤沢さん?」
「はい」
由紀には話していた。
理恵には、まだ直接伝えていなかった。夫の写真や投稿から知る前に、できれば自分の言葉を読んでもらいたかった。
理恵は両手でスマホを持った。
途中で、指が止まった。
『職場の休憩室で、私はその投稿を見せてもらいました』
美咲は、相手を責める文章にはしなかった。
それでも、そこで何も言えなくなった自分を、省くことはできなかった。
「……私、あなたの目の前で、あんなこと」
理恵がスマホを返した。
「ごめんね。知らなかった。本当に、ごめんなさい」
美咲は湯飲みを両手で包んだ。
知らなかった。それは本当だろう。
でも、あの日の言葉がつらくなかったことにはならない。
すぐ気にしていないと笑わずに、少し間を置いた。
「読んでくれて、ありがとうございます」
由紀が、隣の椅子を引いた。
「二人とも、こっちおいで。お弁当、食べよう」
三人の前に、弁当箱が並んだ。
美咲は卵焼きを一切れ、口に運んだ。
冷めた卵焼きは、自分が朝につけた味がした。
*
その後も、美咲は少しずつ書いた。
夫のことを書かない日もあった。莉子のことを詳しく載せない日もあった。
『今日は、仕事中にスマホを気にせずにいられた』
その短い文章に、返事が来た。
『こういう日が来たって聞けて、うれしいです』
美咲は画面を見て、少し笑った。
何かひどい出来事が起こらなくても、書いていいらしかった。
数週間後、編集者を名乗る森川沙織から連絡が届いた。
投稿を読んだこと、経験を連載として書いてもらえないかということ。原稿料を含め、条件を相談したいとあった。
「私に……?」
食卓の向かいで、健太が顔を上げた。
「何?」
「連載にしませんかって。編集の方から」
画面を向けると、健太は金額の記載がないか探すように読んだ。
「お金、出るんだ」
「うん」
「やるの?」
美咲は、開いたノートを見た。
何度も消した跡がある。最初の一行は、今も娘が金賞を取った日の話だった。
「……やってみたい」
怖さは残っていた。
けれど、その返事をするために、夫のうなずきを待つことはなかった。





