第6話:特別な時間、あるいは失われた匂いについて
うたたねをしていたのだが、とても懐かしい匂いがして目が覚めた。
僕はベッドサイドの時計を薄目で確認した。深夜の2時を少し回ったところだった。しかし、完全に目が覚めたとたん、あれほど濃厚に僕の鼻腔を満たしていたはずのその匂いは、まるで幻影のように跡形もなく消え去ってしまった。
僕はベッドを降り、部屋の小さな冷蔵庫を開けた。中に入っていたペットボトルのお茶を取り出し、キャップをひねって喉に流し込む。冷たいお茶が喉を通る感覚だけが、夜の静寂の中で際立っていた。
一体何の匂いだったのだろう。
僕は再びベッドに転がり、何も見えない暗い天井を見上げながら考えた。
それは、休日の彼女の匂いだった。
彼女が僕の部屋に泊まった翌朝、彼女は決まって僕の使っているシャンプーで髪を洗った。そして、普段自分がつけている香水をほんの少しだけ、濡れた髪に混ぜるのだ。僕の部屋のシャンプーの匂いと、彼女の香水の匂いが混ざり合った、あの独特な、他には世界のどこを探しても存在しない香りが、深夜の部屋に漂っていたのだ。
浴室から出てきた彼女の、湿った髪から立ち上るその匂いに気がついて、僕が何をしているのか尋ねたことがあった。
彼女はタオルで髪を拭きながら、小さくほほ笑んだ。
「あなたと私の匂いを混ぜているの。こうすれば、いつもの日常と違う特別な時間になるのよ」
彼女はある程度乾いた髪を、持参したシュシュで器用に纏めた。
「なるほど」と僕は言った。「仲良しの猫も、相手に頭を擦り付けてお互いのにおいを混ぜることで、仲間だと認識するらしいよ」
「あら、そうなの?」
と言って彼女はコロコロと笑った。
本当に、あれはいつのことだったのだろう。
暗闇の中で記憶が奇妙に混濁してしまい、正確な輪郭を思い出すことができない。あるいはあの光景は、彼女と3年前に別れた後、僕の記憶の底で勝手に作り出された都合の良い幻想にすぎないのだろうか。
ええと、そうだ。思い出した。僕らは確かに3年前に別れている。そして彼女は今、遠いシンガポールにいるはずなのだ。
なら、何故彼女は1週間前に僕に電話をしてきたのだろう。あたかも次の休みにどこへ行こうかと、親しい恋人に相談でもするような自然な口調で。
そして僕の方も、何故何ひとつ違和感を持つことなく、その話を聞いていたのだろう。
そんなことを考えているうちに、僕の意識は完全に覚醒してしまった。
これ以上、彼女の答えのない謎について考えるのはやめることにした。僕は枕元に置いてあったあの小冊子を手に取り、手元を照らす小さな読書灯の明かりの下で開いた。
冊子の中に印刷されていたのは、現在の寂れた光景からは想像もつかないものだった。
そこにはピカピカに輝く観光牧場と、真新しいホテル、そして——優に100頭は超えるであろうペンギンたちの姿が鮮明に写し出されていた。
ページを進めると、あの「象の像」についての記述も少しだけ見つかった。
曰く、あの像はこの凍雲町に古くから伝わる「海の守り神」なのだという。
象が海の守り神だって?
大体、この凍雲町は海に接してすらいない。あるのはあの、羊の小舟で渡った小さな湖だけだ。
奇妙に思いながら、僕は小冊子をひっくり返して裏表紙を見た。そこには小さな文字でこう印刷されていた。
『発行:凍雲町町おこし振興会』
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そしてその下に記された発行日は、今から15年も前のものだった。




