第5話:大きな振り子時計、あるいは深夜のドライブイン
ポンプ男が重い鉄の扉を閉めたとたん、僕の世界が奇妙な歪み方をした。
視界からすべての光が奪われ、鼓膜の奥で奇妙な耳鳴りが響いた。重力そのものが一瞬だけその方向を見失ったかのような浮遊感の後、足の裏に床の固い感覚が戻ってきた。
目を開けると、そこはどうやらどこかのホテルのロビーのようだ。
床には深く落ち着いた色合いの絨毯が敷かれ、上品な革製のソファがいくつか並んでいた。しかし、そこに宿泊客の気配は全くない。ロビーの奥に、その空間には少々不釣り合いなほど大きな古ぼけた柱時計が置かれていた。目を凝らすと、針は9時すぎを指している。窓の外にはただ底のないような暗闇が広がっており、陽光が差し込んでいる気配はない。おそらく夜なのだろう。
東京を出てからここまでの間に起きた非現実の連続に、僕の頭と体はすでに限界を迎えていた。これ以上、事態の整合性を考えるだけのエネルギーは残っていなかった。
僕は重い足を前に進め、フロントのカウンターへと近づいた。熱心に帳簿に何かを書き込んでいた白いシャツに黒い蝶ネクタイとベストの制服を着たフロントマンが僕の気配に気が付き一瞬驚いたようだが、すぐに営業用の顔になり「ご予約のお客様ですか?」と聞いてきた。
僕は予約はしていないが今夜泊まれるかと尋ねると、
彼は小さく頷き、帳簿をめくって手際よくシングルの部屋を用意してくれた。
彼が鍵を差し出すのを待つ間、カウンターの隅にふと目をやると、絵葉書やペン立てといった雑多な小物の陰に隠れるようにして、一冊の古ぼけた小冊子が置かれていた。表紙には、見覚えのある文字が印刷されていた。——『ペンギンリゾート』。
僕は気になって、それを一冊手に取った。フロントマンは特にそれを咎めることもなく、僕に部屋の鍵を手渡した。
部屋は豪華ではなかったが、隅々まで清潔に保たれていてベッドの白いシーツには、几帳面すぎるほどしっかりとアイロンがかけられており、触れると少し冷たかった。
僕は頭をはっきりさせるために、手早くシャワーを浴びることにした。熱い湯が首筋を伝ううちに、猛烈な空腹感がおそってきた、そういえば、凍雲町に着いてからまともな食事を口にしていない。
服を着替え、フロントに戻って今から食事ができるか尋ねると、
「申し訳ありません、当ホテルの食堂はもう閉まってしまいまして」フロントマンは申し訳なさそうに眉を下げた。「ですが、ここを出て5分ほど歩いた道路沿いに、深夜まで営業しているドライブインがございます。そちらなら、まだ何か召し上がれるかと思います」
教えられた通りにホテルを出ると、そこは街灯もまばらな一本道だった。周りには本当に何もない。ただ冷たい夜風が通り抜けるだけの暗闇の中に、ポツンとそのドライブインは灯りを灯していた。昭和の時代から取り残されたような、どこか懐かしい佇まいの店だった。
ドアを開けて中に入ると、存在の希薄な男性と派手な見た目の女性が小声で話し込んでいる、先客は二人だけだ。
店の奥には、今では滅多に見かけない旧型のカラオケセットが、沈黙を守ったまま置かれている。週末になれば、近所の人たちがここに集まって、思い思いの歌を楽しんだりするのだろう。僕はカウンターの席に座り、簡素な料理を注文した。店内に響く自分の咀嚼音だけが、妙に現実味を帯びて聞こえた。
食事を終えてホテルに戻ると、急激な眠気が僕を襲った。
僕は衣服も脱がず、そのままベッドの上に身体を横たえた。そして、フロントから持ってきたあの『ペンギンリゾート』の小冊子を開いた。
数行の文字を追おうとしたが、僕の意識はそこまでだった。心地よいシーツの感触に包まれながら、僕は深い眠りの底へと落ちていった。




