第4話:手押しポンプの男、あるいは『待ってる』という文字
階段を降り切ると、そこは小さな円形の広間になっていた。
天井のどこにも電球や蛍光灯の類は見当たらないが、なぜか空間全体が、曇った夜の月明かりくらいの明るさを保っていた。光源のない光というものが現実に存在するのかどうか、僕には分からなかった。ただ、影が薄く曖昧に伸びていることだけは確かだった。
そこに双子の姿はもうなかった。
代わりに、右手に伸びる細い通路の先から、規則的な音が聞こえてきた。キィ、ガチャン。キィ、ガチャン。金属が擦れ合い、何かが噛み合うような、少々耳障りな音だった。僕は足元に注意しながら、その音のする方へと静かに近づいていった。
通路を抜けた広い空間で、一人の男が働いていた。
男はとても小柄な体躯をしていて、やはりあの双子と同じように、ペンギンの着ぐるみを頭からすっぽりと被っていた。ただ、その着ぐるみの隙間からのぞく顔には、深い皺と無精髭が刻まれており、彼がそれなりの年齢を重ねた中年男であることを示していた。
男は、井戸にあるような古ぼけた鉄製の手押しポンプのようなものを、一心不乱に上下に操作していた。キィ、ガチャン。彼の額からは大粒の汗が流れ落ち、着ぐるみの表面を濡らしていた。
「あの」と僕は声をかけた。
男はポンプを動かす手を止め、僕の方を振り返った。
「何をしているんですか?」と僕は尋ねた。
男の顔に、さも当たり前のことをなぜわざわざ訊くのか、というひどく面倒そうな色が浮かんだ。
「見て分からないのかい?」男はしわがれた声で言った。「概念を汲み上げているんだよ」
「概念を」
「そうさ。これがないと、色々と滞ってしまうんでね」
男はプイっとそっぽを向くと、それ以上は僕に何も言う気がなさそうに、再び熱心にポンプを動かし始めた。キィ、ガチャン。空間に再び硬質な音が響き渡る。
深く考えても仕方のない種類のことだった。——気がつくと、僕はまた頭の中でそのフレーズを繰り返していた。最近の僕の悪いくせだった。目の前で起きている奇妙な事象に対して、適切な名前を与えることを諦め、そうやって思考を棚上げしてしまうのだ。
僕は男の背中に向かって、短く「ありがとう」と礼を言い、さらに奥へと進むことにした。
しばらく歩くと、目の前に小規模な集落が現れた。
石造りの古い家々が、まるで地面から直接生えてきたように不規則に並んでいる。通りには人っ子一人いなかった。風さえも止まっていた。しかし、どの家の窓も固く閉ざされているにもかかわらず、住人たちが息を潜めて、カーテンの隙間からこちらの一挙手一投足を見つめているような、そんな濃密な気配が肌にまとわりついた。
手前から三軒目の家の前で、あの双子が待っていた。彼女たちは僕の姿を認めると、着ぐるみの短い手を小さく振った。
「待ってたよ」と双子Aが言った。
「中だよ」と双子Bが言った。
二人はそう言って、木製のドアを押し開けて家の中に入っていった。続いて僕も、頭を少し下げてその中へ足を踏み入れた。
家の中は、驚くほどシンプルだった。
小さなベッドと、使い込まれた木製の書き物机があるだけの一部屋。生活の垢のようなものは綺麗に拭い去られていたが、空気のどこかに、少し前まで確かに人が住んでいて、今はもういないという特有の空白が残されていた。
「もういないの」と、僕の心を読んだように双子が声を揃えて言った。
僕は部屋の中央に進み、書き物机の上にポツンと置かれている一冊のノートに目を留めた。表紙には、僕の知らない奇妙な文字のタイトルが並んでいた。アルファベットでも、キリル文字でも、あるいはギリシャ文字でもない。象形文字に近い、どこか幾何学的な記号の羅列だった。
僕はそのノートを手に取り、親指でパラパラとめくってみた。
中のページもすべて、その読み解くことのできない見知らぬ文字で埋め尽くされていた。しかし、最後のページに差し掛かったとき、僕の指が止まった。
そこには、日本語の滑らかな筆跡で、たった一言だけ、こう書かれていた。
『待ってる』
それが彼女の字なのかどうか、僕には分からなかった。ただ、胸の奥が冷たいピンで刺されたような、奇妙な予感が広がっていった。
これが一体どういうことなのか、足を止めて深く考えようとした、まさにその時だった。
バタン、と激しい音を立てて表のドアが開いた。
先ほどの小柄なポンプ男が、肩を激しく上下させ、慌てた様子で集落へと飛び込んできたのだ。男の着ぐるみのフードは後ろに外れ、その顔は恐怖によって青ざめていた。
「奴が来る!」男は喉を震わせ、ひどくしわがれた声で叫んだ。「早くみんな逃げろ!」
その声を合図にしたかのように、それまで死に絶えたように静まり返っていた集落が、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。あちこちの家から、様々なサイズのペンギンの着ぐるみを着た住人たちが飛び出し、蜘蛛の子を散らすように奥へと走り去っていく。衣服が擦れ合う音と、小さな足音が地下の空間に乱反射していた。
あまりに唐突な現実の変転を前にして、僕はただ一人、部屋の真ん中でぽかんと突っ立っているしかなかった。
「何をもたもたしているんだ、早くしろ!」
ポンプ男が僕のすぐ傍まで駆け寄り、僕の手首を荒々しく掴んだ。男の手のひらは、ポンプを握り続けたせいで硬い肉刺に覆われており、そこから伝わる体温だけが不自然なほど生々しかった。僕は男の小柄な体に、強引な力で引きずられるようにして、騒乱の渦巻く表へと引っ張り出された。
僕が連れて行かれたのは、集落の端にある、岩肌をくり抜いた狭い避難坑だった。
男は僕の背中を強引に押し込み、自らも中へ滑り込むと、重い鉄の扉を内側からぴったりと閉ざした。




