第9話「エルフのお風呂」
家に帰ると、俺はエルサにスマートフォンの使い方を教え始めた。電話のかけ方、メッセージの送り方、インターネットの使い方、Wi-Fiへの接続方法、LINEの使い方、Playストアからアプリをダウンロードしてインストールする方法、アプリの操作方法、写真の撮り方、QRコードの読み取り方などなど。基本的な使い方を一通り教えるのに、一時間以上もかかってしまった。
「日日明さん、この道具ってすごいですね! こんなに小さいのに、これだけたくさんのことができるなんて、まさに超高性能な魔導具ですよ!」
「だろ? 21世紀の人類ってすごいだろ」
「21世紀って何ですか?」
「この世界の年代を表す紀年法だよ。今は西暦2022年なんだ」
「ということは、この世界の人類の歴史は二千年以上もあるんですか?」
「まあ、だいたいそんなところだな。でも、もっと古い文明には紀元前の歴史もあるんだ」
「私のいた世界の歴史は、私自身が経験したことや文献で読んだ時間軸から考えると、千年ちょっとしかありません。もしかしたら、私が迷宮で眠っている間に、時代が進歩していたのかもしれませんね。人類ってすごいです」
「そういえばエルサは、この世界に残るつもりなのか? それとも元の世界に帰りたい?」
「日日明さんが許してくださるのなら、この世界で暮らしてみたいです」
「そうか」
「今さら聞くのも遅い気がしますが、日日明さん、私たちは今、どこの国のどこにいるのでしょうか? それと、ここは平和な場所ですか?」
「かなり答えにくい質問だけど、説明しておくよ。今、君がいる場所は台湾という島で、ここは高雄市という都市だ。この島を統治している国の政権は中華民国と呼ばれている。中華民国は、海の向こうにある中国大陸で敗北し、撤退してきた政権なんだ。そして、現在、中国大陸を統治している政権は中華人民共和国と呼ばれている。中華人民共和国は、ずっと中華民国を統一して一つの中国にしようとしているんだけど、台湾は統一されたくない。だから、二つの政権はずっと互いに牽制し合っているんだ」
「なんだか複雑ですね! つまり、私たちが今いる台湾という場所は島で、そこを統治している政権が中華民国なんですね? そして、対岸にある中華人民共和国は、ずっと台湾を統一しようとしているんですか?」
「うん、そういうこと。国際社会ではいろいろと衝突もあるけど、そもそも俺たちは同じ言語を使う民族だから、戦争にはならないと思う。少なくとも、それが大多数の人たちの願いだ。いつか、ずっと未来には、きっと平和的な道と解決策が見つかるはずさ」
「なんだか、問題を先送りにして、また先送りにしているだけのような気がしますけど……」
「誰だって戦争なんかしたくないだろ! 戦争には金がかかるし、いざ戦争が始まれば経済だって後退する。だから、俺たちはずっと矛盾した問題を先送りにするしかないんだよ!」
「なるほど! じゃあ、今のところは平和なんですね!」
「うん、そう理解してくれてもいいよ」
「では、私が聞きたかったことはこれで全部です。あとは自分でスマートフォンを使ってGoogleで調べてみますね。ところで、日日明さん、体中からバーベキューの匂いがしますよ!」
「君だって同じだろ?」
「私は魔法で綺麗にできますよ! 清潔化、対象は自分!」
突然、彼女の手元に魔法陣が現れた。魔法陣は大きくなりながら彼女の体を通り抜け、やがてキラキラとした光の粒を放った。
「ほら! 綺麗になりましたよ。信じられないなら、匂いを嗅いでみてください」
彼女は袖を伸ばし、俺の鼻先に近づけて匂いを嗅がせてきた。ほのかに花や草木の爽やかな香りがした。
「本物の魔法が発動するところを見たのは初めてだ! ところで、俺も習えば使えるようになるのか?」
「私が教えてあげましょうか? ふふっ! でも、日日明さんは体内の魔力量がかなり少ないみたいですね。魔法を発動できるようになるまで、十年以上は修行が必要だと思いますよ!」
「十年!? 長すぎるだろ! もういい、俺は風呂に入ってくる」
「お風呂! そういえば、ここには貴族の家にしかないような浴槽があるんですね! 私、もう何百年も湯船に浸かっていませんよ!」
「それなら、俺が湯を張ってあげようか? ついでに、この世界のお風呂の入り方も教えてやるよ」
「日日明さんが先に入らせてくれるんですか?」
「『さん』なんて付けなくていいよ。日日明でいい。浴室は二つあるからな。片方には浴槽がなくてシャワーしかないけど、俺はシャワーを浴びるだけで十分だ」
「そんな、日日明さ――」
「日日明」
「日日明、本当に私が先に入ってもいいんですか?」
「ああ。何百年も湯船に浸かっていなかったんだろ? お風呂に浸かるのは最高の贅沢だからな! この機会に、エルフに楽しいお風呂の入り方を教えてやるよ」
「日日明? 私の体を洗ってくれるんですか? 手取り足取り、全身を隅々まで洗ってくれるんですか?」
なんだか、こいつは何かを勘違いしている気がする……。
「ば……バカ! 俺が教えるのは、シャンプー、コンディショナー、洗顔料、ボディソープ、それに歯磨き粉と歯ブラシの使い方だけだ! 風呂くらい自分で入れ!」
「日日明、そなたはむっつりなスケベですね」
「俺はスケベなんかじゃない! このバカエルフめ! こっちに来い、ちゃんと使い方を教えてやる!」
エルサはニコニコしながら俺の後ろについてきた。俺たちは一緒に浴槽のある浴室に入った。俺は浴槽の栓をしてからお湯を出し、その間に浴室にある道具の使い方を教え始めた。シャワーの使い方や、お湯と水の切り替え方も説明し、歯ブラシと歯磨き粉、それにタオルも渡しておいた。
「浴槽のお湯がこの辺りまで来たら、止めればいい。これで教えることは全部だ。俺はもう一つの浴室で風呂に入ってくるから、ドアを閉めたら鍵をかけていいぞ。それじゃあな」
「はい、日日明」
俺は浴室を出て、ドアを閉めた。
それから自分の部屋に戻って眼鏡を外し、着替えと歯ブラシ、それにタオルを持って、もう一つの浴室へ向かった。
服とズボンを脱いでから、歯を磨き始めた。鏡に映る自分の顔を眺める。
自分で言うのも少々自信過剰かもしれないが、俺自身の基準で判断するなら、俺はなかなかのイケメンだと思う。
時折、隣の浴室からお湯を流す音が聞こえてくる。
すると、あの白くてすらりとした脚や、綺麗な胸の形、長い髪を想像してしまう。
……って、俺はいったい何を考えているんだ!
歯を磨き終えると、シャワーを浴びた。体にボディソープをつけて洗い、洗い流すついでに頭にもお湯をかける。それからシャワーを止めて、シャンプーで髪を洗い、再び洗い流した。続いて顔を洗い、最後にもう一度、熱めのお湯を浴びた。
数分後、風呂から上がった俺は、タオルで髪と体を拭いた。それからトランクスと短パン、Tシャツを身につけ、歯ブラシとタオルを持って浴室を出た。
そういえば、台湾の浴室はトイレと一緒になっていて、脱衣所もないんだよな。
俺はリビングのソファーに座り、扇風機をつけて涼しい風を浴びながら、テレビでニュースを見始めた。特に大きな事件は報道されていなかった。
そんなふうに数分、いや、もしかしたら三十分ほど経っただろうか。
……あいつ、いくらなんでも長風呂すぎないか?
俺はソファーから立ち上がり、エルサが入っている浴室へ向かった。そして、軽くドアを叩いた。
「おーい! エルサ! 長すぎるだろ!」
中から返事はなかった。
「おーい! エルサ! 長すぎるって!」
それでも返事はない。
「もう出てきてもいい頃だろ! エルサ、俺の声が聞こえてるか?」
やはり返事はなかった。
「エルサ、入るぞ!」
俺は何度かドアをノックしたが、中からは何の反応もなかった。
仕方なくリビングへ戻り、テーブルの上に置いてあった小銭入れを探した。中から一元硬貨を取り出す。台湾の浴室のドアノブは、一元硬貨を使えば鍵を開けられる構造になっている。
それを持って、再び浴室の前に戻った。
「悪い、入るぞ! エルサ!」
何度かノックしたものの、やはり返事はない。
俺は一元硬貨を使って鍵を回し、ドアを開けた。
そして、中の光景を見た瞬間、驚きのあまり固まってしまった。
エルサの体から、無数の蔓や根が生えていたのだ。彼女はそのまま浴槽の中で眠っていた。
外へと伸びた蔓は小さな世界樹へと成長し、花まで咲かせていた。
俺がエルサに近づくと、不思議なことに、蔓はちょうど彼女の大事な部分を隠していた。
「エルサ、起きろ!」
俺は彼女の肩を手で軽く叩いた。
「あら? この魔力は日日明のもの? もう、どうして勝手に入ってきて、人のお風呂を覗いているんですか?」
頭の中にエルサの声が響いた。以前、彼女が世界樹になってしまったときと同じだ。
「覗いてなんかいない! 今の自分の姿を見てみろよ!」
「え? 私、眠ってしまったんですか? お湯が気持ちよくて、つい……ちょっと油断したら眠ってしまったみたいです。まさか、私が発芽するなんて! どうしましょう?」
「勇者の剣を持ってきて、この蔓や根を斬り落とすしかないな」
「それしかなさそうですね。お願いします」
俺は自分の部屋に戻って勇者の剣を持ち、それから浴室へ戻った。
そして、エルサの体に絡みついている蔓や根、枝を斬り落とし始めた。
植物は、宿主であるエルサを失ったことで腐っていった。
やがてエルサが目を開き、大きく息を吐き出した。
彼女は浴槽から立ち上がり、そのまま外へ出てきた。植物が腐ったことで、それまで隠されていた大事な部分が露わになってしまったが、エルサは俺に見られていることなど、まったく気にしていない様子だった。
「お前なあ! 水に触れると発芽するなら、最初からちゃんと説明しておけよ!」
「私だって、こんなことになるなんて知らなかったんですよ! ただ浴槽の中で、ちょっとだけうたた寝しただけなのに!」
「この浴室の惨状、ちゃんと片づけられるか?」
俺は、枝や葉、蔓や根だらけになった浴室を見回した。
「今、片づけますね」
エルサはまず、脱いであった自分の服に向かって魔法を使った。
すると服がふわりと浮かび上がり、彼女のところまで飛んできた。彼女がそれを身につけると、服は見るからに扇情的な、薄いシフォンとレースでできたネグリジェへと変化した。
続いて風の魔法を使い、周囲に散らばっていた腐った植物を集めて圧縮する。
その直後、空中に炎が燃え上がり、腐った植物は灰になるまで焼き尽くされた。
エルサは空中に浮かぶ灰を操り、ゴミ箱の中へと入れた。
「はい、綺麗になりました!」
「まるで何事もなかったみたいに言うな!」
「世界樹と私の体が同化したら、こんなことになるなんて、私にもわからなかったんですよ!」
「じゃあ、眠ってしまうと、また根や蔓や枝が生えてくるのか?」
「たぶん、水が原因だと思います。長時間、水に浸かったまま眠ってしまうのはダメみたいですね」
その後、俺たちは浴室を出てリビングへ向かった。
……それにしても、こいつが着ているネグリジェ、あまりにも扇情的すぎないか?
「なあ、お前、もう少し露出の少ないネグリジェに着替えないか?」
「これ、貴族にしか手に入らないような高級な寝間着なんですよ!」
「お前のローブって、服に触れないと変化させられないのか? それとも、服の画像を見るだけでもいいのか?」
「画像を見るだけでは、服の生地や内側の質感までは再現できませんよ!」
「だったら、姉貴の部屋で寝間着を一着探して、それを複製してくれ。それと、今夜は姉貴の部屋で寝るんだ」
「そこまで言われたら、居候の身としては従うしかありませんね」
その後、エルサは可愛らしいデザインの寝間着に着替えた。おそらく、いつまでも子供心を忘れない俺の姉貴が着るような服だろう。
リビングに戻った俺たちは、一緒に映画を見た。
エルサはテレビのことを「巨大なスマートフォン」と呼んでいた。
その後、俺たちはそれぞれ自分の部屋へ戻り、ベッドに入って眠りについた。




