第8話『真似できると思うな、死ぬぞ』
ガーゴイルの指が、また床を叩いた。
コツ、コツ、コツ。
三度目の音が消えた後、俺は足の裏に残る振動を感じた。次に動くのは腕ではない。石の巨体そのものが、床を伝う響きを頼りに周囲の位置を測っている。
「ドローンを上げるな。床の震えを拾ってる」
レオは操作を止めた。
「機材の振動は最小値だ。これ以上落とすと安定性が消える」
「分かってる。お前の機材が悪いんじゃない。こいつにとっては、その小ささでも音なんだ」
レオの顔から笑みが消えた。彼はすぐにドローンを帰還させ、手持ちカメラへ切り替えた。だが、金属製の装具が岩に触れ、小さな音を立てた。
ガーゴイルの頭が動いた。
俺は撮影を止めた。
レオが驚いてこちらを見る。
「今、止めたら撮れないぞ」
「今は撮る場面じゃない。こいつが俺たちを探してる」
俺はカメラの電源を落とし、床から足を離さず、体重を少しずつ岩の継ぎ目へ移した。ガーゴイルの頭が音の方向を探り、やがて回廊の反対側へ向いた。
レオも同じように動いた。彼は状況を理解するのが早い。俺の動きを真似るのではなく、床の配置を見て自分の経路を選んだ。
そのとき、ガーゴイルの腕が振り下ろされた。俺たちが数秒前まで立っていた床が砕け、岩の破片が飛び散った。
レオのカメラに破片が当たり、レンズカバーが割れた。彼は舌打ちしたが、身体に怪我はない。
「撮影は中止だ。戻ろう」
「まだ一枚も決定的な画がない」
「命より高い映像はない」
レオは言い返さなかった。二人でゆっくり後退し、回廊の入口まで戻る。途中、ガーゴイルが一度だけ頭を下げ、胸の岩板を前脚で覆った。威嚇ではない。何かを隠すような動作だった。
俺はその仕草だけを目に焼きつけた。撮影はしなかった。
地上へ戻ったあと、レオが自分の映像を再生した。画質は高い。岩の質感も動作も、細部まで記録されている。しかし、最後の胸板の動きはフレームの外だった。
俺の映像にも、決定的な一枚はない。危険を察知したところで止めたからだ。
「結局、どちらも何も撮れていないな」レオが言った。
「そうだな」
俺が素直に答えると、彼は意外そうにこちらを見た。
「ただ、何を撮ればいいかは分かった」
胸板の下には何かがある。ガーゴイルはそこを守っていた。何を隠しているのかは分からない。だが、次に撮るべきものは、腕を振り下ろす瞬間ではない。
レオは壊れたレンズカバーを外しながら言った。
そのとき、配信画面の隅に、赤文字がひとつだけ現れた。
《だから、あいくでは駄目だ》
文の最後には、細い三本の傷のような線が食い込んでいた。打ち損じた文字にしては、線の角度が不自然だ。画面の向こうで誰かが慌て、爪を滑らせたようにも見える。
俺が画面を凝視していると、赤文字はすぐに消えた。レオは見ていない。人間のコメント欄にも、何も流れていなかった。
「次は、俺もあの胸板を撮る。映像の解像度で負けるつもりはない」
「そこは頼むよ。俺のカメラじゃ、細部が潰れる」
初めて、レオの口元に本物の笑みが戻った。
配信は、ガーゴイルが床を砕く直前に終わった。切断前、俺が「今は撮る場面じゃない」と言った声だけは残っていた。
その短い切り抜きが、翌朝には数万回再生されていた。視聴者が反応したのは、神画角でも、レオの機材が壊れた瞬間でもない。二人が撮影を止めて退いた理由だった。配信の投げ銭も合わせて二万円に届いた。助かったことを面白がる人もいたが、「撮らない判断も仕事だ」と書く人もいた。
俺はレオを見た。
「同じ位置を真似るな。俺の動きだけなぞっても、次は逃げられない。真似できると思うな。死ぬぞ」
レオは壊れたレンズカバーを握り直した。悔しそうではあったが、反論はしなかった。
俺たちは勝ち負けを決めなかった。だが、一人では見つけられなかった次の対象が、二人の間に残った。




