第6話『映すなと言われた瞬間、配信を切った』
第四層へ続く育児部屋は、妙に静かだった。
岩壁に刻まれた巣穴の奥から、湿った呼吸音が聞こえている。赤文字は入口の天井を埋め尽くしていた。
《早く映せ》
《今夜、殻が割れる》
《最初の一瞬を見逃すな》
巣穴の中にいたのは、黒い甲殻に覆われた母獣だった。体はヘルハウンドより大きいが、前脚で抱え込む卵は人間の子供ほどしかない。殻の表面には細いひびが走り、内側から小さな音が返ってきていた。
俺はカメラを構えた。画面の向こうの人間たちが騒ぎ始める。
『卵から何が出てくるんだ?』
『孵化シーンは当たりだろ』
『もっと寄れ、殻の中を映せ』
母獣の爪が、卵を覆うように動いた。
脅しではない。殻をこちらから隠している。
「……近づくな、ってことか」
《親が神経質なだけだ》
《いいから寄れ》
俺はズームを伸ばさなかった。卵のひびは、カメラを近づけなくても見える。音声レベルを下げ、巣穴の場所が特定できる背景を外す。だが人間側のコメントは、さらに寄るように煽った。
その瞬間、母獣が低く唸った。卵のひびが止まる。内側から返っていた音も消えた。
俺は配信を切った。
『は?』
『なんで止めた!?』
『ここまで来て?』
画面が黒くなる直前、赤文字が荒れ狂った。
《何をしている》
《見せろ》
《お前の仕事だろ》
「仕事だから切ったんだ」
俺はレンズキャップをはめ、カメラを下げた。
「撮れるから撮るんじゃない。あいつが隠したがってるものを、金のために晒す気はない」
母獣はしばらく俺を睨んでいたが、やがて卵へ鼻先を寄せた。俺が十分に離れると、殻の内側から、今度は三度、小さな音が返ってきた。
母獣が前脚をどける。見せていい、という許しなのか。あるいは、ただ俺を脅威ではないと判断しただけか。
俺はカメラを下ろしたまま、母獣に向かって言った。
「公開しない。巣の場所も出さない。記録として残したいなら、合図してくれ」
母獣はしばらく俺を見つめていた。やがて殻を覆っていた前脚をどけ、卵の向きを少しだけカメラへ向けた。
俺は、それを撮影の許可として受け取った。録画を再開する。ただし配信は戻さない。巣の全景も、位置が分かる背景も撮らない。卵のひびと、母獣の爪がそっと殻を支える動きだけを、手元の記録に残した。
殻が割れた瞬間、出てきたのは牙でも炎でもなかった。濡れた小さな鼻先が、光を探すように揺れた。母獣は一度だけ、喉の奥で柔らかな音を鳴らした。
俺はシャッターを切らなかった。動画は回っている。音も、動きも、必要なものは記録できていた。
撮影を終えてから、赤文字が一行だけ浮かんだ。
《なぜ、配信しなかった》
「依頼主に渡す記録と、見物人に売る映像は同じじゃない」
しばらく沈黙が続いた。やがて母獣が、巣穴の奥にあった小さな石板を俺の足元へ押し出した。表面には、四層の地図に似た刻印がある。ただし、道筋は途中で途切れていた。
《ここの先は、まだ誰にも撮らせていない》
「入っていいのか?」
《お前が、何を映さないか分かったからだ》
石板の先には、未開の回廊が続いていた。
俺は地図を撮らず、頭に刻んでポケットへしまった。カメラを向ける前に、まず許可を得る。それが、この仕事の新しい条件になった。




