第2話『怪物にとっての「安全」は、人間の安全じゃない』
翌朝、俺はまたダンジョンにいた。
昨夜の切り抜きは、底辺配信者を集める小さな掲示板で少しだけ話題になった。配信を始めたときの同時視聴者数は十八人。昨日よりは多いが、投げ銭が家賃の足しになるほどではない。
第一層の分岐で、赤い文字が浮かんだ。
《左へ行け。安全だ》
「昨日もそれで死にかけたんだが」
《死んでないだろ》
言い返す気力が消えた。文字の主には、こちらの恐怖が伝わっていないらしい。
左の通路へ進むと、広い空洞に出た。中央には大型オークが座り、鉄槌を膝に置いている。三メートル近い巨体。その足元には、骨のようなものが散らばっていた。
俺は反射的に壁へ戻った。だが、大型オークはこちらを見ただけで、鼻を鳴らして視線を外した。
襲ってこない。
肩は上がっていない。指先にも力が入っていない。足先は俺ではなく、通路の奥を向いている。獲物を狙う姿勢じゃない。
そのとき、ゴブリンの群れが反対側から走り込んできた。大型オークが立ち上がる。鉄槌が一度振られ、先頭のゴブリンが壁まで吹き飛んだ。残りは悲鳴を上げて逃げ去った。
大型オークは、俺には一瞥もくれず、再び腰を下ろした。
(……俺を見逃したんじゃない。相手にする価値がないと思ってるのか)
それでも、ここは安全地帯ではない。カメラを構えたまま足をずらしたとき、靴底の小石が鳴った。
大型オークの頭が動いた。
次の瞬間、鉄槌が俺の横を薙いだ。背後の壁が砕け、衝撃で身体が床を転がる。直撃は避けた。だが、頬が切れ、左手の指が痺れていた。
俺が見落としたのは、巨体の動きじゃない。自分が安全だと思い始めた、その油断だった。
通路の狭い亀裂へ逃げ込むと、ようやく大型オークの足音が遠ざかった。
『今の、攻撃来る前に動いてた?』
『予知?』
『あの距離で生きてるの意味不明』
「予知じゃない。あいつが、こっちを見た」
声に出してから、自分の言葉の足りなさに気づいた。視線が変わった。肩が沈んだ。足先が向いた。攻撃が来る前に、画面には兆しが映っていた。
俺はそれを見ていたのに、都合よく「安全」という文字を信じた。
赤文字がひとつ浮かんだ。
《だから安全だと言っただろ》
「お前にとってはな!」
《?》
たった一文字。悪意も弁明もなかった。
大型オークがいるから、ほかの魔物は近づかない。あいつにとっては、確かに安全なのだ。そこに入った俺まで安全になるわけじゃない。
俺は初めて理解した。赤文字は攻略情報じゃない。人間の常識に合わせて書かれているわけでもない。画面の向こうには、人間とは違う基準で世界を見ている連中がいる。
帰ろうとしたところで、赤文字がまた現れた。
《奥の黒いスライムを映せ》
「今度は何だ」
《振られて落ち込んでる。形が崩れてて面白いぞ》
「……知らねえよ」
《お前の仕事だろ》
俺は返事をせず、カメラを下ろした。だが、画面の隅では黒いスライムの位置を示す矢印が、しつこく点滅していた。




