第7話
冷たい泥と腐肉の臭いが鼻を突く。
無数の亡者たちに腕を引かれ、僕はどす黒い瘴気の底へと容赦なく引きずり込まれていた。
「ぎゃああっ!やめろ、僕の脚を食うな!離せ!」
どんなに叫びもがいても、亡者たちは飢えた獣のように群がり、僕の肉体を削り取っていく。
全身を駆け巡る激痛と絶望の中で、僕の頭を満たしていたのは、己の行いを悔いる気持ちなどでは決してなかった。
なぜ、次期国王である僕がこんな目に遭わなければならないんだ。
そうだ、すべてはあの忌まわしい女、ミランダのせいだ。
あいつが素直に僕の思い通りに動かなかったから。あいつが処刑台から逃げ出し、エドワーズ家の結界なんかに隠れて僕を見捨てたから。
そもそも、あいつは僕の婚約者じゃないか。僕のために尽くし、僕のために命を捧げるのが当然だろう。
あいつは僕の所有物だ。僕のものだ。僕のものだ……!
「ミランダァァァッ!僕を置いてお前だけ安全な場所で生きているなんて、絶対に許さないッ!」
僕の中で渦巻く身勝手な怒りと歪んだ執着が、限界を超えて爆発した。
その異常なまでの執念に呼応するかのように、周囲を漂っていた濃厚な死の瘴気が、僕の削られた肉体へと濁流のように流れ込み始める。
「あ、あああ……アアアアァァァァッ!」
失われた四肢がどす黒い瘴気によって無骨に膨れ上がり、人間のそれとはかけ離れた異形の姿へと変異していく。
ミランダは僕のものだ。あの結界ごと、僕の腕の中に引きずり込んでやる。
痛覚も理性も完全に吹き飛び、おぞましいバケモノへと成り果てた僕の頭には、もはや彼女への狂気的な執着しか残っていなかった。
◇ ◇ ◇
境界門を背に、屋敷へと歩みを進めていたエドワーズ公爵夫妻は、背後で巻き起こった異常な気配に足を止めた。
「……しぶとい羽虫ですこと」
公爵夫人が忌々しげに扇で口元を隠す。
彼らが振り返った先、どす黒い瘴気の底から這い上がってきたのは、もはや人間の原型を留めていない巨大な肉の塊だった。
「ミランダァァァッ!僕ノ、モノダァァァッ!」
人間の言葉すら忘れたようなおぞましい咆哮を上げながら、異形と化したミハエルが結界の見えない壁にドスンドスンと巨大な腕を打ち付ける。
その異常な執着は周囲の瘴気をさらに引き寄せ、彼の体をどす黒く染め上げていた。
「ゴミが結界を汚すな。さっさと喰い尽くせ」
公爵が冷酷に杖を振り下ろすと、周囲に待機していた亡者の群れやアンデッド化した魔物たちが、一斉に異形のミハエルへと飛びかかった。
鋭い牙や爪がその醜い肉体に突き刺さる。
しかし、次の瞬間だった。
「オオオオオオオッ!」
ミハエルの体から無数の触手のような肉片が飛び出し、群がってきた亡者たちを次々と串刺しにしたのだ。
そして、そのまま亡者たちを自らの体内に強引に取り込み、グチャグチャと不気味な音を立てて吸収していく。
アンデッドたちの魔力と瘴気を無理やり餌にして、異形のバケモノはさらに一回り、二回りとその体を凶悪に膨れ上がらせていった。
かつて国を治めるはずだった王太子の面影は微塵もなく、そこにあるのはただ一つの狂気的な執着だけで動く、巨大な絶望の権化だった。
無尽蔵にアンデッドたちを喰らい、瘴気を吸い上げて肥大化した異形の力は、もはや一国の王太子はおろか、上位の魔獣すら凌駕するほどに膨れ上がっていた。
ミランダァァァッ!という鼓膜を破るような叫び声と共に、巨大な丸太のような両腕が、見えない結界の壁に何度も何度も叩きつけられる。
ズシン、ズシンという地鳴りのような衝撃が領地全体を揺るがした。
「まさか、あの小僧……この絶対の結界を力業で……!?」
常に冷徹で余裕を崩さなかったお父様の顔に、初めて驚愕と焦りの色が浮かんだ。
次の瞬間、パリンッという耳障りな破砕音が空気を裂いた。
何百年もの間、いかなる脅威の侵入も許さなかったエドワーズ家の絶対領域に、無残な亀裂が走ったのだ。
異形の執念の一撃がさらに叩き込まれると、亀裂は蜘蛛の巣のように一気に広がり、ついに結界の一部が砕け散って巨大な穴が穿たれた。
結界が破られた凄まじい衝撃波が突風となって吹き荒れ、想定外の事態にお父様とお母様が大きく体勢を崩す。
穿たれた穴から致死量の瘴気が流れ込み、異形と化したミハエルの巨大な腕が、無防備な両親へと容赦なく襲いかかろうとした、まさにその時だった。
「お父様、お母様、危ない!」
絶望的な光景を前に、領地の奥から馬を飛ばして駆けつけた私の叫び声が響き渡った。
私の腰をしっかりと抱き支えるユリウス様と共に、私たちは間一髪のところで境界門へと辿り着いたのだ。
馬から飛び降りるが早いか、私は両手を前方に突き出し、体内の魔力を一気に解放した。
「万物を縛る死の鎖よ、彼の者を捕縛せよ!」
私の手から放たれた漆黒の魔力が、無数の太い鎖となって結界の穴から這い出ようとしていた巨大な腕に巻きつく。
ギチギチと嫌な音を立てながら、異形のバケモノの動きがピタリと止まった。
「ミランダ!ミランダァァァッ!」
私の姿を視界に捉えた瞬間、ミハエルだったバケモノはさらに狂暴に暴れ出し、鎖を引きちぎらんばかりの怪力で暴れ狂う。
私の足がズルリと土を削り、その圧倒的な力に引きずり込まれそうになったその時、背中から温かく力強い腕が私を支えた。
「私の至高の芸術品に、これ以上その汚らわしい手を伸ばすな」
ユリウス様が氷のように冷たい声で言い放ち、私の足元の地面に試験管に入った銀色の液体を叩きつけた。
液体は瞬時に眩い光を放って巨大な錬金術の陣を形成し、そこから生え出た幾本もの強靭な鋼の杭が、私の放った死の鎖と連動して異形の巨体を大地に深く縫い留める。
ネクロマンシーと錬金術の融合。
二人の力を掛け合わせた決死の拘束により、結界を突き破ろうとするミハエルの侵攻をギリギリのところで食い止めることに成功した。
「お父様、お母様、ご無事ですか!」
「ええ……ありがとう、ミランダ、ユリウス殿。油断していましたわ」
私とユリウス様の背後で、お母様が体勢を立て直しながら安堵の息を吐く。
しかし、狂気に支配された異形の力は底知れず、張り詰めた死の鎖と鋼の杭は今にも弾け飛びそうなほどの悲鳴を上げ続けていた。










