第4話
王都が未曾有の危機に陥っていることなど露知らず、私の実家であるエドワーズ公爵領での日々は、呆れるほど平和で穏やかに過ぎていた。
いや、穏やかという表現は少し違うかもしれない。
「ミランダ、いけません。その本は貴女が持つには重すぎます。私がページをめくりますから、貴女はただソファに座っていてください」
図書室で少し分厚い歴史書を手に取ろうとした瞬間、すかさず背後からユリウス様が飛んできた。
彼は私の手から本をそっと奪い取ると、ふかふかの長椅子に私を座らせ、自らも隣に腰を下ろして甲斐甲斐しくページをめくり始める。
首の縫合から数日が経ち、すっかり痛みも違和感もなくなったというのに、彼の過保護ぶりは日に日にエスカレートしていくばかりだった。
少し歩こうとすれば危ないと抱き上げられ、食事の際は一口サイズに切り分けられた料理を彼の手から直接食べさせられる。
「ユリウス様、もう首は完全にくっついていますわ。それに私、これでもネクロマンサーの端くれですから、普通の令嬢よりずっと頑丈なのですけれど」
私が苦笑混じりにそう伝えても、彼は琥珀色の瞳を真剣に細めて首を横に振る。
「とんでもない。貴女は私の至高の芸術品であり、この世で最も尊い奇跡です。万が一にも、あの完璧な断面と美しい首筋に負担をかけるわけにはいきません」
そう言って、彼は私の首筋に顔を近づけ、縫い跡を愛おしむようにそっと唇を落とした。
背筋がゾクッとするような狂気的な愛情表現にも最初は戸惑うばかりだったが、今ではすっかり毒されてしまったのか、まんざらでもないと感じている自分がいる。
かつて私を忌み嫌い、触れることすら拒絶した元婚約者とは大違いだ。
私を一つの存在として、あるいはそれ以上のものとして狂おしいほどに慈しんでくれるこの変人錬金術師との生活は、私にとって甘く心地よいものになっていた。
そんな甘く過保護な日々に少しの疑問を抱いたのは、ある日の真夜中のことだった。
ふと喉の渇きを覚えて目を覚ました私は、水を求めて厨房へと向かっていた。
静まり返った廊下を歩いていると、今はユリウス様の仮設研究室としてあてがわれた客間のドアの隙間から、青白い光が漏れているのに気がついた。
鼻を突くような、ツンとした薬品の匂いが漂ってくる。
こんな夜更けまで何をしているのだろうと、私は足音を忍ばせて少し開いたドアの隙間から中を覗き込んだ。
そこにいたのは、昼間の甘い空気を纏った過保護な青年ではなく、鬼気迫る表情で実験器具に向かう錬金術師の姿だった。
ユリウス様は、不気味に泡立つ赤黒い液体が入ったフラスコを火にかけながら、別の小瓶から慎重に透明な液体を滴下している。
ジュッ、という嫌な音とともに、跳ねた劇薬が彼の手の甲に落ちた。
皮膚が焼け焦げるような音が聞こえ、私が思わず悲鳴を上げそうになる。
しかし彼は顔色一つ変えなかった。
それどころか、ただ布で乱暴に拭い取っただけで、痛がる素振りすら見せずに作業を続けている。
ランプの灯りに照らし出された彼の手を見て、私は息を呑んだ。
彼の白く細い指先や手の甲は、無数の火傷の痕や薬品による爛れでボロボロになっていたのだ。
一部には血の滲んだ痛々しい包帯が巻かれており、昼間、私に触れるあの優しく温かい手と同じものだとは到底思えなかった。
私の肉体を傷一つなく完璧に保つことにあれほど執着しているというのに、彼自身の体には無頓着に傷が増えていく。
その酷く矛盾した光景に、私は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
たまらず、私は部屋の扉を押し開けた。
「ユリウス様」
突然の私の声に、彼は弾かれたように肩を揺らした。
「ミランダ!?なぜこんな夜更けに……いけない、ここは有毒なガスが出ています。貴女の美しい肌に影響が……」
慌てて実験器具を遠ざけ、彼はボロボロになった両手を白衣の背後に隠そうとした。
私は彼を制止するように歩み寄り、隠されそうになっていた彼の手を両手でしっかりと包み込んだ。
「隠さないでください。その手、とても痛そうですわ」
「……お見苦しいところをお見せしました。少し、新薬の調合に焦っていたようです」
自嘲気味に笑う彼の顔には、昼間の余裕はなかった。
「どうして、ご自身の体はそこまで粗末になさるの?私の体には、あれほどまでに傷一つ許さないというのに」
私が静かに問いかけると、彼は琥珀色の瞳を伏せ、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……人間の肉体というものは、あまりにも脆く、儚いからです」
かつて、彼にはどうしても救いたい肉親がいたのだという。錬金術のすべてを注ぎ込み、あらゆる秘薬を試したが、病によって崩れゆく肉体を前にして、当時の彼の技術はあまりにも無力だった。
「指の隙間から命がこぼれ落ちていくのを、ただ見ていることしかできなかった。だからこそ、私は絶対に朽ちることのない、完璧な肉体を求めることに執着してきたのです。そうしなければ、無力だった自分を許せなかった」
彼の震える声から、深い後悔と絶望が伝わってくる。
あの狂気的なまでの過保護と執着は、単なる変人の嗜好などではなかった。もう二度と、自らの手から大切なものを失いたくないという、血を吐くような悲痛な祈りだったのだ。
私は、彼の痛々しい手をもう一度しっかりと握り直した。
そして、火傷と薬品で荒れたその指先を、自分の頬へそっと押し当てる。
「ユリウス様。私は、伝説のネクロマンサーの末裔であり、強力な不死の加護を受けています。処刑台の刃ですら私を殺せなかったのですから、ちょっとやそっとの事では壊れませんし、決して貴方の前から消えたりはいたしませんわ」
私の言葉に、彼は弾かれたように顔を上げた。
「だから、もう過去の無力感を背負って、ご自身を痛めつけるような真似はしないでください。私の体を完璧に保ってくれるのと同じように、貴方自身のことも大切になさってください」
私はゆっくりと、彼の手の甲に巻かれた血の滲む包帯に触れた。
そこに私の冷たい魔力をほんの少しだけ流し込み、熱を持った痛みを和らげるように優しく撫でる。
私の首の断面を見て狂喜乱舞した、呆れるほど過保護な変人錬金術師。
けれど、その狂気の奥底にあったのは、誰よりも不器用で、誰よりも純粋な祈りだったのだ。
ただ甘やかされて居心地が良いだけではない。私はこの瞬間、彼の抱える執着も傷跡もすべてひっくるめて、心から愛おしいと感じていた。
「……ありがとう、ミランダ。貴女は本当に、私の救いだ」
泣きそうな顔で微笑み、私の手にすがりつくように額を押し当てるユリウス様。
彼の銀色の髪をそっと撫でながら、これからは私が彼を労わり、その不器用な心を癒やしていこうと心に誓った。
王都での窮屈な生活では決して知ることのなかった、誰かを心底大切に想う温かな感情。
二人の間に流れる静かで優しい時間は、やがて白み始めた夜明けの光とともに、私たちを心地よく包み込んでいった。










