第3話
王宮の執務室の大きな窓から見下ろす王都は、忌まわしい魔女がいなくなったことで、より一層輝いて見えた。
国王である父上が重い病に倒れて早半年。
若くして実質的な政務のすべてを取り仕切ることになった僕は、今日、この国に新たな夜明けをもたらしたのだ。
「ミハエル殿下。この度の見事なご決断、我が国の歴史に永遠に語り継がれることでしょう」
恭しく頭を下げるのは、長年父上に仕え、今は僕の最も良き理解者となってくれている宰相だった。
彼の言葉に、僕は満足げに頷く。
代々王家に取り入り、不気味な魔力と『結界』などという不可解な言い伝えを盾にして特権階級にふんぞり返っていたエドワーズ公爵家。
その令嬢であるミランダを処刑し、一方的な婚約を破棄したことは、決して若気の至りなどではない。
時代遅れの悪しき因習を断ち切る、次期国王としての偉大な第一歩なのだ。
「ミハエル様……私のような下級貴族の娘が、本当に王宮にいてよろしいのでしょうか。皆様にご迷惑をおかけしていないか、不安で……」
僕の腕にそっとすがりついてきたのは、新しくこの国の象徴として迎え入れた光の聖女だ。
太陽の光を集めたような金糸の髪に、庇護欲をそそる愛らしい瞳。
「案ずることはないよ。君の放つ温かく美しい光の魔法こそが、我が国の民が真に求めていたものだ。あの陰気で気味の悪いエドワーズ家の女など、僕の隣にも、この国にも不要なのだから」
僕が力強く言い切ると、宰相も深く頷いて同調した。
「殿下の仰る通りです。民衆も、美しく慈愛に満ちた聖女様の誕生と、それをいち早く見出された殿下の英断に歓喜しております。あの家が吹聴していた結界という名の嘘に怯える時代は、殿下の手によってついに終わったのです」
宰相の心地よい称賛の声と、腕の中の聖女が向けてくる熱烈な尊敬の眼差し。
僕は次期国王としての確固たる自信と誇りに満たされ、執務室の窓から見える平和な王都の景色に、この上ない陶酔感を覚えていた。
しかし、僕が祝いのワインを取りに執務室をわずかに離れたその数分の間に、部屋に残された二人が全く別の顔を見せていたことなど、知る由もなかった。
「……ふふっ、本当にチョロい男ですこと。自分が歴史に名を残す名君だと信じて疑っていませんわ」
愛らしい顔を歪め、下品な笑みを浮かべた聖女マリアが、首元の豪奢なネックレスを弄りながら呟く。
「口を慎みなさい、マリア。仮にも次期国王だぞ」
宰相がたしなめるように言うが、その顔にもまた、隠しきれない嘲笑が張り付いていた。
「ですが宰相閣下。本当にあのエドワーズ家の小娘を処刑してしまってよかったのですか?結界の話はすべて嘘だと殿下には吹き込みましたが……」
「ああ、ただの迷信だ。あの家は古臭い伝承と不気味な魔術を利用し、何百年も特権階級にふんぞり返って我が国の富を貪ってきた。だが、これで最大の邪魔者は消えた。エドワーズ家の広大な領地と莫大な財産は、王家の名のもとに没収し、近いうちに我々派閥のものが正当に管理することになる」
事の真相は、実にくだらない権力闘争だった。
エドワーズ家の絶大な権力を疎ましく思った宰相派閥が、承認欲求の強い若き王太子を利用して仕組んだ陰謀。
マリアの正体は、宰相が己の駒として見出してきた野心家の男爵令嬢に過ぎない。
彼女が使う奇跡のような光魔法も、宰相が裏ルートで大金を積んで手に入れた魔道具(彼女の首元で光るネックレス)によって、本来の微弱な魔力を無理やり底上げして見せているだけの偽物だったのだ。
「マリア、君はこれからも愛らしい聖女として、あの愚かな王太子を骨抜きにし続けるのだ。魔道具の力がある限り、誰も君を偽物だとは気づかない」
「ええ、分かっておりますわ。次期王妃の座とこの国の富は、私たちが頂きます」
権力欲にまみれた二人の醜悪な密約が交わされていたことなど露知らず。
僕は最高級のワインボトルを手に、自分がすべてを支配しているという滑稽な優越感に浸りながら、上機嫌で執務室へと戻ったのだった。
グラスにワインを注ごうとしたその時、重厚な執務室の扉が乱暴に叩き開けられた。
「殿下、一大事でございます!」
血相を変えて転がり込んできたのは、王都の防衛を任されている近衛騎士だった。
「外壁の向こう側に、無数の魔物が出現しました!さらに、空を覆う不気味な黒雲が王都の結界を破り、こちらへ押し寄せてきております!」
「……なんだと?」
手にしていたグラスを取り落とし、僕は慌てて窓際へと駆け寄った。
先程まで澄み切っていた青空は、どす黒い瘴気に飲み込まれ、まるで夜のように暗く染まり始めている。
遠くに見える城壁の向こう側には、王都の歴史上見たこともないようなおぞましい魔物の大群が、うごめく波のようにひしめき合っていた。
嘘だ。結界などというものは、エドワーズ家が権力を保つためについたただの迷信ではなかったのか。
「宰相!これは一体どういうことだ!」
「ひっ……!」
僕が怒鳴りつけると、常に冷静で余裕めいていた宰相は窓の外の光景を見て、顔面を蒼白にして腰を抜かさんばかりに後ずさった。
「マリア!君の力で、あの忌まわしい瘴気も魔物も、すべて浄化してやるんだ!本物の聖女の力を見せてやれ!」
すがるような思いで、僕は部屋の隅で震えているマリアを乱暴に窓辺へと引き寄せた。
「い、いや……無理ですわ!あんな恐ろしいもの……!」
「いいからやれ!君の神々しい光の魔法があるだろう!」
僕の剣幕に押され、マリアは涙目で胸の前に両手を組み、首元の豪華なネックレスを握りしめて必死に祈りの言葉を紡いだ。
ネックレスの宝石がカッと眩い光を放ち、彼女の体を包み込む。
しかし、その光が窓の隙間から入り込んだ本物の死の瘴気に触れた、次の瞬間だった。
パキンッ、と甲高い音が室内に響いた。
マリアの首元で輝いていたネックレスが、圧倒的で強大な瘴気の力にあっけなく呑み込まれ、粉々に砕け散ったのだ。
「あ……あぁ……」
砕けた宝石の破片が床に散らばる。
魔道具を失った彼女の指先からは、蛍のような微弱な光すら、もう二度と灯ることはなかった。
砕け散った魔道具の破片が床に転がる音だけが、やけに鮮明に鼓膜を叩いた。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
静寂を破ったのは、宰相の悲鳴のような叫び声だった。
彼は床に這いつくばるようにして扉へ向かって駆け出し、僕とマリアを一顧だにすることなく、我先に執務室から逃げ出していった。
「さ、宰相!?待て、どこへ行く!」
「殿下、お退きになって!」
追いすがろうとした僕の胸を、乱暴な力で突き飛ばしたのは、他でもないマリアだった。
床に尻餅をついた僕を、彼女は親の仇でも見るような憎悪の目で睨み下ろした。
「こんなはずじゃなかった!王妃になって贅沢な暮らしができるって言ったから引き受けたのに、魔物に食い殺されるなんて真っ平ですわ!」
先程までの愛らしさなど微塵もない、あまりにも醜悪で浅ましい本性。
彼女はドレスの裾を振り乱し、宰相の背中を追うようにして部屋から飛び出していった。
王都の防衛を任されている騎士も、混乱の中でいつの間にか姿を消している。
広々とした執務室に、僕一人が取り残された。
窓の外からは、次々と城壁を乗り越えてくる魔物の咆哮と、民衆の絶望に満ちた悲鳴が地獄の底から響くように聞こえてくる。
床に散らばった偽物の宝石の破片が、僕の愚かさを嘲笑っているように見えた。
僕は、国を導く偉大な次期国王などではなかった。
権力闘争の駒として宰相にいいように踊らされ、甘い言葉と偽物の光に目を奪われた、ただの滑稽な操り人形だったのだ。
エドワーズ家の伝承は真実だった。
僕が忌み嫌い、処刑台へと送ったミランダこそが、この国を繋ぎ止めていた唯一の生命線だったのだ。
僕は自らの手で、国を守る絶対的な防波堤を完全に破壊してしまった。
執務室の中までじわじわと這い寄ってきた死の瘴気を呆然と見つめながら、僕は己の取り返しのつかない罪の重さと絶望のどん底で、ただ声もなく崩れ落ちることしかできなかった。










