第四話「戻ってきた男」
十二月の初め、潜水艦が帰ってきた。
作戦中止。そう聞いた時、幸造は格納庫で外筒の腐蝕点検をしていた。当直の下士官が走ってきて、息を切らして告げた。
「母艦が戻ります。回天ごと」
幸造は手を止めなかった。
「そうか」
「搭乗員も、一緒に」
「わかった」
それだけ言って、また作業に戻った。
・ ・ ・
桟橋に人が集まった。
将校たちが並んだ。下士官たちが囁き合った。幸造は少し離れたところに立って、海を見ていた。
潜水艦が浮上してくる様子を、幸造は黙って見ていた。
ハッチが開いた。艦長が出てきた。将校たちが動いた。
それから、搭乗員が出てきた。
中村篤。二十一歳。
幸造は顔を知らなかった。出撃前に名簿で名前を見ただけだった。
中村は桟橋に上がって、まず空を見た。
十二月の空だった。雲が低く、光が薄かった。
中村はその空を、しばらく見ていた。
周りの将校たちが何か話しかけていた。中村は短く答えていた。しかし目は、どこか遠いところを見ていた。
幸造は桟橋から離れた。
格納庫に戻った。
・ ・ ・
回天の点検は、その日の午後から始まった。
水中に長時間置かれた機体は、各所に負荷がかかっている。継ぎ目の状態。ハッチの歪み。推進軸の摩耗。燃焼室と気筒の状態を一つ一つ確かめなければならなかった。
幸造は黙々と作業した。
一時間ほど経った頃、格納庫の入口に人の気配がした。
「整備長殿」
聞いたことのない声だった。
振り向くと、中村が立っていた。着替えを済ませ、軍服を着直していたが、顔色が優れなかった。目の下に隈があった。
「何か」
「見ていていいですか」
桐島と同じことを言った。幸造は黙って作業に戻った。
中村は格納庫に入ってきた。
回天の傍に立った。
しかし桐島のように壁に背を当てることはしなかった。回天のすぐ横に立って、外筒を見ていた。
外から見る目ではなかった。
内側を知っている者の目だった。
・ ・ ・
幸造は作業を続けた。
中村は何も言わなかった。
格納庫の外で風が鳴った。十二月の風だった。
点検が推進軸の部分に差し掛かった時、幸造は小さな異常を見つけた。軸受けの一部に、わずかな歪みがあった。水圧によるものだろう。放置すれば冷走の原因になりかねなかった。
幸造は工具を取り替えた。
慎重に、丁寧に、歪みを修正し始めた。
その時、中村が口を開いた。
「中は、真っ暗でした」
幸造の手が、一瞬止まった。
止まって、また動いた。
中村は続けなかった。それだけ言って、また黙った。
幸造は工具を動かし続けた。
軸受けの歪みを、ゆっくりと、確実に修正した。
真っ暗。
その言葉が、格納庫の中に残っていた。
幸造には想像できた。全長十四メートル七十センチの鉄の筒の中。直径一メートルの空間。外の海が見えない。空が見えない。母艦との伝声管だけが繋がっている。作戦中止の知らせが来るまで、その暗闇の中で待っていた。
どれほどの時間だったか。
幸造には聞けなかった。
中村も、もう話さなかった。
・ ・ ・
点検が終わった。
幸造は工具を仕舞った。点検記録に数字を書き込んだ。
中村はまだそこにいた。
回天の外筒に、額を当てていた。
目を閉じていた。
幸造はそれを見た。
何も言わなかった。
工具箱を持って、格納庫を出た。
外は暗くなりかけていた。
瀬戸内の海が、鉛色に沈んでいた。
幸造は少しの間、その海を見ていた。
息を一つ、吐いた。
兵舎に向かって歩き始めた。
(第四話・了)




