第三話「当たりますか」
桐島陽介は、他の搭乗員とは少し違った。
騒がしくなかった。群れなかった。食堂でも端の席に座り、本を読んでいることが多かった。眼鏡の奥の目が、いつも何かを考えているような色をしていた。
幸造が桐島の存在に気づいたのは、着任して二週間ほど経った頃だった。訓練から戻った搭乗員たちが格納庫の外で声を上げている中、桐島一人が少し離れたところに立って、海を見ていた。
二十二歳。東京出身。大学を中退して志願したと、当直の下士官から聞いた。
それだけだった。
・ ・ ・
桐島が格納庫に来たのは、十一月に入った朝だった。
幸造が回天の内部点検を終えて、ハッチを閉めようとしていた時、入口に人の気配がした。
「整備長殿、よろしいですか」
桐島だった。
「何か」
「少し、見ていてもいいですか。邪魔はしません」
幸造は答えなかった。それを許可と受け取ったのか、桐島は格納庫の中に入ってきた。回天から少し距離を置いて、壁に背を当てて立った。
幸造は作業を続けた。
ハッチの締まり具合を確かめる。外筒を手の平で叩いて音を聞く。推進軸の遊びを指で測る。
桐島は黙って見ていた。
しばらくして、桐島が口を開いた。
「整備長殿は、この仕事を長くやっておられるんですか」
「四十年になる。職工として呉に入ったのが始まりだ」
「四十年……」
桐島は繰り返した。
「呉の工廠からずっとですか」
「そうです」
「機械が、好きなんですか」
幸造は少し考えた。
「好きとか嫌いとか、そういうことじゃない」
「では、何ですか」
幸造はトルクレンチを置いた。
「向き合うもんです」
桐島は何も言わなかった。
幸造はまた作業に戻った。
・ ・ ・
それから桐島は、時折格納庫に来るようになった。
村田のように話しかけてくることはなかった。ただ壁に背を当てて、幸造が作業するのを見ていた。
幸造も特に気にしなかった。
いる時はいる。いない時はいない。それだけだった。
ある日、桐島は眼鏡を外し、レンズを布で拭いながら、回天を眺めていた。眼鏡を外すと、目元が思いのほか幼く見えた。ほんの一瞬、口元が緩んだように見えた。
幸造はそれを見なかったふりをした。
・ ・ ・
ある夕方。
日が落ちて、格納庫の中が薄暗くなりかけた頃、桐島がいつになく幸造の近くに来た。
回天の横腹に手を触れて、外筒の曲面をゆっくりと掌で辿った。
幸造はそれを見ていた。
桐島の手が止まった。
「整備長殿」
「何です」
桐島は外筒から手を離さないまま、静かに言った。
「この機械は、ちゃんと当たりますか」
格納庫が、静かになった。
幸造はトルクレンチを持ったままだった。
当たるかどうか。
その言葉の意味を、幸造は知っていた。技術的な話ではなかった。命中精度の話でもなかった。
この機械に乗って死ぬことは、意味があるか。
そう聞いていた。
幸造は工具を動かし続けた。
音だけが続いた。
十秒が過ぎた。三十秒が過ぎた。
桐島は急かさなかった。答えを待っていた。
幸造には、答えがなかった。
「当たるように整備する」
絞り出すように、それだけ言った。
桐島は少しの間、黙っていた。
「そうですか」
それだけ言って、格納庫を出て行った。
足音が遠ざかった。
幸造は工具を置いた。
回天の外筒の前に立った。
桐島が触れた場所に、自分の手を当てた。
冷たかった。
「頼むから帰ってこい」
声にならない声だった。
自分でも、何を言っているかわからなかった。
格納庫の外で、波の音がしていた。
・ ・ ・
その夜。
幸造は兵舎に戻る前に、もう一度格納庫に入った。
常夜灯の下、回天は静かに据えられていた。
幸造はハッチの縁をもう一度確かめた。締まり具合。パッキンの状態。どこにも問題はなかった。
完璧に整備されていた。
それが、幸造には何の慰めにもならなかった。
工具箱を閉めて、格納庫を出た。
空に星があった。
瀬戸内の夜は、深く静かだった。
・ ・ ・
出撃の朝は、風がなかった。
桐島は搭乗服を着て、桟橋に立っていた。眼鏡は外していた。裸眼で見る海を、しばらく眺めていた。
幸造は最後の点検を終え、桐島の前に立った。
「整備は済んだ」
「ありがとうございます」
桐島は少し笑った。眼鏡を外した顔だった。
それ以上、何も言わなかった。
ハッチに向かい、梯子を下りていった。
ハッチが閉まる音がした。
幸造はその音を、いつまでも聞いていた。
・ ・ ・
それから幸造は、電文を待った。
一日待った。二日待った。
何も来なかった。
十日が過ぎた。
通信室に、幸造は自分から足を運んだ。当直の士官に、桐島の艇の状況を尋ねた。
士官は書類を繰って、しばらくしてから答えた。
「母艦との連絡は、予定海域到達の報告を最後に、途絶えています」
「それだけですか」
「それだけです」
爆発音の報告もなかった。命中の報告もなかった。何も、なかった。
幸造は礼を言って、通信室を出た。
格納庫に戻った。
手帳を開いた。
桐島の頁を開いた。
「眼鏡を外すと少し笑う」
「向き合うもんだと言った。わかったかどうか」
その下に、何か書き足そうとした。
鉛筆を持ったまま、幸造は動かなかった。
書くことが、なかった。
当たったのかどうかさえ、分からない。海のどこかで、消えた。それだけだった。
幸造は鉛筆を、手帳に挟んだままにした。
頁は、白いままだった。
格納庫を出て、海を見た。
凪いでいた。
どこまでも凪いでいた。
その凪ぎが、幸造には一番、怖かった。
(第三話・了)




