第二話「農家の息子」
村田秋男が初めて声をかけてきたのは、幸造が着任して三日目の朝だった。
格納庫の外で工具箱を開けていると、背後から「整備長殿」と呼ぶ声がした。
振り向くと、小柄な搭乗員が立っていた。十八歳とは聞いていたが、見た目はもっと幼く見えた。頬に赤みがあり、耳が大きかった。
「何か」
「いえ、あの」
村田は少し俯いた。
「回天の、調子はどうですか」
幸造は村田を一度見て、また工具に目を戻した。
「悪くない」
「そうですか」
村田はそれでも立ち去らなかった。幸造が黙って作業を続けていると、しばらくして村田がまた口を開いた。
「整備長殿は、呉のご出身ですか」
「そうです」
「自分は鹿児島です」
「遠いな」
「はい。船で三日かかりました」
幸造は何も言わなかった。村田も何も言わなかった。しばらく、工具の音だけが続いた。
「母が、芋焼酎を持たせてくれました」
村田が唐突に言った。
「ここに来る前に、実家に寄ったんです。母は何も言わんで、焼酎だけ持たせてくれました」
幸造は手を止めなかった。
「飲んだか」
「まだです。なんか、飲めんくて」
「そうか」
それきり村田は黙った。しばらくして「失礼します」と敬礼して、行ってしまった。
・ ・ ・
村田はそれから毎朝のように格納庫に顔を出した。
用があるわけではなかった。ただ来て、幸造の傍に立って、とりとめのない話をした。
鹿児島の話。実家の畑の話。芋の収穫が今年は少なかった話。弟が二人いて、二人とも父親に似て耳が大きいという話。
幸造は相槌を打つだけだった。しかし追い払わなかった。
ある朝、村田が言った。
「整備長殿はご家族は」
幸造は外筒の継ぎ目を指先で確かめながら答えた。
「息子が一人いた」
「いた、ですか」
「フィリピンで死んだ」
村田は黙った。
「すみません」
「謝ることじゃない」
幸造はそれ以上言わなかった。村田も聞かなかった。
その日は、いつもより早く村田が格納庫を出て行った。
・ ・ ・
夜、幸造は息子、清の写真を出した。
小さな白黒写真だった。二十代の半ばに撮ったものだろう、清は少し照れたような顔で、カメラの少し横を見ていた。
幸造はその写真を、しばらく見ていた。
村田の顔が浮かんだ。
頬の赤み。大きな耳。とりとめのない話。
似ていなかった。顔も、声も、話し方も、何一つ似ていなかった。
それでも浮かんだ。
幸造は写真を仕舞った。横になった。目を閉じた。
眠れなかった。
・ ・ ・
翌朝。
格納庫に向かう途中、掲示板の前に人が集まっていた。
幸造は足を止めた。
白い紙が一枚、貼り出されていた。
出撃搭乗員名簿。
幸造は人の隙間から、その紙を見た。
村田秋男。
名前があった。
幸造は掲示板から目を離した。
格納庫に向かった。
工具箱を開けた。
道具を並べた。
何も言わなかった。
・ ・ ・
その日の整備は、いつもより時間がかかった。
幸造は一つ一つの箇所を、普段より丁寧に確かめた。継ぎ目。ハッチの縁。推進軸の噛み合わせ。
誰かに頼まれたわけではなかった。
命令でもなかった。
ただ手が、そう動いた。
夕方、格納庫を出る時、村田が入口の近くに立っていた。
幸造に気づいて、村田が敬礼した。
幸造は頷いた。
二人はそれだけで、すれ違った。
・ ・ ・
数日後、出撃の日が来た。
早朝、桟橋に回天が運ばれた。搭載作業を、幸造は立ち会って見守った。索具を確かめる。固縛の金具を締める。いつもと同じ点検だった。
村田が桟橋に現れた。搭乗服に身を包み、いつもより背筋が伸びていた。
幸造の前で、村田は足を止めた。
「整備長殿、お世話になりました」
「機体は万全だ」
それだけ言った。
村田は頷いて、笑った。頬の赤みは、その朝も変わらなかった。
「行ってきます」
村田はハッチに向かって歩いた。梯子に足をかけ、体を沈めていった。
ハッチが閉じた。
搭載艇が動き出した。
幸造は桟橋に立ったまま、それを見ていた。
小さくなっていく艇影を、いつまでも見ていた。
・ ・ ・
十日ほど経った日の午後、幸造は工具箱の手入れをしていた。
通信室の下士官が、格納庫まで走ってきた。手に一枚の紙を持っていた。
「整備長殿に、これを」
幸造は手を止めて、紙を受け取った。
「爆発音一、確認。戦果不明」
短い電文だった。それだけしか書かれていなかった。
幸造はその場に立ったまま、何度も文字を読んだ。
爆発音がした。それだけは確かだった。
当たったのか。逸れたのか。誰にも分からなかった。
下士官は次の言葉を待つように立っていたが、幸造が何も言わないので、やがて敬礼した。
幸造も、敬礼を返した。
下士官はそれで踵を返し、去っていった。
幸造は工具箱の蓋を、静かに閉じた。
それから内ポケットから手帳を取り出した。
電文を、村田の頁の間に挟んだ。
折り目をつけないよう、丁寧に挟んだ。
手帳を閉じた。
しばらく、その場を動かなかった。
格納庫の外で、いつもと同じ潮の匂いがしていた。
いつもと同じ、何一つ変わらない午後だった。
それが、幸造には一番こたえた。
(第二話・了)




