第一話「機械」
本作は史実を背景にしたフィクションです。登場人物および人物にまつわる出来事・会話・心理描写は、著者による創作です。
渡し船は小さかった。
藤堂幸造は船縁に手をかけ、海を見ていた。十月の瀬戸内は凪いでいた。水面が鈍く光り、遠くに島の影が見えた。
「整備長殿は、呉からいらしたのですか」
隣に立った若い海軍中尉が声をかけてきた。まだ二十代の前半だろう。制帽の庇が真っすぐで、靴が光っていた。
「そうです」
幸造は短く答えた。
「遠いところをわざわざ。大津島は初めてですか」
「初めてです」
「不便なところですが、どうかよろしくお願いします」
中尉は丁寧に頭を下げた。幸造はそれを横目に見て、また海に目を戻した。
波がない。風もない。
渡し船のエンジン音だけが、水の上に広がっていた。
・ ・ ・
島に着いた。
桟橋を渡り、砂利道を歩いた。中尉が先に立って案内した。木々の間から秋の光が落ちていた。島は静かだった。どこかで鳥が鳴いていた。
格納庫は島の南側にあった。
引き戸を開けると、薄暗い空間に、それはいた。
幸造は立ち止まった。
全長十四メートル七十センチ。直径一メートル。外筒は鈍い灰色で、薄明かりの中でも鈍く照り返していた。魚雷の中に、人ひとりが乗り込む。操縦し、敵艦に体当たりする。それが、この兵器のすべてだった。
この兵器の名前は、回天といった。
「どうですか」
中尉が聞いた。
幸造はしばらく黙っていた。
格納架に据えられた回天を、上から下まで、ゆっくりと目で辿った。継ぎ目。ハッチの縁。推進軸の出口。
「よくできとる」
それだけ言った。
中尉は何か言おうとして、口を閉じた。
・ ・ ・
その日の夜。
兵舎に荷を解いた後、幸造は一人で格納庫に戻った。
当直の下士官が敬礼した。幸造は軽く頷いて、中に入った。
常夜灯が一つ、天井近くに灯っていた。回天の輪郭が暗がりの中に浮いていた。
幸造は工具箱を開けた。
手慣れた順番で道具を並べた。内径ゲージ。トルクレンチ。点検用の細い鏡。呉の工廠で長年使ってきた道具たちだった。
外筒の点検から始めた。
指先で継ぎ目を辿る。溶接の跡を確かめる。歪みがないか。腐蝕の兆候がないか。
通常の兵器なら備わっているはずの脱出装置が、この機体にはなかった。幸造はそのことを、驚くでもなく、ただ点検表に記した。
無言だった。
工具の当たる小さな音だけが、格納庫に響いた。
幸造は機械を見ていた。
機械だけを見ていた。
一時間が過ぎた。
点検を終えて、工具を仕舞おうとした時、手が止まった。
外筒の、ちょうど中央あたり。搭乗員が内側から背中を当てる位置に、幸造の右手が触れていた。
冷たかった。
鉄の、乾いた冷たさだった。
幸造はその手を、すぐに引いた。
工具箱を閉めた。立ち上がった。格納庫の引き戸を開けると、夜の海から風が来た。
潮の匂いがした。
幸造は少しの間、暗い海を見ていた。
それから兵舎に戻った。
(第一話・了)




