第九十七話 11月16日 帰りの新幹線と、持って帰るもの
修学旅行最終日の朝は、これまでで一番静かだった。
ホテルのロビーに集合したとき、誰もがどこか疲れた顔をしていた。
三日分の距離を歩いた足が、朝から重かった。
「今日、新幹線で寝る」
太秦が、あくびを噛み殺しながら言った。
「昨日もそう言ってた気がする」
さやかが返した。
「昨日は寝れなかった。今日こそ寝る」
「その決意、何回目?」
さやかが、呆れながらも笑っていた。
「みおは、よく眠れた?」
さやかが、みおに聞いた。
「はい。……でも、名残惜しくて、なかなか寝付けませんでした」
「分かる。最終日の夜って、そうなるよね」
さやかが、しみじみと頷いた。
朝食の席でも、話題は自然と修学旅行の振り返りになっていた。
「一番良かったのは、何だった?」
太秦が、周りに聞いた。
「金閣寺かな。あと道頓堀」
さやかが答えた。
「太秦は?」
央が聞いた。
「串カツかな。あと、鹿にせんべい取られかけた」
「取られかけた、なんだ」
「一枚は死守した」
太秦が、少し得意げに言った。
「みおは?」
さやかが聞いた。
「……選ぶのが難しいです。全部、印象に残っているので」
みおが、少し困ったように答えた。
「贅沢な悩みだ」
太秦が言った。
「贅沢、でしょうか」
「贅沢だと思う。楽しすぎて選べないって、悪くない状態だろ」
太秦が、そう言って、味噌汁を飲み干した。
「おうくんは?」
太秦が、今度は央に聞いた。
「……縁側で、少し話した時間が、印象に残っています」
央が、そう答えた。
みおが、その言葉に、小さく反応した。
でも、何も言わなかった。
新幹線に乗り込むと、車内は行きよりも静かだった。
太秦は宣言通り、発車してすぐに眠りに落ちた。
さやかも、目を閉じて、うとうとし始めていた。
央の隣で、みおが窓の外を見ていた。
流れる景色を、ただ黙って眺めているようだった。
「疲れましたか」
央が聞いた。
「はい。……でも、悪い疲れではありません」
「良い疲れ、ですか」
「はい。……央さんは、どうですか」
「同じです」
央が答えた。
しばらく、二人とも黙って、窓の外を見ていた。
富士山が見える方角に近づいても、今度は雲に隠れて見えなかった。
「見えませんね」
みおが、少し残念そうに言った。
「行きに見えたので、良しとしましょう」
「そうですね」
みおが、小さく笑った。
「……楽しかったですか」
央が聞いた。
「……はい。来てよかったです」
みおが、そう答えた。
短いやりとりだったが、それで十分だった。
三泊四日の間にあったことを、今さら言葉で数え上げる必要はなかった。
「央さんは、楽しかったですか」
みおが、聞き返した。
「はい。……色々ありましたが、全部、良い記憶です」
央が、そう答えた。
みおが、その言葉に、小さく頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
でも、その沈黙は、気まずいものではなかった。
みおは、車窓に映る自分の顔を、少しの間見ていた。
(この四日間で、何かが変わった気がする)
みおは、そう思った。
鹿に懐かれたことも、東大寺で大仏を見たことも、道頓堀で串カツを食べたことも、
どれも些細な出来事だった。
でも、その積み重ねの中で、央との距離が、確かに縮まっていた。
窓の外を流れる景色を見ながら、みおは、小さく息をついた。
良い意味で、疲れていた。
そして、その疲れの中に、確かな満足感があった。
太秦の座席の周りには、大量の紙袋が積まれていた。
「これ、新幹線の網棚に入りきるか?」
太秦が、荷物と格闘しながら言った。
「言ったじゃん、両方買うのやめときなって」
さやかが言った。
「両方じゃなくて、色々買っただけ」
「色々にしても、量が多い」
太秦が、なんとか一つを網棚に押し込んだ。
「たこ焼きキーホルダーと通天閣マグネットだけじゃなかったのか」
央が聞いた。
「あの後、串カツのタレとか、串カツ味のスナックとか、色々見つけた」
「串カツ味のスナック、それは要る?」
「食べてみたかった」
太秦が、悪びれずに答えた。
「家族の分は?」
さやかが聞いた。
「もちろん買った。姉の分と、親の分と」
「お姉さん、何歳だっけ」
「大学一年」
「大学生、しかもお姉さんが串カツ味のスナック喜ぶかな」
「喜ばなくても、それはそれで面白い」
太秦が、そう言って、最後の紙袋を無理やり座席の下に押し込んだ。
「これで全部か」
「たぶん」
「たぶんって」
「数えてない」
太秦が、堂々と言い切った。
さやかが、あきれながらも、最終的には手伝ってあげていた。
ひなは、自分のクラスの席で、旅行中に撮った写真を選んでいた。
途中の休憩時間、こちらの車両まで見せに来た。
「見て見て、ベストショット選んでる」
ひなが、スマホの画面をみんなに見せた。
「みおとケーキのやつ、一番いい」
「みおと鹿のやつも捨てがたい」
「葛城さんの写真ばっかりだな」
太秦が言った。
「みお、画面映えするから」
ひなが、あっさり答えた。
「……そう、なんですか」
みおが、少し戸惑いながら画面を覗き込んだ。
「うん。背が高い分、構図が決まりやすい」
「それ、褒めてますか」
「褒めてる。すごく褒めてる」
ひなが、力強く頷いた。
「他の人の写真は?」
さやかが聞いた。
「もちろんある。太秦くんの串カツ食べてる顔とか、さやかの食べ歩き解説してる顔とか」
「解説してる顔って、どんな顔」
「真剣な顔」
「悪くない気がする」
さやかが、少し満足そうに言った。
「俺の写真は入ってる?」
太秦が、自分のことを聞いた。
「もちろん。串カツ食べてる顔と、鹿から逃げてる顔」
「逃げてない、あれは戦略的撤退」
「逃げてるように見えたけど」
ひなが、譲らなかった。
「おうくんの写真は?」
太秦が聞いた。
「勢多くんは、意外と写真少ない」
「なんで」
「みおを見てる時間が長いから、レンズの方向いてない」
ひなが、あっさり言った。
「……そうなんですか」
央が、少し言葉に詰まった。
「否定しないんだ」
太秦が、面白そうに言った。
央は、それ以上何も言わなかった。
央も、その写真を見せてもらった。
鹿に囲まれて困惑するみお、金閣寺の前で微笑むみお、串カツを頬張るみお。
どの写真も、いつもの教室では見られない表情をしていた。
(こうして見ると、本当に、色々あった)
央は、そう思いながら、画面をスクロールした。
昼過ぎ、車内販売でお土産を選ぶ時間があった。
「ことね先輩には、八つ橋だな」
太秦が言った。
「リクエストされてたやつ」
さやかが言った。
「約束は守る主義」
太秦が、そう言って、八つ橋の箱を手に取った。
「ことね先輩、本当に楽しみにしてたよね」
さやかが言った。
「あの人、甘いもの好きだから」
太秦が答えた。
央は、少し離れた棚で、別のものを見ていた。
「朔さんには、何がいいと思いますか」
央が、みおに聞いた。
「……朔さんらしいもの、ですか」
「はい。甘いものより、落ち着いた感じのものが好きそうな気がして」
みおが、棚を見回しながら考え込んだ。
「これは、どうですか」
みおが、小さな陶器の香立てを手に取った。
控えめな柄で、派手さはなかった。
「良いと思います。静かな部屋に、似合いそうです」
央が、それを買うことに決めた。
「みおは、いつも選ぶの上手ですね」
「……そうでしょうか」
「はい。相手のことを、よく見ていると思います」
央が、素直にそう言った。
みおが、少し照れたように、視線を逸らした。
「央さんこそ、よく見ていると思います」
「そうですか」
「はい。……ひなに、指摘されていたので」
みおが、少し悪戯っぽく言った。
央は、それに対して、特に反論しなかった。
「自分の分は、何か買いましたか」
みおが聞いた。
「まだです。みおは?」
「わたしも、まだです」
「一緒に見ますか」
「はい」
二人で、残りの棚を回った。
小さな置物や、地域限定の菓子が、所狭しと並んでいた。
「これ、可愛いですね」
みおが、小さな金閣寺の置物を手に取った。
「買うんですか」
「……少し迷います」
「記念になると思います」
「そうですね」
みおは、結局、その置物を買うことに決めた。
央も、自分用に、道頓堀の看板をモチーフにした小さなキーホルダーを選んだ。
「それ、太秦くんと少し被ってますね」
「……そうかもしれません」
央が、少し苦笑した。
夕方、東京駅に着いた。
解散前に、最後の点呼が行われた。
「みんな、四日間お疲れ様でした」
担任の笠置先生が言った。
「疲れました」
太秦が、正直に答えた。
「その分、良い思い出になったと思います。気をつけて帰ってください」
笠置先生が、そう言って、生徒たちを見送った。
改札の前で、それぞれが解散していった。
「じゃあ、また月曜日」
太秦が言った。
「うん、また」
さやかが答えた。
「太秦くん、荷物、家まで持てる?」
さやかが、心配そうに聞いた。
「持てる。たぶん」
「たぶんって」
「限界に近いけど、持てる」
太秦が、そう言って、大量の紙袋を担ぎ直した。
「央さんも、また」
みおが言った。
「はい、また」
央が答えた。
いつもの挨拶だったが、今日は少しだけ、名残惜しさが混じっていた。
自宅に帰ると、母親が夕食の支度をしていた。
「おかえり。楽しかった?」
「うん、楽しかった」
央が、荷物を下ろしながら答えた。
「お土産、見せてよ」
「後で。まず、着替えたい」
「せっかちだね」
母親が、少し笑いながら言った。
央は、部屋に戻ると、まず荷物を整理した。
汚れた服と、お土産と、使わなかった小物を、それぞれ分けていく。
机の上に、朔のために選んだ香立てを置いた。
小さな陶器が、電灯の光を受けて、静かな艶を見せていた。
(みおが選んだものだ)
央は、そう思いながら、しばらくそれを見ていた。
その夜、自宅に戻った央は、荷物を整理してから、グループLINEを開いた。
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央:ことねさん、朔さん、お土産持って行きます
朔:ありがとうございます
ことね:八つ橋ちゃんと買ってきた?
央:買いました
ことね:やった
朔:僕の分も、ありがとうございます
央:好みが分からなかったので、適当に選びました
朔:楽しみにしています
ことね:央、ちゃんと楽しんだ?
央:楽しみました
ことね:それが一番大事
太秦:俺も土産買ったからな
ことね:太秦くんは毎回買いすぎ
太秦:今回は控えめだった
さやか:控えめではなかった
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央は、その画面を見ながら、少しだけ笑った。
窓の外は、もうすっかり夜になっていた。
いつもの東京の街並みが、当たり前のようにそこにあった。
修学旅行は終わったが、持ち帰ったものは、写真やお土産だけではなかった。
縁側での会話、東大寺での一言、道頓堀の橋の袂での時間。
どれも、これからの日常の中に、静かに溶け込んでいくはずだった。
(また、いつもの毎日が始まる)
央は、そう思いながら、机の上に置いた土産物を眺めた。
ことねの八つ橋、朔の香立て、そして自分たちの分の小さな菓子。
どれも、この四日間の記憶と、結びついていた。
スマホがもう一度鳴った。
みおからの、短いメッセージだった。
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みお:今日は、ありがとうございました
央:こちらこそ、ありがとうございました
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短いやりとりだったが、それで十分だった。
東京の夜景は、京都や奈良や大阪とは、また違う色をしていた。
それでも、帰ってきたという実感が、じんわりと胸に広がっていった。
明日からは、また、いつもの学校生活が始まる。
でも、この四日間で積み重ねたものは、きっと、これからも色褪せずに残るはずだった。
央は、ベッドに横になりながら、この四日間を、もう一度振り返った。
新幹線で見た富士山。
旅館の縁側での短い会話。
奈良の鹿と、ひなの再会。
道頓堀での、ことねの実家の思い出話。
そして、車内での「……遠くないです」から始まった、様々な積み重ね。
どれも、単体では小さな出来事だった。
でも、四日間という時間の中で、それらが折り重なって、ひとつの確かな手触りになっていた。
(また、こういう時間が持てるだろうか)
央は、そう思いながら、目を閉じた。
次の機会がいつになるかは分からなかった。
でも、今日という日が、確かに大切な一日だったことだけは、疑いようがなかった。
窓の外では、東京の夜が、いつも通りの速さで更けていった。
修学旅行は終わったが、そこで得たものは、これからの毎日の中に、静かに息づいていくはずだった。
明日、教室で顔を合わせたら、いつも通りの日常が戻ってくる。
でも、その日常の中身は、四日間前とは、少しだけ違っているはずだった。
ご一読いただきありがとうございます。
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