第九十五話 11月14日 奈良と、鹿と、ひな
修学旅行二日目の朝は、京都よりも少し冷え込んでいた。
朝食の会場に集まると、それぞれの部屋での夜の話が、あちこちで交わされていた。
「昨日、隣の部屋、遅くまで喋ってたでしょ」
「聞こえてた?」
「壁、薄いから」
太秦が、味噌汁を飲みながら、周りの会話に耳を傾けていた。
「よく眠れた?」
さやかが、みおに聞いた。
「はい。旅館の布団、慣れないものですが、意外と眠れました」
「わたしはちょっと寝つき悪かった」
「枕、変えました?」
「変えてない。単純に、修学旅行のテンションで目が冴えてた」
さやかが、そう言って、焼き魚に箸をつけた。
「太秦くんは?」
さやかが聞いた。
「秒で寝た」
「早いね」
「疲れてたんだと思う。歩いた距離、普段の比じゃない」
太秦が、そう言って、ご飯をおかわりしに行った。
担任の笠置先生が、今日の行程を確認していた。
「今日は奈良です。バスで移動して、東大寺と奈良公園、それから興福寺を回ります」
「鹿、絶対いますよね」
太秦が、味噌汁をすすりながら聞いた。
「います。餌をあげすぎないように」
「せんべい一枚くらいなら」
「一枚で足りるとは、鹿は思っていませんよ」
笠置先生が、そう言って、次のテーブルへ移っていった。
「先生、鹿に詳しいのか」
太秦が、少し感心したように言った。
「去年と同じ説明をしてるだけだと思う」
さやかが言った。
「それはそれで、ちょっとすごい」
太秦が、納得したように頷いた。
バスに揺られて一時間ほどで、奈良公園に着いた。
移動中、グループLINEが動いた。
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太秦:今日は奈良。鹿がいるらしい
ひな:今日絶対合流するから待ってて
ことね:奈良、懐かしい
朔:僕たちも去年行きましたね
ことね:そうだっけ?
朔:そうです。あなたが鹿に追いかけられました
ことね:黒歴史掘り起こすのやめて
朔:思い出は大事にした方がいいと思います
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太秦が、画面を見ながら笑った。
「ことね先輩、鹿に追いかけられたのか」
「今日は太秦くんが追いかけられるかもね」
さやかが言った。
「不吉なこと言うなよ」
到着してすぐ、鹿の姿があちこちに見えた。
観光客に交じって、修学旅行生たちも、思い思いに鹿せんべいを買っていた。
「買う」
太秦が、真っ先に売店へ向かった。
「言った通りになった」
さやかが、呆れながらついていった。
太秦がせんべいを買って戻ってくると、早速一頭の鹿が近づいてきた。
「お、来た」
太秦が、せんべいを差し出すと、鹿はすぐにそれを食べて、もう一枚をねだるように頭を下げた。
「まだあげてもいいのか、これ」
「一枚くらいなら平気だと思う」
さやかが言った。
太秦が二枚目を出すと、鹿は満足そうに食べ終えて、あっさり離れていった。
「なんか、素っ気なくないか」
「食べ物目当てなだけだと思う」
さやかが、冷静に言った。
みおは、少し離れたところで、鹿の様子を眺めていた。
特に何かをするでもなく、ただ立っていただけだった。
それなのに、一頭の鹿が、みおの方へゆっくり近づいてきた。
みおが動かずにいると、鹿はさらに寄ってきて、服の裾を軽く鼻先でつついた。
「……懐かれています」
みおが、少し戸惑いながら言った。
その様子を見て、さやかが目を丸くした。
「なんで鹿だけそんなに寄ってくるの」
「分かりません」
「みお、変な圧が出てないのかもね。背が高いのに、威圧感がないというか」
「褒めているんですか」
「褒めてる、たぶん」
さやかが、あいまいに答えた。
太秦が、せんべいを片手に戻ってきた。
「おれのところには全然来ないのに」
「太秦くん、動きが忙しないから、警戒されてるんだと思う」
さやかが言った。
「そんな理由?」
「鹿にも好みがあるんだと思う」
太秦が、鹿の輪の中心にいるみおを、少し羨ましそうに見ていた。
気づけば、二頭、三頭と、みおの周りに鹿が集まってきていた。
どの鹿も、みおの持っていない手のひらを、期待するように見つめていた。
「……一度に、これは困ります」
みおが、困ったような、でも少し楽しそうな声で言った。
「せんべい持ってないのに、なんで集まるんだ、それ」
太秦が、不思議そうに言った。
「持ってなくても、期待だけはされてるみたい」
さやかが言った。
央は、その光景を、少し離れたところから見ていた。
いつもの落ち着いたみおとは違う、慌てた様子が、珍しく見えた。
「……央さん、助けてください」
みおが、小さく助けを求めた。
「どうすればいいですか」
「分かりません。……とにかく、この状況をどうにか」
央が近づくと、鹿たちは新しい人間の登場に、少しだけ警戒するように距離を取った。
その隙に、みおは鹿の輪から抜け出した。
「……ありがとうございます」
「役に立てたなら、よかったです」
央が言った。
「頼りになりますね」
みおが、少し照れたように言った。
太秦が、その様子を見て、また何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わなかった。
奈良公園を抜けて、東大寺に着いた。
南大門をくぐると、木造の建物としては世界最大級だという説明が、しおりに書かれていた。
「でかいとは聞いてたけど、実物はもっとでかいな」
太秦が、門を見上げながら言った。
「語彙力、それだけ?」
さやかが言った。
「でかいものはでかいとしか言いようがない」
太秦が、開き直ったように答えた。
大仏殿の中は、想像していたよりも広く、大仏の大きさに、みんなが一様に見上げていた。
「大きいですね」
みおが、首を反らしながら言った。
「はい」
央も、同じように見上げた。
「去年、ことねさんたちが、ここに来たと聞いていました」
央が言った。
「……そうなんですね」
みおが、少し考えるように言った。
「同じ場所に、同じように立って、同じものを見ていたんだと思うと、少し不思議な感じがします」
「先輩たちも、同じことを思ったかもしれません」
央が言った。
「そうかもしれません」
みおが、そう言って、大仏の顔をもう一度見上げた。
「……来れてよかったです」
みおが、小さく言った。
央は、その言葉に、静かに頷いた。
言葉数は多くなかったが、その一言に、これまでの積み重ねが、少しにじんでいる気がした。
柱の一部に、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が空いていて、そこをくぐると御利益があるという言い伝えがあった。
太秦が、真っ先に列に並んだ。
「太秦くん、そこ、子ども向けだと思う」
「関係ない。くぐれるものはくぐる」
太秦は、少し苦労しながらも、なんとか穴を通り抜けた。
「よし、これで来年のテスト運は完璧」
「因果関係、何もないと思う」
さやかが、冷静に突っ込んだ。
「葛城さんもくぐる?」
太秦が聞いた。
「……遠慮しておきます」
「なんで」
「引っかかりそうな気がするので」
みおが、少し困ったように答えた。
「それは、確かに」
さやかが、思わず同意した。
央は、その様子を見ながら、少しだけ笑みを浮かべた。
自由行動の時間になり、太秦とさやかと合流して、興福寺の五重塔を見に向かった。
道の途中、太秦がしおりを見ながら言った。
「五重塔、日本で二番目に高いんだって」
「一番は?」
さやかが聞いた。
「京都の東寺」
「昨日通ったところ?」
「たぶん、バスの窓から見えてたと思う」
「見てなかった」
「おれも見てなかった」
太秦が、悪びれずに言った。
みおは、しおりの案内図を見ながら、次の目的地までの道を確認していた。
「あと少しみたいです」
「葛城さん、地図読むの得意だよな」
太秦が言った。
「得意というより、迷うのが苦手なだけです」
みおが、真面目な顔で答えた。
「それ、得意って言うと思う」
太秦が言った。
「そうでしょうか」
「地図見ながら迷わない人、貴重」
「太秦くんは迷う方?」
「迷う。よく迷う」
太秦が、堂々と言った。
「よく迷うのに、班長やってるんだ」
さやかが言った。
「班長と方向感覚は別の能力だから」
「その理屈、初めて聞いた」
さやかが、呆れながらも笑っていた。
そんな話をしながら歩いていると、その途中、遠くから大きな声が聞こえた。
「やっと合流できた!」
ひなが、カメラを片手に、こちらへ駆けてきた。
「ひなちゃん、本当に来た」
太秦が言った。
「約束したでしょ。写真撮って!」
ひなが、そう言うなり、みおに勢いよく抱きついた。
「……ひな、急に」
みおが、少し困惑しながらも、抱きつかれるままになっていた。
「久しぶりの気がする! 昨日会ってないだけなのに!」
「一日しか経ってません」
「一日でも会えないと寂しいの」
ひなが、みおから離れて、今度はカメラを構えた。
「はい、みんなでポーズ」
「急すぎる」
太秦が言いながらも、カメラの方を向いた。
五重塔を背景に、五人で並んで写真を撮った。
ひなが加わったことで、それまでの落ち着いた雰囲気が、一気に賑やかになった。
「これで七人揃ったも同然だな」
太秦が、そう言って、ひなの方を見た。
「同然、とは?」
みおが聞いた。
「慧くんとほのかちゃんはいないけど、気分的にはそんな感じ」
太秦が、そう言って、少し笑った。
央は、その言葉を聞きながら、東京にいる二人のことを、少しだけ思った。
修学旅行の間、慧とほのかは、いつもと変わらない毎日を過ごしているはずだった。
でも、ここにいる自分たちのことを、きっと少し気にしているだろうとも思った。
「ひなっち、写真、撮りすぎじゃない?」
さやかが言った。
「撮りすぎるくらいがちょうどいい。後で見返したときの気分が違う」
「その理屈、毎回聞いてる」
「毎回本当だから言ってる」
ひなが、悪びれずにシャッターを切り続けた。
みおが、その様子を見ながら、少し笑っていた。
「ひなと一緒だと、あっという間に時間が過ぎますね」
「それ、褒めてる?」
ひなが聞いた。
「褒めています」
みおが答えた。
夕方、興福寺を出て、集合場所へ向かう道すがら、太秦がふと言った。
「ひなちゃんが来ると、なんか空気変わるよな」
「変わりますね」
央が答えた。
「昨日までの、ちょっと静かな感じも悪くなかったけど」
太秦が、そう言って、それ以上は続けなかった。
央は、その言葉の続きを、少しだけ想像した。
でも、聞かなかった。
太秦のそういうところは、もう十分に分かっていた。
ひなが、撮った写真をグループLINEに投稿していた。
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ひな:奈良、合流できました!
ひな:写真上げます
さやか:五重塔、綺麗に撮れてる
太秦:おれの角度、微妙じゃない?
ひな:撮り直す時間なかったから我慢して
ことね:みんな楽しそうで何より
朔:鹿には気をつけてください
太秦:もう遅い、色々あった
朔:詳細は聞かないでおきます
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太秦が、その返信を見て笑った。
「朔先輩、察しがいいな」
「そうですね」
央が答えた。
集合場所に着くと、他のクラスの生徒たちも、少しずつ集まり始めていた。
ひなは、自分のクラスのバスへ戻る前に、もう一度みおに手を振った。
「また明日、大阪でも会おうね」
「はい。楽しみにしています」
みおが、そう言って、小さく手を振り返した。
「勢多くんも、また明日」
ひなが、央にも手を振った。
「はい、また明日」
央が答えた。
ひなが去っていくと、いつもの四人に戻った。
でも、さっきまでの賑やかさの余韻が、まだ少し残っていた。
「なんか、静かになった気がする」
太秦が言った。
「元々、うちらもそんなに騒がしくないと思う」
さやかが言った。
「ひなちゃんと比べると、みんな静かに見えるだけかもな」
太秦が、そう言って、荷物を担ぎ直した。
バスに乗り込むころには、空が茜色に染まり始めていた。
鹿と大仏と、賑やかになった一日の終わりだった。
窓際の席に座ると、みおが小さく言った。
「今日は、盛りだくさんでしたね」
「そうですね」
「鹿にも、ひなにも、囲まれました」
みおが、少し苦笑しながら言った。
「災難でしたね」
「災難というより……楽しかったです、結局は」
みおが、そう言って、窓の外を見た。
央も、同じように外を見た。
夕暮れの奈良の街並みが、少しずつ後ろへ流れていった。
(明日は、大阪)
央は、そう思いながら、車窓の景色を見送った。
三泊四日の旅は、折り返し地点を過ぎようとしていた。
鹿に囲まれるみお、ひなに抱きつかれて困惑するみお、大仏を見上げるみお。
今日一日だけでも、いつもの教室では見られない表情を、いくつも見た気がした。
(明日は、どんな顔を見られるだろう)
央は、そんなことを思いながら、静かに目を閉じた。
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