第九十四話 11月13日 旅館と、夜の縁側
旅館に着いてから夕食までの間に、大浴場での入浴時間が組まれていた。
「男子、時間制だから急げよー」
引率の教員が、廊下で声を張っていた。
太秦は、脱衣所で早々にタオルを腰に巻いていた。
「大浴場って、なんか落ち着かない」
「今更?」
同室のクラスメイトが返した。
「毎回思う」
「毎回思うわりに、一番早く入るよな」
「早く入って、早く出たいタイプ」
太秦が、そう言って、湯気の向こうに消えていった。
「央、お前は普通に入れる方?」
別のクラスメイトが聞いた。
「特に気にしません」
「羨ましい。俺、家の風呂以外だと妙に緊張する」
「慣れの問題だと思います」
央が答えた。
湯船は広く、窓の外に庭が見える造りだった。
昼間の喧騒とは違う、静かな時間が流れていた。
央も、それほど長くは湯に浸からず、身支度を整えた。
窓の外には、旅館の庭が見えた。
昼間とは違う、静かな輪郭をしていた。
夕食は、大広間だった。
長テーブルがいくつも並び、クラスごとに座席が分かれていた。
二年A組のテーブルは、早くも賑やかだった。
湯豆腐、天ぷら、茶碗蒸し、地元の野菜を使った煮物。
旅館らしい献立が、次々と運ばれてきた。
「これ、修学旅行の夕食って、普段より美味しく感じる」
太秦が、湯豆腐に箸をつけながら言った。
「気の持ちようだと思う」
さやかが、あっさり返した。
「気の持ちようで味は変わらないだろ」
「変わるよ。楽しい気分で食べると美味しく感じる。科学的にもそう言われてる」
「詳しいな」
「前にテレビで見た」
さやかが、テレビで見た程度の知識を、自信満々に披露した。
「それ、根拠としては弱いと思う」
「弱くても、言い切ったもん勝ち」
さやかが、そう言って、天ぷらを口に運んだ。
周りの席では、他のクラスメイトたちも、それぞれの一日を語り合っていた。
金閣寺の話、バスの中でのゲームの話、売店で買ったお菓子の話。
修学旅行という非日常が、いつもより多くの言葉を引き出しているようだった。
みおは、隣の席で、静かに箸を進めていた。
「みおは、量、足りてる?」
さやかが聞いた。
「はい。おかわりもできるようなので、大丈夫です」
「おかわり前提なんだ」
「成長期なので」
みおが、真顔で答えた。
「その理屈、いつまで使うんだろう」
太秦が、小さく呟いた。
誰も、それに答えなかった。
食事の後半、担任が明日の集合時間について簡単な連絡をした。
奈良公園、東大寺、興福寺を回るルートだった。
「鹿がいるらしい」
太秦が言った。
「知ってる。修学旅行の定番でしょう」
さやかが返した。
「鹿せんべい、買う」
「太秦くん、財布の中身、大丈夫?」
「お土産代とは別に確保してある」
太秦が、少し得意げに言った。
「鹿、噛みつくって聞いたことあります」
みおが言った。
「え、そうなの」
「せんべいを催促して、服を引っ張ったりするそうです」
「ちょっと怖いな、それ」
太秦が、少し不安そうな顔をした。
「怖がってるくせに、絶対せんべい買うよね」
さやかが言った。
「買う。買うけど、警戒はする」
「その両立、器用だと思う」
みおが、その会話を聞きながら、小さく笑っていた。
食事が終わりかけたころ、担任の笠置先生が席を回ってきた。
「みんな、明日も元気に行動できるように、今夜はしっかり休むようにね」
「はーい」
クラス全体から、気の抜けた返事が返った。
「太秦くんは特に。昨日の集合、危うく遅れかけたでしょう」
「班長としての自覚を持ちます」
太秦が、急に殊勝な顔をして答えた。
「その顔、信用できない」
さやかが言った。
「信用してくれ」
「実績がないと信用は積み上がらない」
さやかが、きっぱりと言った。
笠木先生が、苦笑しながら次のテーブルへ移っていった。
夕食後、少し自由時間があった。
部屋に戻る途中、グループLINEが動いた。
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ひな:金閣寺の写真、もっと送って!
ことね:夜ご飯、何食べた?
朔:勉強の息抜きに見ています
太秦:湯豆腐と天ぷらと茶碗蒸し
ことね:豪華やん
朔:僕たちも去年そうでしたよ
ことね:そうだっけ?
朔:そうです
ひな:明日は奈良、絶対合流するから
太秦:了解
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太秦が、その画面を見ながら笑っていた。
「朔先輩、こういうところ、変わらないな」
「変わらないですね」
央が、短く答えた。
部屋に戻ると、太秦はすでに友人たちとトランプを始めていた。
「おうくん、混ざる?」
「少し外の空気を吸ってきます」
「珍しいな。……まあ、いってらっしゃい」
太秦が、それ以上は聞かずに、トランプに視線を戻した。
旅館の廊下を歩いていると、庭に面した縁側が見えた。
外は暗くなっていたが、庭の灯籠に灯りがともっていた。
央がそこを通りかかると、みおが先に座っていた。
「……こんなところにいたんですね」
「はい。人が少なくて、落ち着くので」
みおが言った。
「隣、いいですか」
「はい」
央が、みおの隣に腰を下ろした。
しばらく、二人で庭を眺めていた。
池の水面に、灯籠の光が細く反射していた。
「静かですね」
央が言った。
「そうですね。大広間とは、だいぶ違います」
「にぎやかなのも、嫌いじゃないですけど」
「わたしも、たまにはこういう時間の方が、落ち着きます」
みおが、そう言って、少し肩の力を抜いた。
「今日一日、疲れましたか」
央が聞いた。
「疲れました。でも、良い疲れです」
「階段、何度も上りましたからね」
「金閣寺の展望スペースの階段が、一番効きました」
みおが、少し笑って言った。
「明日は、もっと歩くと思います」
「覚悟しておきます」
みおが、そう答えて、また庭の方を見た。
虫の声が、遠くから小さく聞こえていた。
東京では、あまり気にしたことのない音だった。
「央さんは、去年もこの時期、修学旅行のことを考えたりしましたか」
みおが、ふと聞いた。
「先輩たちが京都に行くのは知っていました。でも、自分のこととしては、あまり考えていなかったと思います」
「そうですか」
「みおは、考えていましたか」
「……少しだけ。二年生になったら、こういう景色を見るんだろうか、と」
みおが、庭の方を見たまま言った。
「今、見られていますね」
「はい」
みおが、小さく笑った。
「でも、想像していたのと、少し違います」
「どう違いますか」
「一人で見る景色だと思っていました。……こんなふうに、誰かの隣で見るとは思っていませんでした」
みおが、そう言って、少し俯いた。
央は、その言葉に、すぐには返せなかった。
でも、何も言わなくても、みおはそれ以上を求めていないようだった。
少しの沈黙のあと、みおがふと口を開いた。
「……去年、ことねさんたちの修学旅行のとき、央さんはどんな気持ちでしたか」
「去年、ですか」
央は、少し考えた。
去年の今頃、二年生の先輩たちが同じように京都へ行っていた。
自分は一年生の教室で、いつも通り授業を受けていた。
「……うまく言えませんでしたが、遠いような気がしていました」
「遠い、というのは」
「先輩たちが、自分たちとは違う場所にいる、という感覚です。学年がひとつ違うだけなのに、随分先を歩いているように見えました」
央が、そう答えた。
みおが、それを聞いて、少し黙った。
「……今は?」
短く、聞いた。
央は、その問いを、少しの間考えた。
一年前の自分を思い出した。
あの頃は、隣の席にみおが座ることも、こうして並んで庭を眺めることも、想像していなかった。
あの頃感じていた「遠さ」は、今の自分にはもう、どこにも見当たらなかった。
「……遠くないです」
央が、静かに答えた。
みおが、少しだけ息を止めたように見えた。
それから、小さく頷いた。
「……そうですか」
それだけ言って、みおは、また庭の方に視線を戻した。
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
でも、言葉にしなかった分だけ、その静けさが、確かなものに感じられた。
灯籠の光が、風もないのに、わずかに揺れていた。
しばらくして、みおが立ち上がった。
「……そろそろ、戻ります」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「何がですか」
「……いろいろ、です」
みおが、そう言って、少し照れたように微笑んだ。
央は、その表情を、しばらく覚えておこうと思った。
みおが縁側を離れる足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
央は、しばらくその場に残って、庭を眺めていた。
一人になった静けさの中で、さっきの会話を、もう一度確かめるように思い出していた。
みおが部屋に戻ると、さやかがすでに布団を敷いていた。
「遅かったね」
「少し、庭を見ていました」
「一人で?」
「……いえ」
みおが、言葉を濁した。
「ふうん」
さやかが、それ以上追及しなかった。
でも、口元は、少し笑っていた。
「明日も早いから、早く寝よう」
「はい」
みおは、布団に入りながら、縁側での会話を、もう一度思い出していた。
短いやりとりだったが、胸の中に、まだ何かが残っている感じがした。
(遠くない、と言ってくれた)
みおは、天井を見上げながら、その言葉を、もう一度心の中で繰り返した。
一年前、自分は、隣の席になった央のことを、ほとんど知らなかった。
背が高いことを気にして、周りとの距離を測るような日々だった。
それが今は、修学旅行の夜に、こうして誰かの言葉を、何度も思い出している。
(変わったのは、わたしの方かもしれない)
みおは、そう思いながら、目を閉じた。
隣の布団から、さやかの寝息が、少しずつ聞こえ始めていた。
消灯時間の少し前、央は男子部屋に戻った。
太秦が、布団の上で仰向けになっていた。
同室の他のクラスメイトたちは、すでに歯磨きを終えて、思い思いに過ごしていた。
「遅かったな」
太秦が言った。
「少し、散歩していました」
「散歩、一人で?」
「……何か、聞きたいことがありますか」
「別に。ただ、聞いただけ」
太秦が、そう言って、天井を見た。
同室のクラスメイトのひとりが、布団の中からあくびをした。
「お前ら、いつも仲良いよな」
「そうか?」
太秦が聞き返した。
「小学校からの付き合いなんだろ。すごいと思う」
「腐れ縁ってやつ」
太秦が、あっさり答えた。
「羨ましいような、羨ましくないような」
同室のクラスメイトが言った。
「どっちだよ」
「両方。腐れ縁って、良いことも悪いことも含んでる気がする」
「詳しいな、その割に」
「うちも幼馴染いるから」
その一言で、話題は自然と別の方向へ流れていった。
央は、その会話を聞きながら、静かに荷物を整理していた。
「なあ、おうくん」
「何ですか」
央が、荷物を整理しながら答えた。
「修学旅行ってさ」
太秦が、そこで言葉を止めた。
央は、続きを待った。
でも、続きは来なかった。
「……修学旅行が、何ですか」
「いや、いい」
太秦が、そう言って、目を閉じた。
央は、それ以上聞かなかった。
太秦が何かに気づいていて、それをあえて言わずにいることは、これまでにも何度かあった。
今夜も、そのひとつのようだった。
部屋の電気が消えた。
周りから、少しずつ寝息が聞こえ始めた。
修学旅行の一日目は、思っていたより長く、そして密度の濃いものだった。
央は、布団の中で、縁側での短いやりとりを、もう一度思い返した。
(遠くない)
自分で言った言葉だったが、口にしてみて初めて、それが本当のことだと分かった気がした。
一年前は遠かったものが、今はもう、隣にある。
それは、当たり前のようでいて、当たり前ではないことだった。
思えば、隣の席になったのも、偶然だった。
最初は、ただの隣人だった。
それが、いつの間にか、こうして修学旅行の夜に、同じ景色を見る相手になっていた。
その過程のどこかに、はっきりとした境目があったわけではなかった。
小さなやりとりの積み重ねが、少しずつ距離を縮めていた。
今日の縁側での会話も、きっとそのひとつだった。
(また、ひとつ増えた)
央は、そう思いながら、目を閉じた。
振り返れば、この一年で、そういう積み重ねがいくつもあった。
隣の席になった日。
初めて二人で出かけた日。
文化祭も、ハロウィンも、そして今日も。
どれも、特別に何かが起きたわけではなかった。
でも、そのひとつひとつが、確かに今の距離を作っていた。
窓の外で、京都の夜が、静かに更けていった。
明日は、奈良だった。
鹿がいて、大仏があって、そしてひなが合流する予定になっていた。
(にぎやかになりそうだ)
央は、そう思いながら、少しだけ口元を緩めた。
その表情に気づく者は、暗い部屋の中には誰もいなかった。
三泊四日の旅は、まだ半分も終わっていなかった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




