第九話 5月4日 光の続き
カフェの入り口は、天井まで届く背の高いタイプのドアだった。
みおがドアを開けた。
入口の高さは、みおの頭とギリギリだった。
いや、正確には、ギリギリではなかった。
頭がつかえた。
みおが静止した。
一秒くらい、その場で固まった。
「……入れました」
静かに言いながら、首をわずかに傾けて通った。
技術というより、習慣に近い動作だった。
「えっ、当たった?」とひなが言った。
「入口の高さを、少し読み間違えました」
「怪我ない?」
「大丈夫です。慣れてます」
慣れています、という言い方だった。
さらっとしていた。
でも「慣れてます」の中にある年数のことを、央は少し考えた。
店に入ると、天井が高かった。
少なくともみおが立ち上がっても問題ない高さだった。
五人分のテーブルは少し移動して確保した。
みおの椅子は、脚が一番長いものを選んだ。
これも習慣なのか、みおは自分で奥の椅子を引いて確認してから座った。
注文が来るまでの間、ひながスマホで今日撮った写真を見ていた。
「みお、川沿いのこれいい。送っていい?」
「……それ、さやかとみんなが写ってるやつ?」
「それもあるけど、一枚みおだけ撮れてるのがあって」
ひなが画面をみおに向けた。
川沿いを歩く、後ろ姿の写真だった。
白い服が光の中で浮いていて、さやかとひなが笑いながら話しているその奥に、みおが少し前を向いて歩いている。
みおは自分の後ろ姿を、少し長く見た。
「……後ろ姿だから、まあ」
「後ろ姿が一番いいやつなの。ちょっと遠くから撮ったから存在感がすごくて」
「存在感という言葉の使い方が……」
「褒めてるんだよ。珍しい景色じゃん、これ」
ひなが言った。
みおは少し黙って、「……送ってください」と言った。
さやかが「いい写真だよ」と言った。
ひなが「でしょ」と言った。
ドリンクが届いた。
みおはホットの抹茶ラテだった。
「それ、温かいの頼んだの?」と太秦が言った。
「甘いもの食べたら、温かい方が好きで」
「渋い好みだ」
「勢多くんは」とみおが聞いた。
央は自分のカップを見た。
「ブラックで頼みました」
「……そっちの方が渋い気がします」
「え、ブラック飲めるの?」とひなが顔を上げた。
「高校生でブラックは確かに珍しい」とさやかが言った。
「渋いとよく言われます」
太秦が「おうくんは朝から珈琲飲んでるからね」と言った。
「え、毎朝?」
「……朝に豆から挽いてます」
ひなとさやかが顔を見合わせた。
「なんか、落ち着いた家庭だ」とひなが言った。
「祖父の影響です。一緒に飲むのが習慣で」
「えっ、おじいちゃんと朝に珈琲。なにそれ」
「渋いとこだけは一致してるんですね」
みおが言った。
声に笑いが含まれていた。
笑い声ではなかったが、笑っている人の声だった。
央は少しだけ横を向いた。
みおが口元を少し動かして、抹茶ラテを飲んだ。
窓からの光が横顔に当たっていた。
ヘーゼルの瞳が、今日は緑がかって見えた。
(祖父と珈琲の話をするのは、あまりしたことがなかった気がした)
言葉にすれば大したことではない。
ただ、みおに話すのは自然だった。
カフェを出たのは、二時過ぎだった。
帰りは渋谷の駅方面へ向かった。
道が少し広くなって、人が増えてきた。
連休中日の午後。
家族連れや、友人同士の集まりや、荷物の多い旅行者たち。
通りは賑やかだった。
みおが、少し歩調を落とした。
人が増えると、そうなる。
前を歩くひなとさやかとは、少し距離が開いた。
みおの隣に、また央がいた。
人の流れが、みおのところで分かれた。
正確には、「分かれた」ではなく、人がみおを避けた。
ぶつかりそうになった人が、視線を上げて、動作を止めて、横に出た。
そういうことが、立て続けに起きた。
みおは一つ一つに、申し訳なさそうな顔をした。
頭を下げた。
肩が、また内側に入った。
(この街では、みおがいつも申し訳なさそうにしている)
それが少し、嫌だと思った。
理由のない感情だとは分かっていた。
誰かが悪いわけではない。
人通りが多いのも、みおが大きいのも、それ自体は誰のせいでもない。
でも、それが「嫌だ」と思った。
太秦が前の方で立ち止まって、みおの方を振り返った。
「葛城さん、こっち通った方が早いかも。裏の方が人少ないし」
細い路地を指した。
まっすぐ進むより少し遠回りだったが、確かに人が少ない。
「……助かります」
みおが言った。
声が、少し柔らかかった。
五人で路地に入った。
人が減った。
みおの肩が、わずかに下がった。
(太秦が、見てたんだな)
央は太秦の後ろ頭を見ながら思った。
太秦はもう前を向いて歩いていた。
何でもないような顔だった。
渋谷の駅に近い広場で、解散の話になった。
「帰り、どうする」とさやかが言った。
「うち、バスで帰る」とひなが言った。
「バス? 電車じゃないの」
「そっちの方が乗り換えなくて楽だから」
みおが少し表情を変えた。
「……ひな、バスは大丈夫?」
「え? なんで?」
「前に、乗り物がちょっと苦手って」
「あれは後部座席のときだって言ったじゃん! 前の方に座ればよくない?」
ひながわずかに声を上げた。
さやかが「ほんとに前なら大丈夫なの?」と半笑いで聞いた。
「大丈夫。絶対に最前列に座るから」
「絶対に座れるとは限らないじゃん」
「そこは根性で取る」
「根性でどうにかなるものでもないと思いますが……」
みおが小声で言った。
「みおが先に乗り込んでくれたら誰でも道を開けるから、そこで最前列を確保してもらえばよくない?」
さやかが割と真顔で提案した。
ひなが「それ使える」と言った。
みおが「使えるという言い方が……」と言った。
「でも、一応聞いていい?」とひなが続けた。「みおは先に乗り込む役、やってみる?」
「……別に乗り込むほどのことじゃないですけど、先に乗るくらいなら」
みおがそれだけ言った。
さやかが「決まり」と言った。
ひなが「ありがとみお、大好き」と言った。
みおが「……仰々しい」と言った。
太秦が「じゃあ俺と央は自転車だな」と言った。
「そうなるな」と央が答えた。
解散は、広場の端の、自動販売機の前で行われた。
ひなが「今日の写真、グループLINEに送るね」と言った。
「楽しかった」とさやかが言った。
「また行こう」とひなが言った。
「次は麺系も入れていい?」とさやかが言った。
「入れていいけど、みおの和菓子枠は確保で」とひなが言った。
「……別に毎回じゃなくても」
「毎回でいい。みおのガイドが一番信頼できるから」
みおは少し困った顔をして、それから小さく「……それなら」と言った。
太秦が「また来週から授業だ」と言った。
「早いな」とさやかが言った。
「今日、楽しかったです」
みおが言った。
誰かに向けたというより、その場にいた全員への言葉だった。
「来てよかった」
さやかが言った。
央は少し考えて、「……そうですね」と言った。
みおが、一瞬だけこちらを見た。
何か言いたそうな顔だった。
でも、言わなかった。
唇が、わずかに動いた気がした。
バス停に向かうさやかとひなを、みおが並んで歩いていた。
三人の背丈は、並ぶと三段の階段のようだった。
みおが一番高く、さやかが二番目で、ひなが一番低い。
バス停に着いた。
バスが来るまで少し間があった。
ひなが「前の方に乗れたらいい」と言った。
「みおが前に入れば後ろの人は流れるよ」とさやかが言った。
「そういうことじゃなくて、満員だった場合の話で」
「ひなが心配してるのはそっちね」
みおが「そういうときは、次のにしたら」と言った。
ひながうなずいた。
「それで行く」
バスが来た。
乗り込む前、みおがひなの方を向いた。
「先に乗ります」
ひなが「頼む」と言った。
みおが先頭に立って乗り口に向かった。
乗降口の高さは、みおにとってまた少し低かった。
首をわずかに傾けて乗り込んだ。
前の方の席が開いていた。
みおがひなを振り返った。
「前、空いてます」
「ほんとだ。ありがとみお!」
ひながすっとそこに収まった。
さやかがその横に座った。
みおは少し後ろの、天井が比較的高い位置の席に座った。
バスのドアが閉まった。
発車した。
窓の外に、三人の乗ったバスが動いていくのが見えた。
太秦が隣で「無事前の席に座れたかな」と言った。
「ひなちゃんが「根性で取る」と言ってたし」と央が答えた。
「葛城さんのおかげで取れたんだけど」
「……それはそう」
央と太秦は自転車を引いて、バス停から少し離れた路地に向かった。
帰り道は、来た道とは逆の方を走った。
住宅街に入ると、人が減った。
五月の風が、夕方の方向に傾いていた。
西の空が少しずつ橙を帯びてきていた。
太秦が横を走りながら言った。
「楽しかったな、今日」
「……うん」
「葛城さん、今日色々な顔してたな」
「そうだな」
「和菓子屋の顔と、人混みの顔と、梅晴堂出てきたときの顔、全部違った」
太秦が言った。
分析ではなく、確認のような口調だった。
「……見てたか」
「まあ、俺だけじゃないと思うけど」
太秦は笑った。
頭の後ろを掻いた。
「おうくんもよく見てたよ」
央は何も言わなかった。
ペダルを踏んだ。
「あのさ、」と太秦が続けた。「名前で呼ぶようになったじゃん」
「……ベンチで向こうから言われた」
「知ってる。横で聞こえてたから」
「……そうか」
「そういうとこだぞ、おうくんは」
太秦が笑った。
楽しそうだった。
「どういうとこだ」
「気づいてないとこ」
それだけ言って、太秦はペダルを速くした。
「お先」と言って、代田橋の方向へ曲がっていった。
央は笹塚の方へ、まっすぐ進んだ。
家に着いたのは、四時前だった。
自転車を駐輪場に戻して、玄関を開けた。
祖父の部屋から、テレビの音がした。
夕方のニュースだった。
央は靴を脱いで、台所でコップに水を注いだ。
一口飲んだ。
(梅晴堂で声が弾んでいたこと)
(川沿いで「変わってしまう」と言ったこと)
(カフェで抹茶ラテを飲んでいたこと)
一日の断片が、順番なく頭に入ってくる。
「今日、楽しかったです」という声が、最後に浮かんだ。
その声の温度を、央は覚えていた。
ドアを開けるとき、首を傾けて入ってきたこと。
人混みで肩が内側に入ったこと。
椅子を確認してから座ったこと。
全部が、みおにとっての「いつもの」だった。
言葉にしない積み重ねが、みおの中にある。
(それを、少し多く見た一日だった)
見ることと、知ることは、たぶん違う。
今日見たことが何を意味するのかは、まだ央には分からなかった。
コップを流しに置いた。
夕方の光が、台所の窓に斜めに入っていた。
五月の光は、橙になっても長く残る。
祖父の部屋のドアがゆっくり開いた。
「帰ってたか」
「ただいま」
「どうだった」
「……歩きました。渋谷の方を」
「そうか」
祖父が短く言った。
それ以上は聞かなかった。
祖父はそういう人だった。
聞かないことで、続きを待っている。
央はしばらく黙っていた。
「……楽しかったです」
それだけ言った。
「そうか」
祖父がもう一度言った。
テレビの音が遠くからしていた。
五月の夕方が、家の中にゆっくり入ってきていた。
窓の外に、空が見えた。
橙と青の境目が、まだそこにあった。
夜、みおからLINEが来た。
グループではなく、個人宛てだった。
スマホを開くと、一行だけ書いてあった。
「今日の上生菓子、きれいでした。今食べました」
それだけだった。
文末に絵文字はなかった。
央は少し考えて、返した。
「よかったです。どんなのでしたか」
数分後に返信が来た。
「薄紫の、藤の花でした。あんこは白あんで。甘さが少なくて上品でした」
続いて、もう一通来た。
「……なんか、今日はありがとうございました。先に歩いてくれたの、助かりました」
(気づいてた、か)
央は少し止まった。
大した動作じゃなかったと思っていた。
でも、みおは気づいていた。
返す言葉を少し考えた。
「大したことじゃないです。でも、また人が多い時は言ってください」
送った後で、少し言い過ぎたかと思った。
でも、みおからの返信は、思ったより早かった。
「……はい」
一字だけだった。
央はスマホを置いた。
部屋の窓の外に、夜の気配があった。
GWの、四日目が、静かに終わっていた。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




