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第十話 5月8日 得意と苦手と


 連休が終わった。


 月曜日の朝、教室は微妙に重かった。


 帰ってきた感じと、また始まる感じと、それが同時にある。

 席に着いた生徒のいくつかが、ため息をつくでもなく、でもどこか浮かない顔をしていた。


 勢多央(せた おう)は窓際の自分の席に座って、腕時計の文字盤を軽く撫でた。

 連休明けの教室の空気は、嫌いではなかった。

 皆が少し余韻を引きずっているぶん、普段より静かだった。


 隣の席に、みおがいた。


 シュシュで低くまとめた髪。

 制服のリボンがわずかに曲がっている。

 いつものみおだった。


(先週の、あの白い服ではない)


 当然のことを、央は当然だと思いながら、それでも確認していた。


 みおは教科書を机に出して、窓の外を一度見た。

 それから、央に気づいた。


「……おはようございます」


 声は小さかったが、届いた。


「おはようございます」


 それだけの挨拶だった。

 それだけでよかった。


 チャイムが鳴って、笠置(かさぎ)先生が入ってきた。

 先生は連休明けというのに妙に元気よく「おはようございます!」と言い、それに応えた生徒がまばらで、先生が「反応うすいなぁ……」と言ってから「ではホームルームを始めます」と仕切り直した。



 その日の朝のホームルームで、中間テストの日程が発表された。


「五月二十二日・二十三日です」と先生が言った。「今日から二週間切ってるんで、気持ちを早めに切り替えてください」


 教室がざわ、とした。


 太秦(うずまさ)が央の方を向いた。

 声は出さなかったが、口の形が「二週間しかない」と言っていた。


 央は黙って頷いた。


「科目は七科目。現代文・古典・数学・英語・歴史・理科・保健体育。

 配布する日程表のプリントを見てください。提出物の締め切りも書いてあるので確認してね」


 プリントが前から回ってきた。


 央は自分の分を取って、みおに渡した。

 みおが「ありがとうございます」と小声で言った。

 それだけだった。


(二週間)


 央はプリントに目を落とした。

 日程を確認する。

 現代文と歴史は問題ない。

 数学が、少し考えた。

 計算ミスをなくせば点は取れる。

 ただ、「なくせば」というのが毎回うまくいかない。



 太秦が「ファミレスで勉強しない?」と言い出したのは昼休みのことだった。


「どうせひとりでやっても集中しないし、葛城(かつらぎ)さんたちも誘おうよ」


 さやかが話を聞いていた。


「いいよ。みおはどうする?」


 みおが少し考えてから、「……参加します」と言った。


 ひなは「うち行ける」と言った。


 五人で、放課後に学校から十分ほどのファミレス〈ガーデンダイナー〉に集まることになった。



 ガーデンダイナーは、この時間はまだ空いていた。


 テーブル席に五人が座った。

 外は少し曇っていた。


 ドリンクバーを頼んで、それぞれ好きなものを取ってきた。


 央はコーヒーのブラックで戻ってきた。

 みおは緑茶だった。


「ドリンクバーで緑茶を取るの、渋くないですか」


 ひながみおに言った。


「ここ、急須タイプなんです。わりと本格的な」

「え、そうなの」

「確認してから来ました」


 みおが静かに言った。

 ひながなんとなく感心した顔をした。


 テキストを出した。

 プリントを広げた。

 各自が科目を決め始めた。


「英語から入りたい。単語覚えないと何も始まらないから」


 さやかがそう言って問題集を開いた。


「英語かー」と太秦がうなだれた。「俺、英語が一番やばいんですよ」

「単語、全然覚えられない感じ?」

「意味が覚えられない。見た目は覚えてる。発音も覚えてる。意味だけ抜ける」

「一番大事なとこが……」


 さやかが苦笑した。


 太秦が「葛城さん、英語得意でしたっけ」と聞いた。


「……単語は、読んで書いて覚えるのが一番早いかな、と思ってます」

「音で聞きながらやるとダメなの?」

「音だけだと、書くときに迷うことが多くて。私はそういうやり方で」

「じゃあそれやってみます。感謝」


 太秦が素直にノートを開いた。


 みおが、少し横目でその様子を見た。

 何かを言いたそうだったが、言わなかった。



 三十分ほど、各自が黙々とやっていた。


 静かだった。

 ファミレスの中に、カトラリーの音と低いBGMだけが流れていた。


 最初に口を開いたのは太秦だった。


「……数学。もう無理かも」


 開いたままのノートを見ながら言った。


「大袈裟な」とさやかが返した。

「大袈裟じゃないです。式は立てられるのに、計算のところで答えが合わない」

「計算ミスしてるんじゃないの」

「してるんだろうけど、どこかが分からない」


 太秦がノートをさやかに向けた。

 さやかが「ちょっと見せて」と覗き込んで、「ここ、符号が逆」と指差した。


「……あー」

「マイナスのかけ算が甘い」

「知ってたけど治らない」


 太秦がため息をついた。


 央はそれを聞いて、少し他人事ではないと思った。

 自分も同じことをよくやる。


 自分のノートに視線を落とす。

 問題を一問解いた。

 答えを確認した。


(……違う)


 もう一度見直した。

 どこかで符号を誤った。

 気づくと、計算の三行目だった。


(ここか)


 央がそれを書き直した。


 となりで、みおがちらりと央のノートを見た気がした。


 気がしただけかもしれなかった。

 でも、みおは少し間を置いてから、静かに口を開いた。


「……展開の計算、最後の符号を確認する癖をつけると、ミスが減ると思います」

「……ここですか」

「はい。マイナスの二乗は、プラスになる。分かっていても、速く解こうとすると抜けることが多いので」


 みおが、央のノートを正面から覗き込んだ。


 近かった。


(近い)


 メモの字が見える距離だった。

 みおの方は特に気にした様子がなかった。


「……三行目で符号が変わってる。ここで止まれれば、後は合います」


「……分かりました」


 央は言いながら、自分の計算を指でたどった。

 確認した。

 確かにそこだった。


「得意、なんですか。数学」


 央が聞いた。

 聞いてから、少し直接すぎたかと思った。


 みおは少し間を置いた。


「……苦手じゃないです」


 それが答えだった。

 苦手じゃない、という言い方だった。


「かなり得意な気がしますが」


 太秦がさやかのノートに目を向けたまま言った。


 みおは答えなかった。

 代わりに、自分のノートを一ページ繰った。


(黙っているのか)


 得意だと言わない。

 苦手じゃない、とだけ言う。


 それが、みおのやり方だった。


 央は何となく、そのことを納得した気がした。



 四十分ほど経ったところで、太秦が「休憩」と言ってペンを置いた。


「集中が切れた。ドリンク取ってきます」


 立ち上がって、ドリンクバーの方に向かった。

 背伸びをしながら歩いていた。


「太秦くん、四十分で必ず止まるよね」とひなが言った。

「体内時計あるんじゃないの」とさやかが笑った。


「現代文やってたけど」とひなが続けた。「みんな現代文どう?」

「悪くはない」とさやかが言った。「読むのはできる。記述が面倒なだけで」

「記述か。うち、時間かかるんだよね」


 ひなが央を見た。


「勢多くんは現代文、得意そうな雰囲気あるけど」


「……わりと好きな科目です」

「好きと得意が両方あるんだ。ずるい」


「ずるくはないです」と央が言った。


「みおは?」


 ひなが続けてみおに向いた。


「現代文は……読むのは好きです。記述も、ある程度は」

「それは得意ってことじゃない」


「そうかも、しれません」


 みおが少し目を伏せた。

 謙遜なのか照れているのか、央には判断がつかなかった。


 太秦が戻ってきた。

 コーラのグラスを持っていた。


「歴史の話していい? 俺、歴史が一番安定しないんだけど。流れは分かるのに、細かい年号が覚えられない」


「年号は語呂合わせが一番早い気がするが」と央が言った。

「語呂ってどういうの使ってる?」

「教科書に載ってるのもあるし、自分で作ることもある」

「自分で作るの?」

「覚えにくいやつは。作ると記憶に残りやすい」


 太秦が「それ、なんか面白いな」と言った。

 素直な感想だった。


「ぐっ、とくる語呂があると忘れないんだよね確かに」とさやかが言った。

「歴史、央くんは全然大丈夫そうだ」

「好きですし。流れで覚えると楽なので」


「みおは理科もいけるの?」とひなが言った。


「……化学は、わりと」

「わりと、は絶対得意ってやつだよね」


 みおが少し黙った。


「……テストの点は、そこそこです」


 はっきり言わなかった。

 でも、そこそこ、という言葉の含みが、どの程度のものかは、央には少しずつ分かってきていた。



 一時間ほど経ったあたりで、全員のペンが止まった。


 自然に会話になった。


「数学、ことね先輩に聞こうかな」と太秦が言った。

「先輩、数学得意なの?」とさやかが返した。

「いや、逆に。毎回すごい点取るって聞いてたんだけど、すごい……悪い方向で」

「それを聞いてどうするの」

「連帯感を得たい」


 さやかが笑った。


 ちょうどそのタイミングで、央のスマホが鳴った。


 画面を見ると、ことねちゃんからのLINEだった。


───────────────────────

ことね:央、テスト日程出た?

ことね:うち今年こそ数学やばい

ことね:去年より難しくなる気がしてるだけだけど気がしてるだけでいいよね?

ことね:ね? ね?

───────────────────────


 央は少し苦笑いして、返した。


───────────────────────

央:日程は出た

央:気がしてるだけかどうかは解いてみないと分からない

───────────────────────


 すぐに返ってきた。


───────────────────────

ことね:最悪の返し

ことね:去年も同じ話したよな

ことね:また撃沈するやつだわこれ

───────────────────────


 太秦が「ことね先輩から?」と聞いた。


「数学が毎回やばいそうだ」


 太秦が「だよね」と言った。

 共感があった。



 帰り支度を始めたのは、六時近くだった。


 ひなが「今日はがんばった方だ」と言った。

「え、そう? わたし今日全然進まなかったんだけど」とさやかが言った。

「さやかは現代文はするする読んでたじゃん」

「読んでるだけで書いてない」


 さやかがノートを鞄に入れながら言った。


「勢多くんとみおはどうだった?」


 ひなが聞いた。


「……数学をある程度やりました」と央が答えた。

「そこそこできた感じ?」

「見直し方法を教えてもらったので、試してみます」


 横を向かずに言った。

 でも、言いながら、少しだけ横を意識した。


 みおが「……央さんは現代文が本番だから、そっちは大丈夫だと思います」と言った。


「央さん」と太秦が繰り返した。「葛城さん、ちょっと前まで勢多くんって呼んでたよね?」


 みおが少し固まった。


「……あ」

「いや、別にどっちでもいいんだけど。名前になったなと思って」

「……なんとなく、そっちがしっくりきたので」


 みおが少し下を向いた。


(呼び方が変わっている)


 央は気づかなかった。

 言われてみれば、確かにそうだった。


「……央さん、か」


 央は繰り返すように言った。

 変な感じはしなかった。

 むしろ、不思議と落ち着いた。


「どっちでも大丈夫です」と央は言った。


「じゃあ、そっちで」


 みおが小さく言った。

 下を向いたままだった。



 外に出ると、日が傾きかけていた。


 五月の夕方の光が、建物の間から斜めに入っていた。


 太秦が「また勉強会しよ」と言った。

「来週もあと一回はできそう」とひなが言った。

「次は麺も食べたい」とさやかが言った。

「ファミレスで?」

「そりゃそうでしょ」


 ひながさやかと並んで駅の方向に歩いていった。


 太秦が「おうくん、また来れそう?」と央に言いながら振り返った。


「……来れる」


「OK。じゃあ行くか。葛城さん、お疲れ様」


 太秦が手を上げて歩き出した。


 みおが「お疲れ様でした」と言った。


 残ったのは、央とみおだった。


 駅までの方向が、しばらく同じだった。

 みおは東急田園都市線で三軒茶屋に向かう。

 央は笹塚の方向だ。

 渋谷の駅まで、しばらく同じ道を歩く。


 歩き始めた。


 少し間があった。


「……数学、また詰まったら聞いてもいいですか」


 央が言った。


 みおが少し間を置いた。


「……はい」


 それだけだった。

 でも、その一言が、いつもの「はい」より少し早かった。


(気のせいかもしれない)


 央には判断がつかなかった。


 歩き続けた。


 夕方の住宅街に、遠くで子どもの声がしていた。

 五月の風が、細い路地を抜けていった。



 少し前を歩いていたひなとさやかが、信号のところで止まっていた。


 ひなが振り返った。


「ねえ、みお」


 ひなが言った。


「何?」


「みおって、六月生まれじゃなかったっけ」


 みおが少し目を動かした。


「……そうだけど」

「いや、なんか思い出して。あと一ヶ月ないじゃん」

「……別に、何もしなくていいよ」

「しないとは言ってない」


 ひなが笑った。


 さやかが「え、何日だっけ」と言った。


「三日です」とみおが言った。


 央は少し後ろを歩きながら、その会話を聞いた。


(六月三日)


 心の中で、繰り返した。


 特に意図したわけではなかった。

 ただ、その日付が、するりと入ってきた。


「じゃあ創立記念日の次の日?」とさやかが言った。

「二日空いてます」

「近いじゃん。ちょうどいい時期だね」


 信号が変わった。


 五人が横断歩道を渡り始めた。


 央は渡りながら、六月三日という日付をもう一度、無意識に確かめた。


(六月三日)


 何をするでも、言うでもなかった。

 ただ覚えた。

 それだけだった。



 渋谷の改札口の前で、みんなが方向ごとに分かれた。


「また明日」とさやかが言った。

「テスト勉強がんばろ」とひなが言った。


「……お疲れ様でした」とみおが言った。


 みおが東急の改札に向かって歩いていくのを、央は見送った。


 みおが改札を通った。

 人の流れに入っていった。

 白いシャツの背中が、遠ざかった。


 太秦が横に来た。


「じゃあ俺もこっちだから」と言いながら、自転車の方に向かう前に、央を見た。


「六月三日、か」


 太秦が笑った。


「……聞こえてた?」

「そこそこ」


 頭の後ろを掻きながら、太秦は歩き出した。


「おうくんらしいな」


 振り返らずに言った。


 央は何も答えなかった。


 笹塚への道に向かった。

 五月の夕方が、街の上を橙に染めていた。


 六月三日、という日付が、また静かに浮かんだ。


 そのことに、何も名前をつけなかった。

 ただ、覚えていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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