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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち


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第十一話 5月22日 答案の裏側


 テスト初日の朝は、教室の空気が少しだけ固かった。


 いつもの雑談が少ない。

 席に着いた生徒が参考書を出して、最後の確認をしている。

 窓の外は曇っていた。


 勢多央(せた おう)は自分の机に参考書を開いて、数学のまとめページを眺めた。

 符号の確認。

 マイナスの二乗は、プラスになる。


(分かっていても、速く解こうとすると抜ける)


 みおに言われたことが、すっと戻ってきた。


 隣を見た。

 みおは参考書を閉じて、机の上に両手を置いていた。

 静かな顔だった。

 緊張しているのか、していないのか、央には判断がつかなかった。


 みおが気配で気づいたのか、こちらを見た。


「……おはようございます」

「おはようございます」


 それだけだった。

 それだけで、何となく落ち着いた。



 テストは二日間にわたって行われた。


 初日は現代文・数学・英語。

 二日目は古典・歴史・理科・保健体育。


 現代文は問題なかった。

 英語もある程度は手応えがあった。


 数学は、最後の大問でやってしまった。


 答え合わせをするまでもなく、退出した直後に気づいた。

 三問目の最後の計算。

 符号を確認しようとして、途中まではした。

 でも大問の最後の一行で、また、やった。


(……やった)


 廊下に出ると、太秦(うずまさ)が「おうくん、数学どうだった」と聞いてきた。


「……まあまあ」

「どこが?」

「三問目の最後」


 太秦が「あー」と言った。

 経験のある顔だった。


「符号?」

「そう」


「俺も二問目が怪しい」と太秦が言った。「でも去年の中学のときよりはマシな気がする」

「気がするだけかもしれない」

「最悪だなその言い方」


 太秦が笑った。

 後頭部を掻いた。


 みおが廊下に出てきた。

 さやかとひなと一緒だった。


「数学どうだった?」とひなが聞いた。「うち全然わかんない問題があった」


「……まあまあだったと思います」

「まあまあ、って言うときの葛城さん、いつもあんまり顔が動かないよね」


 太秦が言った。

 悪意のない、確認のような言い方だった。


 みおが少し視線を落とした。

 口を開きかけて、また閉じた。


「……その通りだったかもしれないです」


 ひなが「嘘! 得意でしょやっぱり!」と言った。

 みおが「そんなことは」と言いかけて、「……まあ、苦手ではないので」と言い直した。


 さやかが「それ最初から言えばいいのに」と笑った。

 みおが少し困った顔をした。



 二日目が終わったとき、廊下でさやかが「終わった」とつぶやいた。

 その一言に、全員が少しだけ表情を崩した。


「終わったな」と太秦が言った。

「終わった……」とひなが繰り返した。「英語の長文、最後まで読めなかった」


「長さは例年通りだと思いますが」みおが少し慎重に言った。「早めに短文を片付けると余裕が出るかも」

「それ、テスト始まる前に言ってほしかった」

「……気がつかなかったです、ごめんなさい」


 みおが少し眉を下げた。

 悪気のない、素直な謝り方だった。


「いやみおが謝るところじゃないから」とひなが言った。「次から教えて」

「……分かりました」


 みおが頷いた。


「勉強会、また開こうか」とさやかが言った。「期末も来るし」

「賛成」と太秦がすぐ言った。「今度はもっと早めに」

「みおも来れる?」

「……はい、来ます」


 みおが少し間を置いてから答えた。

 拒否するタイミングを考えて、でも来ると言った。

 そういう間の取り方だった、と央は思った。


(第二回の勉強会は、来る気でいるんだな)


 特別なことではない。

 ただ、それが分かった。



 テスト二日目が終わった翌日から、放課後の教室はいつもより騒がしかった。


 答え合わせの声があちこちで上がった。

 「やっぱり間違ってた」とか、「思ったより取れてた」とか。

 テスト後の独特の空気だった。


 答案の返却は、テストから四日後に始まった。


 最初に返ってきたのは数学だった。


 笠置(かさぎ)先生が「返すね、名前呼ぶから前に来て」と言いながら、答案を手に取った。


 席順ではなく、得点順でもなく、先生のランダムな順番で読み上げられていった。


 みおの名前は、後の方で呼ばれた。


葛城(かつらぎ)みお」


 みおが立って前に行き、答案を受け取った。

 戻ってきて、席に着いた。


 太秦が、みおの答案の点数欄をさりげなく確認しようとして、確認できなかった。


 みおは答案を机の上でそっと裏返していた。


(何点だろう)


 央は、その動作を横目で見た。

 隠した。

 点数を見せないようにしている。


 先生が全員の答案を配り終えて、「平均点が65点です」と言った。


「最高点はですね、……98点が一人います」


 教室がざわ、とした。


「98って誰?」と誰かが言った。

「2点で満点逃がすのが惜しい」とさやかが言った。


 先生がちらりと教室を見渡した。

 特に誰かを指名するわけではなかった。


 でも、先生の視線が一瞬止まった場所が、央には分かった。


 窓側の最後列だった。


(みおか)


 みおは机の上に裏向きにした答案を置いたまま、窓の外を見ていた。

 耳の後ろに、小さな泣きぼくろがある。

 それが見えるくらい、視線を外に向けていた。


 周囲が「誰だろ」と話し続けている間、みおは動かなかった。

 まるで自分の話ではないという顔をしていた。

 実際、誰かに聞かれたわけでも、名前を出されたわけでもない。


 でも、その「関係ない顔」の作り方が、どこか一生懸命だった。


(目立ちたくないんだな)と思った。


 知っていたことだが、あらためて見えた気がした。



 英語の答案が返ってきたのは、その翌々日だった。


 今度は学年順位も一緒に書かれていた。


 やはり、みおはすぐ答案を裏向きにした。


 だが今回は、ひなが「みお、何位だった?」と正面から聞いた。


 みおが少し固まった。


「……別に、大したことは」

「大したことあるから聞いてるんだけど」

「……三位でした」


「三位!?」とひなの声が上がった。


 近くの何人かが振り返った。


 みおの肩が、わずかに内側に入った。


「あ、ごめん声でかかった」とひなが続けた。「でもすごいじゃん三位。学年三位?」

「……そうです」

「それは黙ってる場合じゃない。というかいつも黙ってるの?」


「……目立ちたくないので」


 みおが小声で言った。

 それだけだった。


 さやかが「そういう子だよ、ひな」と言った。

 ひながため息をついた。

 感心しているのか、呆れているのか、どちらでもある表情だった。



 休み時間、廊下の自販機の前で、太秦がさやかに話しかけた。


 二人ともドリンクを買いに来た偶然の鉢合わせだった。


「さやかさん」と太秦が言った。「ちょっと聞いていいですか」

「うん、何?」


 太秦がボタンを押しながら、少し声を落とした。


「葛城さんって、もしかして、頭いいんですか」

「……もしかして、じゃなくて間違いなく頭いいよ」


 さやかが当然のように言った。


「やっぱそうですよね」

「数学98点で英語学年三位って、勢多くんに聞いてなかったの?」

「聞かなかったです。勉強会でなんとなく察してたけど、確信がなかったから」


 太秦が缶を取り出しながら、「本人全然言わないですもんね」と言った。


「言わないよ。あの子は目立つことが苦手だから。身長の話と一緒。

 本人が言いたくなるまで放っておくのが正解だと思う、たぶん」


 さやかがそれだけ言って、自分のドリンクを取って立ち上がった。


「勢多くんには教えたの?」


 さやかが立ちながら聞いた。


 太秦が少し考えた。


「……まあ、なんとなく気づいてると思うので」

「そっか」


 さやかが「頭いい人があの席にいるのは、勢多くんにとって悪くないと思うけどね」と言った。

 それだけ言って歩いていった。


 太秦は缶を一口飲んで、「まあそうだな」と一人で言った。



 数学の答案が返ってきた日の放課後、央は自分の答案をもう一度見ていた。


 三問目の最後。

 案の定、符号が逆だった。

 そこだけで四点失った。


(符号の確認をしようとした。でも最後の行で止まれなかった)


 見直した。

 前の行までは正しかった。

 最後の一行だけ、速く書いて、確認を省いた。


 悔しい、というより、情けなかった。


 みおから「三行目で符号が変わってる。ここで止まれれば、後は合います」と言われた通りだった。

 止まれなかった。


「……また同じとこやりましたね」


 声がした。


 央が顔を上げると、みおが自分の席に座ったまま、こちらの答案を少し視線で指していた。


 央の答案の、その箇所が見えていたのかどうかは分からない。

 でも、みおは分かっていた。


「……そうです」

「見せましょうか、解法」


 みおが静かに言った。


 押しつけがましさのない言い方だった。

 申し出というより、確認に近かった。


 央は少し考えた。


「……お願いしてもいいですか」


「はい」


 みおが自分のノートを開いた。


 新しいページに、さらさらと書き始めた。

 字は小さく、でも整っていた。


「展開の途中で、二項を同時に動かすと抜けやすいんです。

 一項ずつ、順番に処理した方が視線が止まりやすくて」


 央のノートを覗くのではなく、自分のノートに例題を書いて横に渡した。


 近かった。

 勉強会の時と同じくらい、近かった。


 みおは特に気にしていない様子だった。

 解き方を書いているときの顔は、いつもより少し前に出ていた。

 唇を一度だけ軽く噛んでから、ペンを置いた。


「……こういうふうに書くと、最後の行まで符号を意識できると思います。

 合ってるかどうか、次のテストで試してみてください」


 央は受け取ったノートを見た。


 丁寧だった。

 自分のためだけに書かれたやり方だった。


「……ありがとうございます」

「いえ」


 みおが自分のノートを引き取って、一度だけ央の方を見た。


「……央さんは現代文と歴史がよかったんじゃないですか」


「……現代文は問題なかったです。歴史も」

「それは、もったいなかったですね。数学だけ」


 言い方は淡々としていた。

 でも、「もったいなかった」という言葉に、何かが含まれていた気がした。


(気にしてくれているのか)


 分からなかった。

 ただ、そう受け取った。


 みおはノートを鞄にしまいながら、窓の外を見た。


 夕方の光が、みおの横顔に当たっていた。

 ヘーゼルの瞳が、今日は金に近い色をしていた。


(また見ている)


 央は視線を答案に落とした。


 符号の間違いと、みおの書いた解法と、もったいなかったという言葉。

 三つが、頭の中で少しだけ重なった。


 みおがノートを鞄にしまいながら、もう一度だけ口を開いた。


「……第二回の勉強会、来週あたりにできそうでしたか」

「さやかさんと日程が合えば」と央は答えた。「次は期末に向けて早めにやりたいと思ってます」

「……そうですね」


 みおが頷いた。

 自分から話しかけてきたことに、本人が気づいていないような顔だった。


「……数学の続き、一緒にやれたらいいと思います。今回みたいなミスがなくなるように」


 そう言いながら、みおが少し先に立ち上がった。


 言葉は丁寧だった。

 でも「一緒にやれたらいい」という言い方に、引き留めるような何かがあった。


(引き留めている、のかどうか)


 央は分からなかった。

 ただ、そう聞こえた。


 返す言葉を少し考えた。


「……助かります。また教えてもらえると」


 みおが少しだけ央を見た。

 何も言わなかった。

 でも、鞄を持ち直して立つとき、口元が少し動いた。


 何かを言おうとして、言わなかったのか。

 あるいは言葉ではない何かだったのか。

 央には判断がつかなかった。


 みおがさやかの方へ歩いていった。

 「帰ろ」というさやかの声が聞こえた。

 「はい」というみおの声が続いた。



 翌日のホームルームで、笠置先生が「全科目の返却が終わりました」と言った。


「平均点についてはプリントで確認してください。

 上位の人は自信を持って、そうでなかった人は次の期末に向けて早めに切り替えてね」


 先生が一呼吸置いた。


「あと、一つだけ。全科目で90点以上を取った生徒が一人います。

 本人は恥ずかしいと思うので名前は言いませんが、すごいことなので伝えたかっただけです。

 以上です」


 また、教室がざわ、とした。


 太秦が、口だけ動かして央に「分かる?」と聞いた。


 央は少し考えて、頷いた。


 太秦が「だよな」とだけ言った。

 声には出さなかった。


 窓側の最後列では、みおが参考書を出して、次のページを開いていた。


 何事もないような顔だった。

 でも、耳の先が、わずかに赤かった。


(全科目90点以上、か)


 央はそれをこっそり確認して、それから前を向いた。


(苦手じゃない、という言葉の意味が、少しずつ分かってきた気がした)


 チャイムが鳴った。

 五月の末が、静かに続いていた。


 帰り道、央は少し遅れて教室を出た。


 廊下を歩きながら、みおの書いた解法のことを思い出した。

 一項ずつ、順番に処理する。

 視線が止まる。


(次のテストで試してみてください、と言われた)


 言い方が、なんでもないようで、そうでもなかった。

 自分のためだけに書いてくれたページが、まだ手元のノートの中にある。


 それだけのことだった。

 それだけのことなのに、少し時間をかけて考えていた。


 外に出ると、五月の夕方の風が来た。

 もうすぐ六月になる。


(六月三日)という日付が、静かに浮かんだ。


 答案の裏側に書いてあるものは、点数だけじゃない。

 央は、なんとなく、そう思った。

 それが何のことなのか、まだ名前をつけなかった。


 ただ、歩き続けた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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