第八十九話 10月29日 文化祭、午前中
文化祭当日は、いつもより少し早く学校に着いた。
七時半に校門をくぐると、すでに何人かが教室で準備をしていた。
昨日の最終確認で、大体の形は出来上がっていた。
今日の開幕前にやることは、道具の最終配置と、案内板の確認くらいだった。
央が教室に入ると、みおが一番乗りしていた。
昨日書いたプレートを、それぞれのゲームの台に仮置きして、位置を確かめていた。
「おはようございます」
「……おはようございます。早いですね」
「みおの方が早かったです」
「……目が覚めたので」
みおが、射的の台の前に立って、プレートの角度を微調整していた。
「どこから見ても読めるかどうか、確かめていました」
「それ、昨日も確認してましたね」
「……昨日は仮置きでした。今日は本番なので」
みおが、一歩下がって、プレートを正面から見た。
少し首をかしげた。
もう少し右、と言って、指で位置を示した。
央が、プレートを指の方向へ少しずらした。
「……そこです」
「ここですか」
「……はい」
みおが、また一歩下がって確認した。
今度は、少し頷いた。
「決まりましたね」
「はい。ありがとうございます」
声が、小さかった。
でも、確かに言った。
開幕は九時だった。
八時半ごろから、クラスメイトがぞろぞろと集まり始めた。
さやかが持ち場ごとの担当を確認して、各自に伝えた。
太秦が射的の台の最終テストをやっていた。
「いい感じじゃないですか、これ」
太秦が、缶を一個倒して言った。
「去年より精度が上がってますよ、台の」
「ほのかちゃんが組んだから」
「ほのかちゃん、すごいな」
「私が設計したから」
さやかが、さらっと返した。
太秦が「どっちもすごい」と言った。
さやかが「正確に言いなさい」と言った。
太秦が「さやかさんの設計とほのかちゃんの施工が両方すごい」と言い直した。
さやかが「そう」と短く返した。
みおが、輪投げの台の前に立って、リングの試投をやっていた。
一投目。外れた。
二投目。外れた。
三投目。ようやく入った。
(難しい)
みおが、少しだけ思った。
「みお、輪投げの難易度、少し下げた方がいいかな」
さやかが来て言った。
「……お客さんが楽しめないと困るので」
「今のは何投目で入った?」
「三投目です」
「それくらいが適正かも。すぐ入るよりちょっと悔しいくらいの方が、もう一回やりたくなる」
みおが、少し考えた。
「……そうかもしれません。ちょっと悔しい、というのは、続けてもらう動機になりますね」
「さやかさん、それ、去年の経験から来てる?」
太秦が聞いた。
「そう。去年の輪投げは簡単すぎて、みんな一回でやめた」
「それか。今年はリベンジだな」
さやかが、小さく「そういうこと」と言った。
九時になった。
廊下に、お客さんの声が聞こえてきた。
別のクラスの出し物から流れてくる音楽、先生の呼びかけ、靴音。
文化祭が始まっていた。
最初のお客さんが教室の扉から入ってきたのは、九時五分だった。
一年生のグループだった。
四人組で、きょろきょろしながら入ってきた。
「縁日だって」
「射的やりたい」
太秦が受付に立って、説明を始めた。
「いらっしゃいませ。射的、輪投げ、ヨーヨー釣りの三種類あります。一回三十円ずつ、三つやって八十円のセットもあります」
「セットで」
「ありがとうございます。では射的からどうぞ」
太秦が、銃を手渡した。
一年生の男の子が、的に向かって狙いを定めた。
パン、と小さい音がして、缶が倒れた。
「あ、当たった」
「おめでとうございますっ」
太秦が、少し大きめの声で言った。
小さな達成感が、教室に広がった。
その後、最初の一時間は途切れなくお客さんが来た。
射的は人気だった。
缶が倒れるたびに歓声が上がった。
太秦が仕切ると、場が明るくなった。
ヨーヨー釣りには、小さい子がよく来た。
針を水に入れて、ゆっくり待って、うまく釣れると「見て見て」と連れの人に言った。
担当のクラスメイトが「上手ですよ」と言うと、照れながらまた釣り始めた。
みおは、輪投げ担当だった。
お客さんが来るたびに、リングを渡して、距離を示して、説明した。
「ここから投げてください」「三回投げられます」。
声は小さかった。
でも、聞こえていた。
二年生の女子ふたり組が来た。
「三回で一個も入らなかった」
「惜しかったよ、最後」
「もう一回やっていいですか」
みおが「どうぞ」と言って、リングを渡した。
ふたり組が、今度は慎重に狙って投げた。
一投目、外れた。
二投目、外れた。
三投目、入った。
「やった!」
片方が声を上げた。
もう一方が「すごい」と言った。
ふたり組が笑いながら出て行った。
(去年より、余裕がある)
みおは、それを確認していた。
去年の文化祭は、こういう場に立つこと自体が、少し消耗していた。
視線が来るたびに少し縮こまって、声を出すたびに少し緊張した。
今年は、輪投げの台の前に立っていても、そこにいることが自然だった。
お客さんが来ると、説明した。
リングが外れると「もう一回ありますよ」と言った。
リングが入ると、少し一緒に嬉しかった。
(ちゃんと見えている)
みおは、そのことを確かめた。
文化祭当日に「ちゃんと見えている状態でいたい」と思っていた。
今、それができていた。
ほっとする、というより、確認できた、という感じだった。
午前の半ばに、ひなが教室に顔を出した。
「みんな、お疲れ! 写真撮っていい?」
「撮りなよ」
太秦が言った。
ひなが、カメラを出した。
「実行委員のやつ、一旦抜けてきた。写真記録も委員の仕事に入れてもらったから公式に撮っていい」
「さすが」
「でしょ」
ひなが、縁日コーナーをひとまわりした。
射的台、輪投げ台、ヨーヨーバケツ。
みおの書いたプレート。
それぞれを、角度を変えて撮っていた。
「みおの字、映える」
「……そうですか」
「うん。均等なのに温かみがある。いい字だ」
みおが、少し止まった。
「……均等なのに温かみがある、とはどういうことですか」
「機械的じゃない、ってこと。手書きの揺らぎが残ってるから、見てて親しみやすい」
「筆ペンで書いたので、少し揺れるのは仕方なかったのですが」
「その揺れがちょうどいいんだよ」
ひなが、もう一枚撮った。
「今日のこれ、絶対グループLINEで送る」
「……全部ですか」
「全部。今日だけで百枚以上撮ると思う」
みおが、少し息をついた。
「……百枚」
「何か文句ある?」
「いえ」
ひなが、笑いながらカメラをしまった。
それからすぐに、「委員に戻るね」と言って出て行った。
昼前、交代制で一時間ずつ自由時間があった。
最初の交代に入ったのは、央とみおだった。
廊下に出ると、他クラスの出し物が並んでいた。
お客さんの流れが、廊下をゆっくり移動していた。
「どこか行きますか」
央が聞いた。
「……一年生のクラスを見に行きたいです」
「慧くんと乙訓さんのクラスですね」
「はい」
一年生のフロアに下りると、各クラスの出し物の案内が貼ってあった。
慧とほのかのクラスは、お茶会スタイルのカフェだった。
扉を開けると、畳の上にテーブルが並んでいた。
教室の前半分が和室風に飾り付けられていた。
思ったよりしっかりしていた。
受付には、慧がいた。
慧が、扉の方を見た。
入ってきたのが央とみおだと分かると、少し目が変わった。
「……あ、先輩方」
「こんにちは」
「お疲れさまです。入られますか」
セリフは受付の定型だったが、声が少し上がっていた。
「お邪魔します」
央が言うと、慧がカウンターの後ろで少し直立した。
(先輩に来られると、緊張するらしい)
央は、なんとなく分かった。
慧は普段動じないが、こういう状況での緊張は別らしかった。
奥のテーブルにほのかがいた。
ほのかが、央とみおに気づいて少し手を振った。
それから、慧の方を見て、小さく笑った。
慧には見えていなかったが、央には見えた。
(ほのかさんは、慧くんが緊張しているのを分かっていて、笑っている)
お茶が来た。
ほうじ茶だった。
小さな和菓子がついていた。
「……お茶、美味しいですね」
みおが言った。
「ほのかが淹れました」
慧が言った。
「そうなんですか」
「ほのかは料理も飲み物も上手い」
慧が、どこか自慢するように言った。
それが自慢になっていることに、本人は気づいていない感じがした。
「……伝えておきます」
みおが、奥のテーブルのほのかの方を見た。
ほのかが、何を言っているのか読もうとして、少し首をかしげた。
「……けいくんが、お茶が上手いと言っていた、と」
ほのかが、少し止まった。
それから、耳まで赤くなった。
央は、それを見ていた。
慧は、なぜほのかが赤くなったのか分かっていない顔をしていた。
「……美味しかったです」
みおが、お茶を一口飲んで言った。
「それは良かったです」
慧が、受付姿勢のまま答えた。
さっきより落ち着いた声になっていた。
「いつも来てくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ。ちゃんと1年生らしい出し物でした」
「1年生らしい、というのは?」
「初めての文化祭で、ちゃんと形にできていた、という意味です」
慧が、少し考えた。
「……そうですか」
「うん。去年のわたしたちの縁日も、初めてにしてはよくできていたと思います。でも、今年の方が少し余裕があります」
「……去年の方が、慣れてない分、力が入っていた感じはしますか」
「そうかもしれません。余裕がないときの方が、必死さは出ます」
「……それは、どちらがいいということはないですね」
「そうですね」
みおが、静かに答えた。
ほのかが、奥のテーブルから少し聞こえるくらいの声で言った。
「先輩、また来てくださいね」
「……来ます」
みおが、短く返した。
央は、それを聞きながら思った。
(みおが「来ます」と言った)
何気ない言葉だった。
でも、みおが断言するのは、意思があるときだった。
また来る、ということが、みおにとって本当のことだった。
一年生のカフェを出て、廊下を歩いていた。
「……良かったですね」
みおが言った。
「何が、ですか」
「……1年生のクラスの出し物が、ちゃんとできていました」
「そうですね。去年のことを知らない慧くんが、今年の文化祭に驚いてくれたら、ほのかさんも嬉しいですよね」
「……そういうことを、聞こえてましたか」
「廊下で話してましたから」
みおが、少し止まった。
「……聞こえていたんですね」
「はい」
みおが、正面を向いた。
「……うちらが驚かせる側になりたい、とほのかさんが言っていたのを覚えていたので。できていて良かったです」
央は、その言葉を聞いた。
(みおは、ちゃんと覚えている)
みおが何かを覚えているとき、それは整理されてしまっているのではなく、ちゃんと残っている。
それが、みおという人のことを、また少し分かった気がした。
午前の最後に、3年生のフロアを少し通った。
ことねと朔が、廊下を歩いているのが見えた。
ことねが、何かを食べながら歩いていた。
クレープか何かだった。
朔が、その隣を少し後ろにずれて歩いていた。
「央」
ことねが気づいて言った。
「ことねさん。文化祭、楽しんでますか」
「楽しいよ。なんかね、去年より楽しい気がする。なんでだろ」
ことねが、首をかしげながら言った。
不思議そうだったが、嫌ではない顔だった。
朔が、少し後ろで聞いていた。
「……理由はひとつです」
静かに言った。
ことねが、朔を見た。
「何が理由なん」
「波多野さんには分かるはずです」
「……分からへん」
「少し考えたら、分かります」
朔が、それ以上言わなかった。
ことねが、央の方を見た。
「央、これ、どういう意味か分かる?」
央は、少し考えた。
「……分かる気がします。でも、俺が言うことではないと思います」
「ふたりしてなんなん」
ことねが、少し笑った。
文句を言いながら、楽しそうだった。
みおが、央の横で、ごく小さく言った。
「……朔さん、今日は言いませんでしたね」
「そうですね」
「……でも、ことね先輩は、ちゃんと受け取っていると思います」
「俺もそう思います」
ことねと朔が、また廊下を歩き始めた。
ことねが、クレープを食べながら歩いた。
朔が、その少し後ろを歩いた。
央は、その後ろ姿を少し見ていた。
(いい文化祭だ)
そう思った。
派手でも、特別でもなかった。
でも、確かに良かった。
そういう日が、今日だった。
まだ午前中が終わったばかりで、午後もまるまる残っていた。
ご一読いただきありがとうございます。
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