第八十八話 10月24日 追い込みと、見えてきた形
文化祭本番まで、残り五日になった。
放課後の教室は、がらりと顔が変わっていた。
机が端に寄せられ、床に新聞紙が敷かれた。
縁日コーナーの装飾に使う段ボールや色画用紙が、山のように積まれていた。
看板係、道具係、装飾係、受付係。
役割に分かれて、それぞれが作業していた。
みおは、装飾係についていた。
縁日の看板や、各ゲームの案内プレートを作る作業だった。
文字をカットして貼り付け、色を塗り、枠をつける。
やることの手順は決まっていたが、細かい部分の判断は各自に委ねられていた。
「葛城さん、その文字、もう少し太くした方がいいと思う?」
隣で作業しているクラスメイトが聞いた。
「……遠くから見ることを考えると、太い方が読みやすいと思います。ゴシック体に近い形にすると、視認性が上がります」
「……詳しいね」
「レイアウトの本を少し読んだことがあって」
「レイアウトの本」
相手が少し止まった。
みおが、鉛筆で文字の輪郭を引き直した。
丁寧で、均等だった。
央が、向かい側のテーブルでそれを見ていた。
(みおは、手先が器用だ)
前から知っていた。
でも、こういう場で見ると改めて分かった。
みおが作業しているとき、動きに迷いがなかった。
考えてから動くのではなく、動きながら考えを確かめている感じだった。
「勢多くん、こっちのテープ、切ってもらえる?」
さやかが声をかけてきた。
「はい」
央が、テープカッターを引き寄せた。
指定された長さに切って、渡した。
「……そのくらいで、合ってます」
みおが、チラリと確認して言った。
「良かった」
「長さが合ってないと、後で修正が大変なので」
「みおはいつから気づいてたの」
「切り始めのときから」
「言ってくれればよかったのに」
「……途中で止めるのも悪いと思って」
さやかが、少し笑った。
「次からは途中でも言って。修正のコストが上がる前に止める方がいい」
「……そうですね、分かりました」
みおが、素直に頷いた。
さやかの言い方は、責めていなかった。
正確に指摘して、前向きに終わらせていた。
央は、それをなんとなく聞いていた。
一時間ほどして、慧とほのかが教室に入ってきた。
「お疲れさまです。手伝いに来ました」
ほのかが言った。
「ありがとう。じゃあ、この台の組み立てをお願いしてもいい?」
さやかが、射的の台の部品が並んだ段ボールを示した。
「分かりました。説明はありますか」
「設計図がここにあるから」
ほのかが、設計図を受け取った。
一度見た。
二度目は見ずに、組み始めた。
慧が、隣でほのかに合わせようとした。
「けいくん、こっちのパーツを持ってて」
「これか」
「そう。でも逆、逆。裏が表になってる」
慧が、持ち直した。
「こっちか」
「うん、そう」
部品が少しずつ形になっていった。
ほのかの手が止まらなかった。
慧の手は、時々止まった。
「けいくん、それ、まだつけなくていい」
「先じゃないの?」
「後。順番があって、これを先につけると次のパーツが入らなくなる」
「……そうか」
「設計図、見て」
「見てる」
「見てても分からないの?」
慧が、少し考えた。
「……立体的に想像すると、順番が逆に見える」
「逆に見えるのが間違いだよ」
「そうか」
ほのかが、少し息をついた。
呆れているのではなく、慣れている、という息だった。
少し離れたところで太秦が笑っていた。
「慧くん、図面は苦手なの?」
「平面を立体で見るのが、合ってない感じがする」
「あー、鎌倉で地図見てた時もそんな感じか」
「空間は分かるんです。でも、図面の線と実物がうまくつながらない」
「……それは珍しいな」
太秦が、感心した顔で言った。
「リアルな空間は読めるのに、記号化された空間は読めない、ってことだろ。それ、なんか名前ある気がする」
「ありますか」
「分からないけど、あるような気がした。忘れて」
慧が「分かりました」と言って設計図に向き直った。
ほのかが、慧の持っているパーツをそっと取り直した。
「ここ、あたしがやる。けいくんはあの長い板を持ってて」
「分かった」
「動かさないで」
「持ってるだけ?」
「そう。持ってるだけでいい」
慧が、長い板を両手で支えた。
ほのかが、手際よく残りのパーツを組んだ。
五分後、射的台の形が見えてきた。
「……できた」
ほのかが、静かに言った。
射的台が、きれいに組み上がっていた。
設計図の通り、というより、設計図より少し綺麗になっていた。
ほのかが微調整を加えながら組んでいたからだった。
「ほのかちゃん、すごいじゃん」
さやかが見ていた。
「設計図があれば読めるので」
「慧くんは設計図があってもダメだったけど」
「……けいくんは持ち場が別にあります。力仕事とか、大きいものとか」
「フォローしてる」
「事実です」
ほのかが、さらっと言った。
さやかが、少し笑った。
慧は、的になる缶の並びを手直ししていた。
細かい調整は、手先でなく目でやっていた。
等間隔に並んだ缶が、静かに整列していった。
「慧くん、それ、きれいに並んでるね」
さやかが言った。
「目で見ると分かりやすい」
「図面は読めないけど、距離感は正確なんだ」
「そういうもの、かもしれない」
ほのかが、慧の並べた缶を見た。
本当に等間隔だった。
ものさしで測ったような精度だった。
ほのかは、少し考えた。
(けいくんって、得意なことと苦手なことが、全然隣り合ってない)
図面が読めないのに、空間は読める。
組み立てが苦手なのに、調整は正確。
そういうことが、慧にはよくあった。
「けいくん、この缶、一個ずらしてみて」
「どこ」
「右から三番目」
慧が、缶をわずかにずらした。
「それ以外は全部等間隔なのに、そこだけ少し離れてない?」
「……そうか」
慧が、缶を戻した。
今度は、完全に揃った。
「見えてるんだね、ちゃんと」
「等間隔じゃないのが分かると、気になる」
「それが才能だよ」
慧が、「そうか」と言った。
どこか、照れた顔ではなかった。
ただ、受け取った、という顔だった。
ほのかは、それを見た。
慧が褒められたときのこの顔は、小学生の頃から変わっていない。
(けいくんって、ずっとこういう顔をする)
思って、少し止まった。
そこまで考えたところで、次の作業の声がかかった。
ほのかは、顔を上げて返事をした。
夕方、窓の外が暗くなってきた。
作業が続いていた。
みおが、小さなプレートの文字入れをやっていた。
筆ペンで、一文字ずつ書いていた。
「射的」「輪投げ」「ヨーヨー釣り」。
書くたびに、少し間を置いた。
央が、斜め向かいから見ていた。
「……きれいな字ですね」
みおが顔を上げた。
「……そうですか」
「均等に書けてます。筆ペン、慣れてますか」
「……家で習字をしていたので、少しは」
「習字、やってたんですね」
「小学校の頃に。今はもうやっていませんが」
「その頃の感覚が残ってるんですね」
「……そういうことかもしれません」
みおが、次のプレートに筆を動かした。
央は、みおの手元を少しの間見ていた。
筆が紙の上を動く。
墨の色が、均等に引かれていく。
(みおが何かを書いているときの手が好きだ)
そう思ってから、少し止まった。
(好きだ、という言葉を使ったな。今)
自分で、少し確かめた。
違和感はなかった。
ただ、それが分かった、という感じだった。
去年の春、隣の席に座った人のことを「好き」と思う日が来るとは思っていなかった。
思っていなかったが、今はそう思っている。
そのふたつが、静かにつながっていた。
みおが「ヨーヨー釣り」と書き終えた。
そのプレートを、作業台の端に置いた。
「……これで全部ですね」
「お疲れさまでした」
みおが、少し頷いた。
筆ペンのキャップを閉めた。
九時ごろ、教室の作業が区切りを迎えた。
大まかな形は出来上がっていた。
あとは仕上げと、本番前日の最終確認だった。
電気を消して廊下に出ると、夜の校舎だった。
下校する流れで、自然に組が分かれた。
太秦とさやかは同じ方向だった。
慧とほのかも同じ方向だった。
央とみおは、どちらもそれとは別の方向だった。
「じゃあ、また明日」
太秦が言った。
「気をつけて」
「ほのかちゃんも」
太秦が言った。
ほのかが「ありがとうございます」と返した。
三組が、それぞれの方向に歩き始めた。
太秦とさやかは、しばらく並んで歩いた。
「ほのかちゃん、手際よかったな」
太秦が言った。
「ほのかちゃんは、ああいう作業が得意なんだと思う」
「慧くんがちょっと足引っ張ってたのが面白かった」
「引っ張ってたというより、役割が違った感じ」
「さやかさんもフォローするね、慧くんのこと」
「フォローじゃなくて、事実を言っただけ」
さやかが、少し先を向いて言った。
「さやかさんって、誰かのこと否定しないよな」
「否定するより、できることに注目した方が効率いい」
「……それ、意識してやってるの?」
さやかが、少し考えた。
「考えてみたことはなかった。そういうもの、じゃないの」
「普通の人はそうじゃないこともある」
さやかが、太秦の方を少し見た。
「太秦くんは、人のこと否定する?」
「……あんまりしない気がするけど、意識はしてない。さやかさんほどちゃんと考えてないと思う」
「そんなに考えてないけどな」
太秦が、少し笑った。
「じゃあ自然にそうなってるってこと?」
「たぶん」
「……さやかさんって、すごいな」
「普通のことだよ」
「普通じゃないと思う」
さやかが、何も返さなかった。
太秦も、それ以上言わなかった。
夜の道が、続いていた。
央とみおは、少ししてから同じ方向を歩いていた。
校門を出て、街灯のある歩道に出た。
少し歩いて、みおが言った。
「……去年の文化祭、今より緊張していましたね」
央は、少し考えた。
「……そうですね」
「去年のこの時期、わたしは文化祭の準備が嫌いでした。作業は嫌いじゃなかったけど、みんなでやることが、うまくできなかったので」
「今年は?」
「……今年は、そこまで嫌ではありませんでした」
みおが、正面を向いて歩きながら言った。
「……変わりましたね」
「変わった、というより、慣れた、という感じかもしれません。去年は何もかもが初めてで、余裕がなかったです」
「俺も、去年はよく分からなかったです、いろいろ」
みおが、央の方を少し見た。
「何が分からなかったですか」
「みんなでいることの仕方、というか。誰かと一緒にいるときに、どういう距離でいればいいか、よく分からなかったです」
「……それは、今は分かりますか」
央が、少し考えた。
「……今は、考えなくてもだいたい分かります。考えてたのが、いつから考えなくなったのかは、よく分からないですが」
みおが、また正面を向いた。
「そういうことは、気づいたら変わっているんですね」
「そう思います」
みおが、少しの間を置いた。
「……わたしも、そうです。いつから変わったか、よく分からないです。でも、去年の今頃より、今の方が少し楽です」
「それは、良かったです」
「はい」
みおが、短く答えた。
夜の道を歩いていた。
街灯の明かりが、足元に丸く落ちていた。
十月の夜は、もう冷えていた。
「文化祭、楽しみになってきましたね」
みおが言った。
「そうですね」
「……去年は、楽しみとはあまり思っていませんでした。今年は、少し思っています」
「みおが楽しみと言うなら、本当に楽しみなんだと思います」
みおが、央を見た。
「……どういう意味ですか」
「みおは、楽しみとは思えないものを楽しみとは言わない、という信頼があります」
「……それは、適当に言わない、ということですか」
「そういうことです」
みおが、少し考えた。
「……適当に言わないことが、信頼、になるんですか」
「なると思います」
みおが、また正面を向いた。
何かを確かめているような、静かな間があった。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
でも、央には届いた。
街灯の明かりの中を、ふたりで歩いた。
文化祭まで、あと五日だった。
みおが、少し前を向きながら言った。
「……明日も準備がありますね」
「最終の仕上げですね」
「……はい」
「みおは明日も装飾係ですか」
「そうだと思います。文字入れが残っているので」
「俺も装飾に入ります」
みおが、少し央の方を見た。
「……手伝ってもらえると、助かります」
「何かできることがあれば」
「……セロテープを切ってください」
「長さを指定してもらえると助かります」
「……分かりました。今度は途中で言います」
みおが、少しだけ笑った。
それで十分だった。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




