第八十七話 10月17日 今年の出し物と、去年との違い
文化祭の準備が始まったのは、中間テストの返却が終わった週だった。
十月の半ば。
廊下の掲示板に「文化祭実行委員より」と書かれた紙が貼り出された。
本番は十月二十九日と三十日。
準備期間は今日から十二日間、とあった。
六時間目が終わると、笠置先生がホームルームを始めた。
「はい、じゃあ文化祭の出し物を決めます。候補を出して、投票か話し合いで決めること。班ごとにまとめて後ろに書いて」
黒板の右端に、候補欄が作られた。
央は、席に座ったまま少し考えた。
去年の文化祭は、何が候補に出て、どういう流れで決まったか、あまり覚えていなかった。
自分が何かを言ったかどうかも、よく思い出せなかった。
(去年は、クラスの話し合いに自分から入っていくのが、少し難しかった)
そういう感覚だけは残っていた。
今年は、少し違う気がした。
少し違う、ということが、どこから来ているのか、うまく言えなかったが。
後ろの黒板に、候補が書き出されていった。
お化け屋敷。
縁日ゲームコーナー。
カフェ。
脱出ゲーム。
候補が出揃ったところで、黒板の前に立った笠置先生が言った。
「意見のある人、どうぞ」
最初は少し沈黙があった。
去年もそうだった、と央は思った。
誰が最初に口を開くか、探り合うような間があった。
去年の自分は、その沈黙の中でずっと待っていた。
央が手を上げた。
「お化け屋敷は、準備期間が十二日では難しいかもしれません。暗くする工夫や怖がらせる仕掛けが、短期間だとクオリティを上げにくいので」
「ありがとう。他は?」
隣の席でみおが少し動いたのを、央は感じた。
「脱出ゲームは、謎の難易度調整が難しい。簡単すぎると詰まらないし、難しすぎると誰も解けない」
別のクラスメイトが言った。
「カフェは今年の他クラスと被るかもしれない」
「縁日は去年もうちらがやったじゃないか」
「去年よかったからこそ、今年もやれる、という考え方もある」
「でも同じでつまらなくないか」
「お客さんから見ると、選べるのが一番いい気もするけど……」
議論が、少しずつ絞られていった。
さやかが、手を上げた。
「縁日ゲームコーナーにしたい。理由が三つあります」
教室が少し静かになった。
「一つ目、準備の作業量がお化け屋敷より少ない。二つ目、去年もやった分、段取りが分かっている。三つ目、参加する側が選べる。射的とか輪投げとかヨーヨーとか、それぞれ得意なものを選んで楽しめる」
「去年と同じで手を抜いてるみたいに見えない?」
「去年よりクオリティを上げれば問題ありません。去年の反省を活かせるのは、同じメンバーで続ける強みです」
「材料費は去年と同じくらいかかるんじゃないか」
「予算内に収まる見積もりは出せます」
「……見積もり、もう出せる?」
「おおまかなものなら」
さやかが、手元のノートを見た。
数字がいくつか書いてあった。
話し合いが始まる前から、候補ごとに費用を計算していたらしかった。
教室が、少し沈黙した。
「……縁日、でいいと思います」
みおが言った。
声は小さかったが、届いた。
「去年より、来てくれた人が楽しめるものがいいと思っていました。自分たちが作るのが楽しいものより、来た人が選べるものの方が、それに近い気がします」
教室が、また少し静かになった。
「……葛城さんの言い方、なんかいいな」
太秦が言った。
「来た人が選べる、ってこと?」
「そう。縁日って、そういうことだよな」
さやかが、黒板に「縁日ゲームコーナー」と大きく書いた。
「決まりました。細かい内容は来週の準備班で決めます。以上です」
笠置先生が「まとまるの早いね、うちのクラス」と言った。
教室が、少しざわついた。
決まったことへの安堵と、早すぎることへの驚きが混ざっていた。
「鳥飼さん、さっきの費用の計算、どれくらいの精度で出した?」
「材料費の目安を候補ごとに調べました。今日の夜に確認して、来週の準備班に共有します」
「ありがとう」
「必要なことをしただけです」
さやかが、あっさり返した。
央は、さやかの「必要なことをしただけです」という言い方を聞いた。
さやかにとって、事前に費用を調べておくことは当然のことだった。
準備は黙ってするもので、それを言われるまでもないと思っている。
(さやかさんは、こういう人だ)
言葉は少ないが、先を見ている。
隣の席で、みおが少しだけ息を吐いた。
聞こえないくらいの小さな音だった。
でも、央には聞こえた。
「意見が通りましたね」
央が小声で言うと、みおが少し驚いた顔をした。
「……聞いてましたか」
「はい」
「どうでしたか」
「よかったと思います」
みおが、少し間を置いた。
「……去年は、ああいう場で何も言えなかったので」
「今年は言えました」
「……今年は」
みおが、それだけ言って正面を向いた。
その横顔は、少しほっとしているような、少し驚いているような、そういう顔だった。
放課後、廊下に出るとひなが待っていた。
「お疲れ。出し物、決まった?」
「縁日ゲームコーナーになりました」
「それいい。なんか楽しそう」
「ひなちゃんのクラスはまだ決まってないの?」
太秦が聞いた。
「うちは明日。あたしは、あれの準備があって先に来た」
「あれって?」
「実行委員。あたし、立候補した」
太秦が、少し止まった。
「文化祭の実行委員?」
「そう。去年、お客さんとして見てるだけだったのが、なんか物足りなくて」
「なんか予想外だな、ひなちゃんらしいけど」
「写真も撮り放題になるし、裏側が見られるし、一石二鳥」
ひなが、理由をきちんと二つ出した。
太秦が「納得した」と言った。
「実行委員、大変じゃない?」
さやかが聞いた。
「大変だけど、向いてると思う。動き回るの好きだし、知らない人と話すのも得意だし」
「確かに向いてそう」
「でしょ。あたし、こういうとこは自分のこと正確に分かってる」
ひなが、満足そうに言った。
みおが、ひなの言葉を少し聞いていた。
「ひな、昨日から準備してたんですか」
「昨日から動いてたよ。配布物とか、日程の確認とか」
「……行動が早いですね」
「思い立ったらすぐやるタイプだから。みおは、考えてから動く?」
みおが、少し考えた。
「……そうです。先に整理したいので」
「それもいい。あたしとは逆だけど、そっちの方が失敗が少ない」
「ひなの方が、動いた数が多い分、たくさん経験してると思います」
「そうかも。失敗も多いけど、そっちの方が早く覚える気がする」
ひなが、あっさり言った。
みおが、少し考えた。
「……それは、どちらが良いというより、向いているやり方が違うということですね」
「そういうこと。あたしはひなのやり方、みおはみおのやり方で、どっちでも来週の文化祭をやり遂げる」
ひなが、少し笑って言った。
みおが、「……そうですね」と返した。
さりげない言葉だったが、みおにとっては少し確認になったような響きだった。
一年生の教室では、慧とほのかのクラスでも文化祭の準備が始まっていた。
出し物は、「お茶会スタイルのカフェ」に決まったらしかった。
クラスの女子の一人が提案して、票が集まった形だった。
「去年の先輩たちって、何やってたのかな」
慧が、廊下を歩きながら言った。
「確認してないの?」
「去年の学校の文化祭は来てないから分からない」
「……それもそうか」
「去年の文化祭の写真とか、記録とか、あった気がする。ほのかは知ってる?」
「写真くらいはあると思う。でもそれより、今年うちらが先輩たちを驚かせる方が面白いじゃん」
「驚かせる?」
「一年生として、ちゃんとやりきった、って思ってもらえるくらいのものにしたい」
慧が、ほのかの言葉を少し聞いていた。
「……ほのか、やる気があるな」
「あるよ。文化祭、楽しみにしてたから」
「俺も楽しみだ」
「けいくんはどのゲームが得意なの?」
「ゲームは全般得意」
「……それ言い方が大きすぎない?」
「得意じゃないゲームが浮かばなかった」
ほのかが、少し笑った。
「……そういうとこ、たまに憎たらしい」
「どのあたりが」
「自信があるとこ。でも嫌みじゃないのが、また」
「複雑な評価だ」
「複雑だよ。でも、本当のことだから仕方ない」
慧が、「そうか」と言った。
どこか、少し納得した顔だった。
ほのかは、慧の横顔を少しの間見た。
からかっているつもりで、本当のことを言ってしまった、と思った。
でも、それは言い直す必要もなかった。
図書室の前を通ったとき、ことねと朔がちょうど出てくるところだった。
「あ、央、みおちゃん」
ことねが、少し嬉しそうに言った。
「ことね先輩。お疲れさまです」
「文化祭、楽しみやね。出し物は何になった?」
「縁日ゲームコーナーです」
「あ、いい。お客さんとして行きたい」
「ことね先輩、今年は受験があるのでは」
「……受験勉強終わったらゆっくり回りたいって、こういう意味ね」
ことねが、冗談っぽく言った。
「来年も行けます」
朔が、ことねの横で静かに言った。
ことねが、朔を見た。
「来年、って大学やん」
「一般に公開されている文化祭なら、行けます」
「……朔くん、それって」
「波多野さんが来年も来たいなら、来られます。ということです」
朔が、落ち着いた声で言った。
ことねが、少し笑った。
「……来るかもしれない」
「来ましょう」
朔が、それだけ言った。
短かったが、返事の余地がないくらいはっきりしていた。
央は、そのやりとりを少し離れたところで聞いていた。
朔が、ことねにこういう言い方をするのを聞いたのは、初めてかもしれなかった。
(来ましょう、と言った)
静かだったが、意志がある言い方だった。
受験が終わっても、また一緒に来る、という話だった。
ことねが、少しの間黙っていた。
朔の言葉を、どこかで確かめているような顔をしていた。
「……来年、ここの文化祭に来るのって、ちょっと変な感じがしそう」
ことねが、少しだけ声を落として言った。
「生徒じゃないから、ですか」
「そう。もう在校生じゃないのに来るって、なんか照れ臭い感じがして」
「……照れ臭くなければ来ますか」
「来るよ」
ことねが、笑って言った。
朔が、「では来てください」と繰り返した。
みおが、央の横で少し言った。
「……朔さん、言い切りましたね」
「そうですね」
「……ことね先輩も、笑ってました」
「笑ってましたね」
みおが、正面を向いた。
どこか満足したような、静かな顔だった。
ことねと朔が廊下の先に歩いていくのを見ながら、央は少し思った。
あのふたりが、来年もこの学校に来る。
そのとき、自分たちはまだここにいる。
(来年もここにいる)
当たり前のことを、少し確かめたような気持ちだった。
帰り道、太秦が言った。
「今年、文化祭で一番楽しみなのって何?」
「縁日ゲームコーナーの準備」
さやかが即答した。
「本番より準備の方が楽しみなの?」
「準備が上手くいくと、本番が楽しくなる。だから準備が楽しみ」
「さやかさんの楽しみ方、論理的だな」
「当たり前じゃない?」
「俺はとりあえず慧くんに縁日で勝ちたい」
「射的とか輪投げで?」
「そう。あいつに勝てる気がしないけど、一回くらい勝ちたい」
さやかが、少し笑った。
「太秦くんにしては、具体的な目標」
「でしょ。葛城さんは?」
太秦が振り返ると、みおが少し考えていた。
「……当日、余裕があると嬉しいです」
「余裕?」
「去年の文化祭は、あまり余裕がなくて、気づいたら終わっていた感じがしました。今年は、ちゃんと見えている状態で当日を過ごしたいです」
「……それ、目標として大事だな」
太秦が、真剣な顔で言った。
「去年は何が見えてなかったの?」
「……あまり、周りの様子を見られていなかったと思います。自分のことで手一杯でした」
「今年は違う?」
「……今年は、少し違うと思います」
みおが、静かに言った。
帰り道の街灯が、一本ずつ点いていった。
十月の夕方は早かった。
でも、七時には帰れる時間だった。
「来週から本格的な準備だ」
太秦が、少し先を向いて言った。
「気合い入れないとな」
「入れましょう」
みおが、珍しく少しはっきりした声で返した。
央は、それを聞きながら、今日一日を少し振り返った。
ホームルームで意見を言ったみお。
さやかが裁定を下した後の、短い安堵。
朔が「来てください」と言った、あの間。
(今年の文化祭は、去年と違うものになりそうだ)
そう思いながら、央は夕方の道を歩いた。
街灯が、一本ずつ点いていった。
その光の中に、帰り道の四人がいた。
文化祭まで、あと十二日だった。
準備が始まった夜は、いつもより少し空気が軽かった。
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