第八十六話 10月7日 テストと、少しだけ伸びた距離
二学期の中間テストは、十月の第二週にあった。
夏が終わって、シルバーウィークも終わって、日が短くなりはじめた頃。
学校の空気が、少しだけ引き締まった。
廊下に「中間テスト範囲一覧」が貼り出された日から、どこか教室の中が静かになった。
休み時間も、スマートフォンより参考書を開いている人間が増えた。
みおは、数学のテスト範囲を確認していた。
確認というより、暗記に近かった。
みおの勉強の仕方は独特だった。
教科書をそのまま覚えるのではなく、自分の言葉でいったん解体して、組み立て直してから頭に入れる。
そのためのノートが、毎回厚くなった。
「みおのノート、毎回分厚くなるね」
さやかが言った。
「……内容を整理するために書くので」
「そんなに書かないとまとめられないの?」
「書かないと整理できません」
「みおって、書くことが考えることなんだね」
みおが、少し止まった。
「……そうかもしれません」
さやかが、自分のシャープペンシルを回しながら言った。
「あたしは逆で、まず頭の中でまとめてから書く。だから書く量が少ない」
「……それはそれで、頭の中が綺麗に整理されているということですね」
「そうでもない。整理しているようで、ただ省略してるだけのことがある」
みおが、さやかの言葉を少し考えた。
「……省略と整理は、違いますね」
「そう。でも本人には区別がつかないときがある」
さやかが、少し苦笑いした。
みおが、うなずくでもなく、少しの間を置いた。
「……それは、分かります」
さやかが、みおの方を少し見た。
みおがそういう返し方をするのは、珍しかった。
分かります、という言葉の重さが、一言で伝わった。
「……みおも、整理してるつもりで省略してることがある?」
「あります。特に、自分のことを言葉にするときに」
さやかが、短く「そうか」と言った。
それ以上は聞かなかった。
みおも、それ以上は言わなかった。
ふたりが、それぞれのノートに向き直った。
教室の窓から、十月の日差しが入ってきた。
テスト前日の放課後、図書室で勉強会があった。
メンバーは央・みお・太秦の三人だった。
さやかは塾があると言って先に帰った。
放出慧と乙訓ほのかも来ていた。
ふたりは一年生用の参考書を持参していた。
テーブルをいくつか合わせて、五人が向かい合ったり横並びになったりした。
静かだった。
宇陀さんが、司書カウンターの向こうで本の整理をしていた。
しばらく、全員が自分のノートと向き合っていた。
ほのかが参考書のページを繰る音、慧が消しゴムをかける音、太秦が鉛筆を止める音が、順番に来た。
太秦が、英語の問題集を広げたまま止まっていた。
「うーん」
「どうしましたか」
央が聞いた。
「構文がよく分からない。文末に何が来るのか」
「見せてください」
央が、太秦の問題集を引き寄せた。
少し見て、鉛筆でノートの余白に書いた。
「主語と動詞を先に確認して、この文末は目的語です。文末を補語にすると意味が変わります」
「……ああ」
太秦が、鉛筆で自分のノートに書き直した。
「ここの並び方、理解した」
「良かったです」
みおが、その様子を横で聞きながら、自分の手を止めた。
「……少し、説明の仕方が上手くなりましたね」
央が、みおの方を見た。
「そうですか」
「以前は、自分が理解していることを言葉にするのに、少し時間がかかっていたと思います。最近は、相手が何を分からないかを先に考えてから話しているように聞こえます」
央は、少し考えた。
「……みおに言ってもらえると、一番うれしいかもしれないです」
みおが、少し目を細めた。
「どうしてですか」
「みおは、うまく説明できているときと、できていないときの違いを、ちゃんと見ていると思うので」
みおが、少しの間を置いた。
「……見ています」
「だから、一番うれしい」
太秦が、ふたりを交互に見た。
それから、何も言わずにまた問題集に向き直った。
(おうくんが、そういうことを言えるようになった)
去年の春、太秦が最初にこのふたりを見たとき、央は会話のたびに少し言葉を選んでいた。
今は、選んでいないわけではないが、選び終えるのが早くなった気がした。
太秦は、ふたりに何も言わなかった。
言う必要もなかった。
テーブルの上に、それぞれのノートと参考書が広がっていた。
みおのノートは、今日もまた分厚くなっていた。
慧のノートは、どのページも同じ濃さで書かれていた。
力の込め方が変わらない字だった。
ほのかが、慧のノートを少し見た。
「けいくん、ここのまとめ方、うちと違う」
「どこが」
「この式の手順が逆」
「どっちでも同じになる」
「……でも、手順が逆だと後から見直しにくい。教科書の順番に合わせた方が、見直しのときに早い」
慧が、少し考えた。
「……そうか」
「そう。速さより後で使えることを考えると、こっちの順番の方がいい」
慧が、無言でノートを少し修正した。
ほのかが、それを見て何も言わなかった。
言わなくていいと思った。
時間が経って、慧が自分の答案練習を広げていた。
「ここ、合ってますか」
ほのかに向かって言った。
ほのかが、覗き込んだ。
「……これ、合ってると思う」
「採点したら×になってた」
「どの採点?」
「自己採点」
「答え合わせのページ、どこ見た?」
慧が、参考書の後ろのページを開いた。
ほのかが、その答えを確認した。
「……あ、解説ページの方を見てる。答えはその前のページだよ」
「そうか」
「ここの問題、正解じゃない?」
「……そうか」
慧が、静かに× を○に直した。
ほのかが、少し笑った。
「整理して直してもらえると助かります」
宇陀さんが、カウンターの向こうから静かに言った。
ほのかが「すみません」と返した。
少しして、宇陀さんがカウンターから出て来た。
棚に本を戻す途中で、慧の答案練習の横を通った。
「放出さん、少し上がりましたね」
通り過ぎながら、静かに言った。
慧が、顔を上げた。
「……どこから分かりますか」
「問題の解き方を見ていると、以前より引っかかる場所が変わってきています。春から比べると、基礎の理解が安定してきています」
「……よく見てますね」
「図書室は静かなので、よく見えます」
宇陀さんが、それだけ言って棚の方に行った。
慧が、答案練習に戻った。
ほのかが、横で「宇陀さんって、何でも見てるんだね」と小さく言った。
慧が「そうかもしれない」と返した。
(宇陀さんが「少し上がりましたね」と言った)
ほのかは、その言葉を聞いて、何か少し温かいものが来た気がした。
慧が成績で苦労していたことは、中学の頃から知っていた。
本人はあまり悔しがるタイプではなかったが、ほのかの方が少し気になっていた。
「けいくん」
「何」
「よかったね」
慧が、少し止まった。
「……そうか」
短かったが、悪くない声だった。
テストは、三日間に渡って行われた。
初日は現代文と数学。二日目は英語と理科。三日目が社会だった。
央は、数学の最後の大問で繰り上がりを一か所ミスした気がした。
見直しで探したが、見つけられなかった。
終わってから、みおに「計算ミスが一か所ある気がします」と言うと、みおが「どこですか」と返してきた。
問題の形式を説明したら、みおが少し考えて「……返却のときに確認しましょう」と言った。
それだけのことだったが、返却まで少し楽しみになった。
テストが終わった日の帰り道は、どこか静かだった。
三日間張り詰めていた何かが、少しずつ抜けていく感じがあった。
みおは、いつもと同じ歩幅で歩いていた。
急ぐでもなく、遅れるでもなく。
それが今日は、なんとなく落ち着いて見えた。
翌週、テスト返却があった。
英語の返却は、五時間目だった。
答案が配られてから、教室の中がしばらく静かになった。
自分の点数を確かめる沈黙と、隣と見せ合う会話と、ため息と、が混ざった。
「……やっぱり落としてた」
太秦が、小さく言った。
「どこ」
さやかが、前を向いたまま聞いた。
「英作文の後半。思った通り」
「見せて」
さやかが、太秦の答案を横から引き寄せた。
少し見てから、返した。
「太秦くんって、単語は書けてるのに並べ方がランダムだよね」
「……語順の概念がない」
太秦が、一言で自己申告した。
「それ、問題じゃない?」
「問題だから点が取れない」
「自覚はあるんだ」
「ある。ただ直せてない」
さやかが、太秦の答案を少し見た。
「この文、単語は全部合ってるよ。順番を変えたら正解」
「知ってる」
「……分かってて書けないの?」
「書くとき、語順を気にする前に単語を全部出してしまう。先に思い浮かんだものを置いてしまう」
「……それ、頭の中で先に文が完成してるんじゃなくて、単語リストを先に出してるってこと?」
「そういうことだと思う」
さやかが、少し考えた。
「……単語リストを出してから、並べ直す癖をつけないといけないね」
「そうなんだよなあ。並べ直すステップを飛ばしてる」
「飛ばしてるのに気づいてるなら、飛ばさないようにできない?」
「試みている。テスト中は焦るからまた飛ばす」
さやかが、ため息をついた。
央は、斜め前から、そのやりとりを少し聞いていた。
さやかが太秦の答案を引き寄せて、順番に指摘していくのを見ていた。
さやかは、指摘の仕方が無駄がなかった。
否定するのではなく、「ここはできてる、ここが問題」という形で言った。
「……太秦くんって、頭は悪くないと思うんだけど」
「ありがとう」
「褒めてない」
「知ってる」
さやかが、また自分の答案に向き直った。
太秦が、さやかのことを少し見た。
(さやかさんは、俺のことをちゃんと見てる)
褒めてない、と言いながら、「頭は悪くない」と言った。
それは、さやかの観察から出た言葉だった。
太秦のことを、答案の点数で見ていない。
そういうことが、さやかには自然にできた。
太秦は、自分の答案に向き直った。
単語を、今度は意識して、並べ直してみた。
放課後、廊下でみおと央が並んで歩いていた。
テストが終わった後の校舎は、どこか空気が軽かった。
「数学は、どうでしたか」
央が聞いた。
「……手応えはありました。結果は来週分かります」
「そうですね」
「央さんは」
「現代文は問題なかったと思います。数学は、計算ミスが一か所ある気がします」
「どこですか」
「最後の大問。終わりの方で繰り上がりを忘れた気がします」
「……確認しましたか」
「見直しの時間に一回、しました。でも、見落としているかもしれません」
みおが、少し考えた。
「……計算ミスは、見直しで全部見つかるとは限らないですね」
「そうみたいです。同じ間違え方をしてしまう」
「同じ間違え方をしているなら、特定の場所だけ重点的に確認する方が効くかもしれません」
「繰り上がりを特定して、そこだけ見直す、ということですか」
「……そういうことです。自分の弱点の形を先に知っておく、という方法です」
央が、少し考えた。
「……みおは、それをやってますか」
「やっています。書き間違いが多いので、自分の癖の形を整理しています」
「それは、テスト前に確認するんですか」
「テスト前と、テスト中と。どちらでも少し意識します」
央が、「なるほど」と言った。
「参考になります」
「お役に立てれば」
みおが、少し前を見ながら言った。
どこか照れたような、でも素直な声だった。
廊下の窓から、十月の夕方の光が入ってきた。
光が斜めから来て、ふたりの影を廊下に長く伸ばした。
ふたりの影の長さは、違った。
みおの影の方が、央のものより少し長かった。
同じ光を受けながら、違う長さで伸びていた。
央は、廊下の先を歩きながら、腕時計を少し撫でた。
(去年の春、この廊下を隣同士で歩き始めた頃から、少しずつ変わってきた)
テストの点数のように数字には出なかった。
今日みおに言ってもらったことも、数字にはならない。
でも、確かに変化していた。
変化していることを、みおも分かっていると思う。
そういう確信が、いつごろからかあった。
みおが、ふと廊下の先を見て、少しだけ足を速めた。
消灯が近いらしく、向こう側の蛍光灯がひとつ瞬いた。
それを見た央は、なんとなく今日一日のことを、もう少し覚えていようと思った。
こういう日は、意識しておかないとすぐに忘れた。
でも、忘れたくない日というのが、確かにあった。
今日は、そのうちの一日だと思った。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




