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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第八十五話 9月21日 海と、言えなかったこと


 昼食を終えた後、一行は小町通りを抜けて海の方へ向かった。


 ひながナビ役を続けていた。

 スマートフォンを片手に、迷わず歩く。


「鎌倉から海まで、歩いて二十分くらいだね」


「遠いな」


 太秦(うずまさ)が言った。


「だいたい観光地ってそういうものだよ。駅から少し歩かせる」


「なんで?」


「途中で買い物させるため」


 太秦が、小町通りの両側の店を見回した。


「……確かに、もう何回か財布を開けた気がする」


「でしょ」


 ひなが、前を向いたまま言った。

 さやかが、太秦の横で「食べ歩きしてたのは太秦くんだけど」と静かに補足した。


「……それは否定できない」


 太秦が、小さく笑った。


 (けい)は、先頭から三番目くらいの位置を歩いていた。

 地図アプリを開いたまま、ひなの後ろをついていた。


「慧くん、地図見てる?」


 ほのかが、隣から聞いた。


「一応」


「どこにいるか分かる?」


「……だいたい」


「だいたい、ね」


 ほのかが、少し笑った。

 慧が「なんで笑うんだ」と言った。

 ほのかは「なんとなく」と返した。



 由比ヶ浜に着いたのは、昼過ぎだった。


 砂浜が広がっていた。

 九月で海水浴シーズンはすでに終わっていたが、観光客や散歩の人間が点在していた。

 波の音が、ずっと同じリズムで打ち返していた。


「海だ」


 ひなが、当たり前のことを言った。


「来てみると、やっぱりいいな」


 太秦が言った。


「カフェよりよかった?」


「……そうじゃないけど。来ることに意味があった、という感じ」


「合ってるじゃん」


 さやかが、短く言った。


「何が」


「さっきの話。三十分並んで来た意味がある」


 太秦が口を開きかけたが、反論する前にさやかが先を歩いてしまった。


 砂浜に出ると、七人は自然に散らばった。


 太秦は波打ち際まで歩いて行って、靴が濡れない程度のところで立ち止まった。

 波が来るたびに少し退いて、また近づいた。

 子どものような動きを、本人はまったく自覚していない顔でやっていた。


 さやかは、靴を脱いで手に持ち、砂の感触を確かめながら歩いていた。

 素足で砂浜を歩くのは久しぶりらしく、「思ったより冷たい」と一言言った。

 誰に言ったのか分からなかったが、ひなが「そうだよ、九月だもん」と返した。


 ひなは、最初からカメラを出していた。

 スマートフォンではなく、小さなデジタルカメラだった。

 旅行に来るときは必ず持ってくるらしい、とさやかが後で教えてくれた。


 波打ち際に、ひながカメラを向けていた。

 みおの姿が、空と砂浜を背景に入った。

 ひなが、画面を確認して少し目を細めた。


「みお、もう少しこっち向いてもらえる?」


 みおが、ひなの方を向いた。

 ひながシャッターを押した。


 ひなは、一枚で満足しなかった。

 角度を変えて、もう二枚撮った。

 みおが「まだ撮りますか」と聞くと、「うん、あとちょっと」と言った。

 みおが静止したまま待つ間、通りかかった人が何人か振り返った。

 ひなは気にしていなかった。みおも、気にしていない顔をしていた。


「……撮られましたね」


 (おう)が、みおの隣に来て言った。


「そうみたいです」


「どんな写真だったか、確認しますか」


「……後でいいです」


 みおが、海の方に目を向けた。

 波が来て、砂が濡れて、また引いていく。

 それを少し見ていた。


 ふたりは、少しだけ砂浜を歩いた。

 グループの輪から離れるほどではなく、少し間をとる程度に。

 みおが先を歩いていたわけではなく、央が先だったわけでもなかった。

 自然に並んでいた。


 足元の砂が、歩くたびに少しずれた。

 みおの足跡は、央の足跡より少し大きかった。

 それを、央は特に意識せずに見ていた。


「去年の夏祭り、花火を見た時を覚えていますか」


 央が、突然でもなく、ただ思い出したように言った。


 みおが、少し間を置いた。


「……覚えています」


「みおが、ずっと動かなかった」


「そんなに長くはなかったです」


「五分以上いました」


「……そうでしたか」


 みおが、少し自分で確かめるような顔をした。


「……央さんはあの時、私を見ていたんですね」


「……はい」


「覚えていたんですか」


「覚えています」


 みおが、少し間を置いた。

 海に目を向けたまま、静かに言った。


「あのとき、まだ央さんのことを、よく知らなかったです」


「今は、少し知っていますか」


「……少し」


「俺は、みおのことを、少し知っています」


 みおが、返さなかった。

 少しの間があった。


「……少しより、もう少し多いかもしれません」


 ごく小さい声だった。


 波が来て、また引いた。

 央は、それを聞いて、少し笑った。

 みおは、海を見続けていた。


 しばらく、ふたりとも何も言わなかった。


 みおは、自分が言った言葉を、頭の中でもう一度聞いていた。

 少しより、もう少し多い。

 我ながら、変な言い方だと思った。

 でも、それ以外の言い方が思い浮かばなかった。


 「少し知っている」という言葉を返すよりも、もう少し多いことを言いたかった。

 でも「よく知っている」は違うと思った。

 だから「少しより多いかもしれない」になった。


 そういう計算が、言葉を出す前に一瞬あった。

 央に伝わったかどうかは、分からなかった。


 波が、また来た。

 砂が濡れて、白く泡立って、引いていった。


 央は、みおの横に立ったまま、同じ海を見ていた。

 何か言おうとして、何も言わなかった。

 それでよかった、と思った。



 慧とほのかは、少し離れた場所の砂浜に座っていた。


 靴を脱いで砂の上に置いて、横に並んで座った。

 ほのかが膝を抱えて、慧が手を砂に着いて体を少し後ろに傾けていた。


 波の音だけが、ふたりの間にあった。


「大学、どこ行くの」


 ほのかが、どこかを見ながら言った。


「まだ決めてない」


「何系に行きたいとかある?」


「スポーツ関係か、理系か」


「そのふたつ、全然違うじゃん」


「どっちも好きだから」


 ほのかが、慧の方を少し見た。


「理系って、理工学部とか?」


「物理か情報。どっちかよく分からないけど」


「……そういうの考えてたんだ」


「なんとなく。ほのかは?」


「あたしは文学部か教育学部かな。読書好きだし、人に教えるのが得意かもしれないし」


「教師になるの?」


「なるかどうかは分からないけど、向いてるかもしれないって思う」


 少し間があった。


 遠くで、太秦が波に向かって何か言っているのが聞こえた。

 さやかが「何やってるの」と言っているのも聞こえた。

 でも、内容まではよく分からなかった。


(けいくんと、こういう話、あんまりしたことなかったな)


 バスケとか、今日の練習とか、今日どこ行くとか。

 そういう話はよくしていた。

 でも、将来のこととか、何が好きでどうしたいとか。

 そういう話を、ふたりでしたことは、あまりなかったかもしれなかった。


 砂の表面が、風でわずかに動いていた。

 ほのかは、それを見ながら少し考えた。


 慧が、「そうかも」と言った。


「なんで」


「ほのかは、話すのが上手い。分かりやすく言い直せる」


「……言い直せる、は初めて言われたかな」


「俺が言ったことを、他の人が分かるように言い直してくれることがある。気づいてる?」


 ほのかが、少し止まった。


「……そんなに、してた?」


「してる」


 ほのかは、慧に向かって何か言い返そうとして、止まった。

 自分がそういうことをしていた場面を、いくつか思い出した気がした。


「……なんか、ちゃんと見てるじゃん、けいくん」


「たまには」


 慧が、砂に指を走らせながら言った。


「……大学、ほのかと一緒のところがいい」


 ほのかが、少し止まった。


「え」


「同じ場所に行けるなら、それがいい」


 ほのかが、慧の顔を見た。

 慧は、砂浜を向いていた。


「……それって、冗談?」


 慧が、少し黙った。


「……分からない」


「分からないって、何が分からないの」


「冗談か本気か、自分でも分からない」


 ほのかが、また少し止まった。


(分からない、って言った)


 その言葉を、ほのかはゆっくり受け取った。

 慧がそういう言い方をするのは、珍しかった。

 いつもは「はっきり言う」か「何も言わない」かのどちらかで、「分からない」と言うことがあまりなかった。


「……なんで、今それ言ったの」


「聞かれたから」


「うち、大学どこ行くか聞いただけだよ?」


「……それで、思った」


 慧が、砂の上に書いた文字のような跡を手で消した。


 ほのかは、慧の横顔を少しの間見た。

 何か返すべきかどうか、分からなかった。

 返す言葉が、見つからなかった。


「……けいくん」


「何」


「なんでもない」


 慧が、ほのかの方を向いた。


「なんでもなくない」


「なんでもないよ」


「……そうか」


 慧が、また海の方に向き直った。


 ふたりの間に、また波の音が戻った。

 ほのかは、膝の上に顎を乗せた。


(なんでもない、なんてことはなかった)


 自分で言っておきながら、そう思った。

 でも、何かを言葉にするには、もう少し時間が必要な気がした。



 夕方になった。


 日が傾くと、砂浜の色が変わった。

 白っぽかった砂が、少しオレンジになった。

 影が長くなって、波の輪郭がはっきりした。


 七人が、砂浜の少し高い場所に集まっていた。

 夕日が、海の方へ向かって沈んでいた。


 太秦が、誰に向けるでもなく言った。


「なんか、いい一日だったな」


 しばらく、誰も返さなかった。


 さやかが、少しあって言った。


「たまにいいこと言う」


「たまに、ね」


「たまに」


「さやかさん、繰り返した」


「たまにだから」


 太秦が、小さく笑った。


「いいじゃないですか、たまには」


 ほのかが、海を向いたまま言った。


「そうだね、たまには」


 太秦が、また笑った。


 ひなが、カメラを構えていた。

 夕日の方を向いて、何枚か撮った。

 満足したのか、カメラをしまって、太秦の隣に立った。


「今日の写真、後でみんなに送るね」


「ありがとう。何枚撮ったの」


「数えてない。多分百枚以上」


「ひなちゃん、旅行のたびにそれやってる?」


「そう。後で見返すのが楽しいから」


 太秦が、「それはいいな」と言った。

 ひなが「でしょ」と返した。


 さやかは、砂の上に立ったまま、少し遠くを見ていた。

 何かを考えているような、ただ見ているだけのような、区別のつかない顔だった。


 太秦が、その横顔を少し見た。


 さやかが気づいて、太秦の方を向いた。


「何」


「いや、何も」


「じゃあ見ないで」


「見てもいいだろ」


「……まあ、いいけど」


 さやかが、また海の方に向き直った。

 太秦が、小さく笑った。


 みおが、夕日の方を見ていた。

 ひなが隣でシャッターをまた押していた。

 慧は立ったまま、波の先を見ていた。


 七人が、夕日の中にいた。



 帰りの電車は、行きより混んでいた。


 シルバーウィークの夕方、帰りの波が来ていた。

 七人はなんとかひとつの車両に乗り込んだが、席は一列分しか空いていなかった。


 ほのかと慧が隣り合う席に座った。

 太秦とさやかが、少し離れた席にかろうじて並んだ。

 みお・ひな・央は立った。


 電車が動き出した。

 揺れるたびに、吊り革を持つ人間が増えた。


 行きにしらす丼を三十分待って、八幡宮の石段を上がって、砂浜を歩いた。

 思ったより足を使った一日だった。


 太秦とさやかの席では、しばらく無言だった。


 さやかが、窓の外を見ていた。

 夕方の住宅地が、流れていった。


 太秦が、少し声を落として言った。


「今日、楽しかった?」


 さやかが、少し間を置いた。


「楽しかった。なんで」


「なんとなく確認したくなった」


「……そう」


 さやかが、また窓の方を向いた。


「太秦くんは」


「俺も楽しかった。来てよかった」


「そう」


 また少し間があった。


「……来年も行けるといいね」


 さやかが、窓を向いたまま言った。

 太秦が、その言葉を少し聞いてから言った。


「行こう」


「……うん」


 それだけだった。

 電車が、夜に向かって走っていた。


 二十分ほどして、央がほのかと慧の座っている方向を見た。


 ほのかが、慧の肩に頭をもたれていた。


 目が閉じていた。


 慧は、前を向いていた。

 背筋がまっすぐだった。

 体が、少し固まっていた。


 どうすればいいか分からない、という顔をしていた。


 太秦も、向こうからその光景を見ていた。

 目が合った。


 太秦が、何も言わずに小さく笑った。

 央も、何も言わなかった。


 慧は、背筋を伸ばしたまま、電車の揺れに合わせて少し動いた。

 ほのかは、それでも起きなかった。


 窓の外に、夕暮れの街が続いていた。

 今日の始まりと同じ路線を、今度は反対方向に走っていた。

 行きは朝だったのに、もう夜になろうとしていた。


 電車が、夕暮れの線路を走っていった。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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