第八十一話 9月18日 競技割り当て、あるいは戦略会議
木曜日の放課後は、どこか落ち着かない空気があった。
明日が体育祭だと知っているからではなく、むしろ、明日が体育祭だと知っているのに、今日はまだ普通の授業日である、という、その微妙な間のせいだった。
廊下に出るたびに、どこかから「明日何に出る?」という声が聞こえてきた。
でも授業中はちゃんと授業だった。そのギャップが、木曜日という一日を、少し宙ぶらりんにしていた。
六時間目が終わると、笠置先生がA4の用紙をまとめて抱えてホームルームに入ってきた。
「はい配りまーす。明日の競技リスト。自分の名前と担当を確認してください。変更は原則なしで、怪我してる人は申告すること」
用紙が後ろに回されていく中、央は受け取った紙を広げた。
縦に名前が並び、横に競技名が並んでいた。
自分の欄には「綱引き・リレー補欠」とあった。
(去年と、だいたい同じだ)
体育が得意でないことは、一年前から変わっていなかった。
ただ、去年と違うのは、今年は「まあそういうものだ」と思えていることだった。
去年は、この紙を見て少し気持ちが沈んだのを覚えている。
今年は、そこまでではなかった。
みおが、自分の欄を確認していた。
みおの欄には、「記録係(写真・タイム計測補助)」とあった。
去年と同じだった。
申請したわけではなく、先生が前年度と照らし合わせて割り振ったらしい。
自分から何も言わなくても、同じ役割に収まっていた。
(去年もそうだった)
記録係は、基本的に競技に参加しない。
タイマーを押したり、写真を撮ったり、補助をしたりする役割だ。
運動神経の問題もあるが、それよりも、「競技に出ると多くの人に見られる」という問題の方が、みおには大きかった。
走るだけで視線が集まる。
それが競技という形になれば、どれだけになるか、容易に想像できた。
「葛城さん、また逃げた」
太秦が、後ろから言った。
責める声ではなく、笑いを含んでいた。
「……去年も、記録係でしたよ」
みおが、静かに返した。
「そうだけどさ」
「記録係は必要な役割です」
「言い訳になってる気がするのは俺だけですか」
「なってません」
みおが、少し間を置いて付け足した。
太秦が小さく笑った。
央は、そのやりとりを横で聞いていた。
去年の体育祭でも、みおはこうやって競技から一歩引いていた。
その理由を、今年は前より分かるような気がした。
(みおが記録係を選ぶのは、逃げているのではなく、自分なりに最適な立ち位置を選んでいる、ということなんだと思う)
うまく言葉にはならなかったが、そういう感覚だった。
用紙を眺めながら、太秦が独り言のように言った。
「……そういえば、今年は誕生日と体育祭がずれてよかった」
央が、その言葉に少し反応した。
「去年は重なってましたね」
「そうそう。九月の真ん中って、体育祭と被ることが多くてさ。今年は来週だろ、体育祭」
太秦が、どこかほっとしたような顔で言った。
「今年は分かれた。これはこれで、ちゃんと誕生日を誕生日として過ごせた感じがする」
みおが、少し口を開いた。
「……先週、みんなで集まれてよかったです」
「うん、そうだね。あれはよかった」
太秦が、素直に答えた。
央も、同じことを思った。
先週、放課後の教室に集まって、ケーキを切り分けた時間。
夕方の光が差し込む中で、それぞれが選んだものを机の上に並べた時間。
あれは、体育祭と別の日だったから、あの形で成立した。
(来年も、こういう時間がある、といいな)
そういうことを、初めて思った。
来年、ということを、具体的に想像したのは、これが初めてかもしれなかった。
HRの後半、笠置先生が黒板の前に立って言った。
「三年生には最後の体育祭になります。特に応援が多い競技は盛り上がる可能性があるので、各自マナーよくお願いします。ではHR終わり」
最後の体育祭、という言葉が、教室の中に静かに残った。
太秦が、ぼんやりした声で言った。
「……三年生、今年で最後か」
それだけだった。
続く言葉はなかった。
さやかが、少し間を置いて返した。
「じゃあ、わたしたちも来年が最後だね」
太秦が、「そうか」と言った。
さやかの言葉は、静かだった。
しみじみしているわけでも、悲しんでいるわけでもなく、ただ、そういう事実として口に出た、という感じがした。
来年の体育祭が最後。
今年を含めると、体育祭はあと二回ある。
(もう一回しかない、という捉え方もある。まだ二回ある、という捉え方もある)
央は、どちらとも決めずに、そのまま考えた。
放課後、廊下に出たところで、朔が歩いてきた。
それと少し遅れて、昇降口方向から慧とほのかが並んで歩いてくるのが見えた。
一年生のふたりは、自クラスのHRが先に終わったらしく、先に下に降りてきていた。
「先輩方、お疲れさまです」
慧が声をかけてきた。
声が落ち着いていた。
「慧くん、明日の体育祭、何に出るの?」
さやかが聞いた。
「たくさんです」
慧が、即答した。
「……どの競技?」
「どこでも。中学までバスケでセンターしてましたし、運動好きなんで」
「……中学校のバスケに、一九〇センチのセンターがいたら反則みたいじゃない」
「身長でルールは変わらないので」
「そういう意味じゃなくて」
さやかが苦笑いした。
慧は、どういう意味なのか分からなかったらしく、首をかしげた。
ほのかが、慧の隣で小さく言った。
「……けいくん、毎年これ」
「毎年、体育祭はあるから」
「あってもそんな即答する?」
「入れるなら入る方がいいだろ」
ほのかが、小さく息をついた。
あきれているのではなく、慣れている、という顔だった。
(毎年、か)
央は、ほのかの「毎年」という言葉を、少し引っかかりながら聞いていた。
中学でも、ことあるごとに競技に立候補していたのだろう。
ほのかがそれを知っているのは、毎年一緒にいたからだ。
それだけのことを、ほのかは「毎年これ」というひと言で言い切った。
長い付き合いというのは、こういうふうに言葉が短くなるものだと、央は思った。
そんなタイミングで、慧の奥から声がかかった。
「勢多くん」
「朔さん」
朔が、足を止めた。
央も立ち止まって、向き合う形になった。
「明日のリスト、もらいましたか」
「はい」
「自分の役割は決まっていますか」
「綱引きと、リレー補欠でした」
朔が、少し頷いた。
「自分は……短距離に出ることにしました」
言い方が、どこかきちんとしていた。
「出ます」ではなく、「出ることにしました」という言い方が。
「短距離ですか」
央が、少し驚いた声を出した。
朔がリレーや短距離に出るイメージが、うまく浮かばなかった。
「……ことねさんに話したら、驚きますよ」
「そうですか」
「珍しいイメージです。朔さんが自分から競技に手を挙げるのは」
朔が、少し考えるような顔をした。
「特にこれ、という理由で決めたわけでもないですが……」
言葉が途切れた。
何かを考えている様子だったが、続かなかった。
「……最後の体育祭だから」
央が、代わりに言った。
「そういうことです」
朔が、短く答えた。
それ以上の言葉はなかったが、それで十分だった。
別れ際、朔が、少し声のトーンを落として言った。
「波多野さんが応援してくれるなら、それだけで十分です。結果がどうであれ」
どこか、独り言のような声だった。
央に向けて言ったのかどうか、曖昧だった。
央は、返し方を少し迷った。
「……じゃあ、結果も気にしてください」
朔が、驚いたような顔をした。
「どういう意味ですか」
「結果まで気にできたら、ことねさんの応援がもっと生きる、ということです」
朔が、少し黙った。
それから、かすかに笑った。
「……そうですね」
廊下の向こうへ、朔の背中が遠ざかっていった。
央は、しばらくその背中を見ていた。
昇降口に向かうと、みおと太秦が待っていた。
「比叡先輩と話してたの?」
太秦が聞いた。
「少し」
「なんの話?」
「明日の競技の話です」
「比叡先輩、何出るの?」
「短距離だそうです」
太秦が、目を丸くした。
「えっ、比叡先輩が自分から競技に出る?」
「珍しいですよね」
「めっちゃ珍しい。最後の体育祭だからか」
太秦が少し考えて、それから少し笑った。
「……三年生って、そういう気持ちがあるんだな」
「そうみたいです」
みおが、ふたりのやりとりを聞きながら、静かに言った。
「……ことねさん、驚いたんですかね」
「そうだと思いますよ」
「……驚きながら、嬉しかったと思います、きっと」
みおが、独り言のように言った。
央は、その言葉を聞いた。
みおがそういうことを言うのは、少し珍しかった。
観察眼があることは知っていたが、人の感情をこういう形で言葉にするのは、あまりないことだった。
「……そうですね」
央が答えると、みおが少し目を細めた。
昇降口を出ると、九月の夕方の空気が来た。
まだ日が高い時間だったが、夏と比べると、光がどこか柔らかくなっていた。
体育祭前日の校舎は、どこか落ち着かない雰囲気を持っていたが、外に出るとそれが薄れた。
「明日、晴れそうですね」
みおが、空を見上げながら言った。
「天気予報、確認した?」
太秦が聞いた。
「さっき。晴れ時々曇り、でした」
「いい日じゃん」
太秦が、スニーカーの先で地面を軽く叩いた。
「……外で走る競技には、ちょうどいい気温だと思います」
「葛城さん、記録係だから他人事っぽいな」
「……記録係も、外にいます」
「そうだった。ごめん」
太秦が、笑いながら謝った。
みおも、少し笑った。
央は、そのやりとりを見ながら、少しだけ考えた。
去年の体育祭と、今年の体育祭。
同じメンバーで、同じ場所で、違う一年を経た後、また体育祭の前日に並んでいる。
(去年の九月は、みおと話すのも、まだぎこちなかった)
今は、こうして三人でなんでもない話をしている。
それが、当たり前のように感じるようになっていた。
「みおは、去年の体育祭、どうでしたか」
央は、歩きながら聞いた。
みおが、少し考えた。
「……記録係なので、走ったりはしていませんでしたが、あまり余裕がありませんでした」
「何が」
「全体的に。まだ慣れていなくて」
「慣れてなかったのは、体育祭ですか」
「それもありますし……いろいろ」
みおが、少し言葉を選ぶような間を置いた。
「今年は、去年よりは、余裕があると思います」
「じゃあ、来週は楽しめそうですか」
みおが、少し考えた。
「……楽しめるかどうかは、やってみないと分かりませんが、去年よりは、余裕があります」
それだけ言って、みおは正面を向いた。
央は、その答えを聞いて、少し腑に落ちた気がした。
みおが「楽しい」という言葉をすぐに使わないのは、それが空言にならないようにしているからだと、前から思っていた。
「余裕がある」というのは、みおにとっての「次に備えている」という言葉だった。
「……俺も、去年より余裕があります」
央が言うと、太秦が横から口を挟んだ。
「おうくんの余裕って何が変わったの」
「……体育が上手になったわけではないですが」
「いや、それは知ってる」
「今年は、いっしょに応援できる人が増えました」
太秦が、少し間を置いてから、「……なんかいいこと言ったな」と言った。
「言ってない」
「言ってるよ」
みおが、ふたりを交互に見た。
それから、ごく自然な顔で言った。
「……増えましたね、確かに」
太秦が、にやっとした。
「慧くんとほのかちゃんも一緒に体育祭ね、今年は」
「そうですね」
「来年も一緒にいる」
「……そうですね」
みおが、もう一度同じ言葉を繰り返した。
太秦の言い方には、確信があった。
みおの言い方にも、否定がなかった。
三人で横並びに歩いていた。
背の高い順でも、距離の近い順でも、別に整列しているわけではなかった。
ただ、自然にそうなっていた。
九月の空が、少しずつ色を変えていった。
明日の晴れを約束するような、静かな夕方だった。
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