第八十話 9月14日 うずまさの、誕生日
土曜日の朝、勢多央は、駅近くの雑貨店で、ひとつの商品の前に立っていた。
スニーカークリーナーのコーナーだった。
三段の棚に、ブランドごとに並べられたクリーナーが、十種類以上あった。
価格はまちまちで、一番高いものは、いくつかのパーツがセットになっていた。
今日は太秦の誕生日だった。
太秦がスニーカーを月一で何かしら買っているのは、前から知っていた。
クリーナーも、その都度買い替えているという話を、いつだったか聞いていた。
ならば、いいやつにしようと思ったのは、自然な流れだった。
棚の前で、しばらく迷った。
高ければいいというものでもないかもしれない、とも考えた。
でも、太秦が「これ、使ったことないけど知ってる。いいやつ」と言えるようなものの方が、
太秦らしい反応が返ってくる気がした。
そう考えて、棚の一番上にある、ブラシとリキッドのセット品を手に取った。
価格を確認して、少し考えて、そのまま持っていくことにした。
レジに向かいながら、央は、今日の夕方のことを考えた。
教室で小さく集まると、ひながグループLINEで言っていた。
太秦は、たぶん知らないふりをしている。
いや、知っている上で、何も言わずにいるのかもしれない。
どちらでも、太秦はきっと、頭の後ろを掻いて、少し照れるだろう。
それが分かっていても、今日というのは、やっぱり特別だった。
昼ごろ、みおは、自室で小さな紙袋を確認していた。
中には、布と、グローブが入っていた。
高品質のウエスと、滑り止めがついたメカニックグローブのセット。
先週、蒼介に頼んで選んでもらったものだった。
「その太秦くんって子、自転車好きなの?」
蒼介は、みおから事情を話すと、すぐに興味を持った。
父親が自転車修理店をしているという話をすると、蒼介はさらに目を輝かせた。
「それなら、これだよ」
蒼介が選んだのは、整備のプロが使うような、目の細かいウエスだった。
グローブも、「これ使うと全然違うから」と言いながら、一緒に選んでくれた。
蒼介はサイクリングが趣味なだけあって、道具のこだわりが強かった。
いくつかのものを比較しながら、「これが一番コスパいい」「これは長持ちする」と
ひとつひとつ説明してくれた。
みおは、言われた通りのものを買い、きれいに包んだ。
「……太秦くんに喜んでもらえたらいいですね」
みおが言うと、蒼介は「分かってる人なら絶対分かるよ」と頷いた。
紙袋を抱えながら、みおは、少しだけ緊張していた。
太秦に直接プレゼントを渡すのは、これが初めてだった。
喜んでもらえるかどうか、自分には判断する自信がなかった。
でも、兄を通して選んだこの贈り物は、自分一人では思いつけなかったものだった。
それだけは、確かだった。
みおは、紙袋を椅子の背もたれにかけて、窓の外を見た。
九月の空は、まだ夏の名残りと秋の気配が混ざって、うまく言葉にできない色をしていた。
放課後、笠置先生のHRが終わるなり、教室の後方に人が集まり始めた。
HRが終わった瞬間、ひなが教室にやってきた。
その動きの速さで、太秦は「あ、今日何かある」と気づいていた。
気づいていたが、特に言わなかった。
こういうとき、太秦はいつもそうだった。
ひなが、大きめのコンビニ袋を机の上に置いた。
「はい、ケーキ持ってきた!」
「コンビニのやつじゃないですか」
太秦が、半笑いで言った。
「そうだよ。コンビニのケーキ、最近おいしいんだよ。文句ある?」
「ないです」
「でしょ」
ひなが、当然のように答えた。
小さなホールケーキが、ケースから取り出されて、机の上に置かれた。
ろうそくが一本立っていた。
「……一本しかないじゃないですか」
「本数合わせるの面倒くさかった」
「面倒くさかったんですか」
「そのまんまの意味」
ひながまったく悪びれずに言うので、太秦も、さやかも、ちょっと笑った。
みおが、静かに紙袋を差し出した。
「……太秦さん、誕生日おめでとうございます。これ、よかったら」
太秦が、袋の中を確認した。
ウエスとグローブを見た瞬間、太秦が、目を丸くした。
「葛城さん、なんでこれが分かるんですか。プロが使うやつですよ」
太秦が、グローブを手に取りながら言った。
「……兄が自転車が好きで、聞きました」
「わぁ、ありがとうございます」
太秦が、少し頭の後ろを掻いた。
照れ隠しではなく、本当に感謝している、という掻き方だった。
「これ、うちの店でも扱ってないやつです。どこで買ったんですか?」
「兄が教えてくれた店で」
「……お兄さん、センスありますね」
太秦が、もう一度、袋の中を見た。
「すごい助かります」
それだけ言って、また少し頭の後ろを掻いた。
みおは、太秦の反応を見て、少し、ほっとした。
お兄ちゃんに頼んで、正解だった。
央が、次に紙袋を差し出した。
「これ、誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。なんだろ」
太秦が、袋の中を覗いた。
スニーカークリーナーのセット品を見て、目が細くなった。
「……おうくん、ちゃんと覚えてるじゃん」
「月一で買ってるって言ってたので、いいやつにしようと思って」
太秦が、セット品を手に取った。
ブラシの感触を確かめるように、親指で撫でた。
「これ、使ったことあるんですか?」
さやかが、横から聞いた。
「ない。でも知ってる。いいやつ」
太秦が、珍しく素直な顔で言った。
「……おうくん、ありがとう」
「どういたしまして」
央が答えると、太秦が少し笑った。
さやかが、折り畳んだ紙を取り出した。
「はい。私からはこれ」
「なんですか?」
「ラーメンの食べ歩きメモ。太秦くんが行ったことないって言ってたお店、この前調べて全部まとめておいた。地図と評価付き」
太秦が、ページを開いた。
丁寧な文字で、店名・最寄り駅・注文すべきメニュー・所要時間がまとめられていた。
付箋も貼ってあった。
さやかの字は、見やすかった。情報の並べ方も、無駄がなかった。
「……さやかさん、すごいな」
「食べ歩きは私の趣味でもあるから。ついでに調べただけ」
「ついでで作る量じゃないですよ」
「そうでもないよ」
さやかが、涼しい顔で言った。
本人は本気でついでのつもりなのだろう、ということが、なんとなく分かった。
それが、さやかという人間だった。
ひなが、もう一枚、小さな箱を取り出した。
「うちからはこれ」
「なんですか?」
「スニーカー写真用の撮影ボード。専用のやつ。どうせ写真撮るでしょ」
「……撮ります」
「でしょ。使って」
ひなが、満足そうに頷いた。
グループLINEの通知が入った。
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ことね:おめでとう! 大きくなってね(先輩風びゅーびゅー)
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太秦が、スマートフォンを見て、少し笑った。
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太秦 :俺、別に小さくないですよ
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ことね:小さいとは言ってないやん
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太秦が、少し止まった。
「……確かに言ってない」
「誕生日に自分で滑ったね」
ひなが、静かに言った。
「うるさいやい」
太秦が、頭の後ろを掻いた。
さやかが小さく笑い、みおも、少し笑った。
「みんな、ありがとう」
太秦が、プレゼントと食べ歩きメモと撮影ボードを眺めながら言った。
机の上に並んだものを、一つずつ見ていった。
スニーカークリーナーのセット、整備用のウエスとグローブ、食べ歩きメモ、撮影ボード。
それぞれが、自分のことをちゃんと知っている人間が選んだもの、だということが分かった。
太秦は、そういうことを、言葉にするのが得意ではなかった。
でも、こういう瞬間に、自分は恵まれているという感覚だけは、いつも、はっきりと分かった。
「……太秦さんって、友達に恵まれていますね」
みおが、ふと、そう言った。
教室の空気が、少しだけ静かになった。
みおがそういう言い方をするのは、珍しかった。
感想というより、観察に近い、静かな言葉だった。
「……葛城さんにそう言ってもらえると、なんか一番うれしいかも」
太秦が、照れ隠しなしで、そのまま言った。
みおは、少し驚いた顔をした。
自分の言葉が、太秦にそのまま受け取られるとは、思っていなかった。
央は、そのやりとりを黙って見ていた。
太秦が「一番うれしい」と言ったのは、おそらく、みおが普段そういう言葉を
言わないからだと思った。
めったに言わない人から言われるから、重みが違う。
そういうことが、太秦には分かるのだろう。
そして同時に、央は別のことも考えていた。
みおが、太秦に対してそういう言葉を言える関係になっている、ということ。
夏休み前の、どこかよそよそしかったみおとは、確かに変わっていた。
その変化を、一番近くで見ていたのは、自分だという気がした。
「太秦くんって、たまにいいこと言うよね」
さやかが、ぽつりと言った。
「さやかさんにそれ言われるの、一番照れるな」
太秦が、笑いながら頭の後ろを掻いた。
「なんで」
「なんとなく」
「理由になってない」
「なってるよ」
ふたりのやりとりが続く中、ひなが央の方に体を向けた。
「ねえ、勢多くんさ、さやかって"たまにいいこと言う"って言うよね」
「……そうですね」
「それって太秦くんが普段いいこと言わないって意味なの? それとも"たまに"が強調なの?」
さやかが、ひなの方を見た。
「そんなこと考えてたの、今」
「急に気になって」
「たまにがちゃんといいから、たまに、って言ってる」
さやかが、静かに答えた。
「……それ、褒め方うまいな」
太秦が、少し素直な顔で言った。
「ありがとう」
さやかが、短く返した。
ひなが、その会話を横で聞いて、小さく笑った。それから、ろうそくを取り出した。
「はい、吹いて」
「歌は?」
「めんどいから省略」
「省略するんですか」
「いいから吹いて」
太秦は、苦笑いしながら、一息でろうそくを消した。
小さな拍手が起きた。
ケーキを切り分けながら、ひなが「ショートケーキって正義だよね」と言い、
さやかが「意見が合う」と返した。
みおは、黙って自分の分を受け取りながら、この教室の空気がなんとなく好きだと思っていた。
央は、自分の皿を持ちながら、窓の外を見た。
もう橙色が混じり始めていた。
夏よりも早く、夕方が来るようになっていた。
教室に、夕方の光が差し込んでいた。
窓の外、空が橙色に染まり始めていた。
教室を出るとき、太秦のスマートフォンが振動した。
父からのLINEだった。
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父 :今夜、うちで夕飯食う?
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太秦は、その一文を見て、少し止まった。
廊下に出たところで、足を止めていた。
「……父ちゃん、誕生日に連絡くれるんだよな。毎年」
独り言のように言った。
央が、横で聞いていた。
「……行けばいいじゃないですか」
太秦が、少しの間、スマートフォンを見ていた。
「……そうするか」
太秦が、短く返信を打ち込んだ。
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太秦 :行く
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既読がついて、すぐに返信が来た。
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父 :おー。待ってるわ
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太秦が、スマートフォンをポケットにしまった。
それだけのやりとりだったが、表情が、少し柔らかくなっていた。
「じゃあな」
太秦が、自転車を引き出して、またがった。
いつものソフトモヒカンが、夕方の風に少し揺れた。
荷台に括りつけたプレゼントの袋が、少し傾いていた。
「誕生日おめでとうございます」
みおが、もう一度言った。
「ありがとうございます」
太秦が、今度は素直に答えた。
頭の後ろを掻くでもなく、少しだけ笑って、ペダルを踏んだ。
自転車が、夕暮れの中に遠ざかっていった。
橙色の空に、細い影が、まっすぐ伸びていった。
九月の夕方が、静かに深まっていった。
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