第七十九話 9月8日 見送る側と、走る側
九月の二週目に入ると、三年生のフロアから、少しずつ人が減り始めた。
部活の三年生は夏で引退しているから、放課後にぼんやり廊下を歩いている顔が、目に見えて少なくなっていた。
図書室の自習スペースには、毎日必ず誰かが座っていた。
参考書と過去問の背表紙が並ぶ様子は、一か月前とは別の空気を作っていた。
二年生の中にも、それを感じ取っている人間はいた。
廊下で三年生とすれ違う機会が、夏前と比べて、明らかに少なくなっていた。
あれだけ顔を合わせていた人たちが、気づくと視界から消えていく。
そういう「いなくなる前の気配」みたいなものを、うまく言葉にはできないまま、二年生たちは少しずつ感じ始めていた。
央が図書室に入ると、宇陀さんがカウンターの内側で、
新着図書のラベル貼りをしていた。
「こんにちは」
央が声をかけると、宇陀さんは手元から顔を上げた。
「こんにちは、勢多くん」
「今日、当番でしたっけ」
「いいえ、来たかっただけです」
宇陀さんが、何でもないことのように言った。
それが宇陀さんらしかった。
理由のない行動に理由をつけないところが、この人の自然な在り方だった。
央は、自習スペースを見渡した。
几帳面に並べられた参考書、書き込みの多いルーズリーフ、シャーペンの走る音。
今日は三年生の顔が多かった。
夏前なら、朔もこの中にいることが多かった。
その中に、比叡朔の姿は、なかった。
央が何も言わないうちに、宇陀さんが静かに口を開いた。
「比叡くんは、受験勉強が忙しいのでしょうね」
央は、少し驚いた顔をした。
「……分かるんですか」
「先週まで、夕方によく来ていましたから」
宇陀さんが、ラベルを一枚貼って、また新しいラベルを手に取った。
「来なくなることが、来ることより大切になる時期というのが、あります」
央は、その言葉の意味を、少し考えた。
来ない、という選択肢を意識的に選んでいる。
そういうことを、宇陀さんはさらっと言った。
「……そうですね」
央が答えると、宇陀さんはまたラベル貼りに戻った。
これ以上話す気はない、という様子ではなく、言いたいことを言い切った、という静かな区切りだった。
央は、自分のための本を一冊取り出して、窓際の席に座った。
ページをめくりながら、今日ここに来なかった朔のことを、少しだけ考えた。
その夜、央は、ことねにLINEを送った。
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央 :受験の準備はどうですか
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返信は、思ったよりすぐに来た。
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ことね:朔くんが計画立ててくれてるから割と動けてる
ことね:うち単独だと無計画すぎる
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央は、その文面を見て、少し笑った。
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央 :朔さんらしいですね
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ことね:だよね~
ことね:ありがたい
ことね:央もみおちゃんも邪魔しないでね!
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央は、少し間を置いてから返信した。
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央 :……邪魔はしていないつもりです
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ことね:してないしてない
ことね:気持ちは伝わってるよ、ちゃんと
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央は、スマートフォンを置いて、しばらくその画面を見ていた。
ことねの言葉の意味を、少し考えた。
「邪魔しないでね」という言葉の中に、半分だけ本気のものが混じっている気がした。
それは、たぶん「朔のことを大事に思っている」という気持ちの、遠回りな表現だった。
央は、もう一度だけ返信した。
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央 :朔さんに、頑張ってください、と伝えてもらえますか
ことね:伝えとく
ことね:ありがとね
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翌日の昼休み、みおも、ことねにLINEを送っていた。
みおは、机で弁当を食べながら、何度かスマートフォンを開いては閉じていた。
何を書こうか、少し迷っていた。
大したことを言えるわけでは、なかった。
受験勉強のアドバイスができるわけでも、参考書を教えてあげられるわけでも、なかった。
そもそも、ことねに何かを言える立場にあるのかどうかも、よく分からなかった。
三年生として、すでに走り始めている人に対して、二年生のみおにできることは、ほとんどないかもしれなかった。
それでも、何か伝えたかった。
「気にしていますよ」ということだけでも、届けばいい。
みおは、結局、短い言葉を送った。
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みお :受験の息抜きになることがあれば言ってください
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しばらくして、ことねから返信が届いた。
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ことね:みおちゃんって優しいな~
ことね:朔くんにも伝えとく
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みおは、その返信を読んで、少し考えた。
何もできないかもしれない。
でも、何かあったときに「言ってください」と言える関係でいたかった。
それだけのことだったが、みおには、それが今できることの全部だった。
……何もできないけど、できることはしたい。
みおは、弁当の蓋を閉めながら、もう一度だけ画面を見た。
ことねの「優しいな」という言葉が、少し照れくさかった。
そのとき、隣の席の央が、ふと声をかけてきた。
「……ことねちゃんと、何か連絡していましたか」
「はい。受験のこと、少し」
みおが答えると、央も頷いた。
「俺も、昨日送りました」
「……そうですか」
ふたりは、少しの間、何も言わなかった。
「……何も、できないですよね」
みおが、静かに言った。
「……そうですね」
央が、正直に答えた。
「でも、気にしている、ということだけは、伝えたくて」
「俺も、同じです」
それだけのやりとりだったが、みおには、それで十分だった。
央が同じように考えていたことが分かって、少し、落ち着いた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、遠くから聞こえた。
放課後、廊下で、央と太秦と、さやかが顔を合わせた。
ちょうど三人とも、別々の方向からこの廊下に出てきた形だった。
太秦が「なんか集まったな」と笑って、自然と立ち止まった。
その日、三年生の廊下の前を通りがかったとき、教室の中が静かなのに気づいていた。
放課後なのに、廊下に出てくる人が少なかった。
それだけで、なんとなく「みんな、頑張ってるんだな」という実感があった。
太秦が、何となく窓の外を見ながら言った。
「3年になったら、俺らも受験か」
央が、少しの間を置いてから答えた。
「……まだ一年以上ありますよ」
「いや、でも考えてみたら早いよな。ことね先輩とか、今年の話だし」
太秦が、どこかぼんやりした調子で言った。
さやかが、太秦の横顔を見て、静かに言った。
「早めに考えといた方がいいよ。太秦くんの場合、特に」
「特に、ってなんですか」
「なんでもない。ほめてない」
さやかが、あっさり言い切った。
太秦が、少し不満そうな顔をした。
「……さやかさん、そういうとこあるよな」
「どういうとこ」
「なんか、言い方に棘があるとこ」
「棘じゃなくて、事実でしょ」
さやかが、また平然と返した。
央は、そのやりとりを聞きながら、少しだけ笑った。
夏前と、何も変わっていないやりとりだった。
でも、その「変わっていない」ことが、今は、少し心地よかった。
「まあでも、ちゃんと考えるよ。受験」
太秦が、気を取り直したように言った。
「何に興味があるんですか」
央が聞いた。
「前にも少し話したけど、スニーカー関係のビジネスとかできたらいいなとは思ってる。ぼんやりだけど」
太秦が、照れくさそうに言った。
「いいじゃないですか」
「央に言われると、なんか本気になっちゃうな」
太秦が、笑いながら頭の後ろを掻いた。
「どうせ本気にするなら、早いほうがいい」
さやかが、また静かに言った。
「……さやかさん、さっきから全部正しいことしか言わないな」
「たまにいいこと言うって太秦くんにだけ言われたくない」
さやかが、少しだけ笑った。
太秦が「笑ったじゃないですか」と言うと、さやかが「笑ってない」と返した。
この三人で廊下に立っているのが、何の変哲もない日常だった。
でも今は、その日常が、少し大切なものに感じられた。
同じ日の夕方、朔は、学校近くの区立図書館の自習室にいた。
学校の図書室は、誰かに話しかけられる確率が高かった。
放課後の今の時期は、静かな自習環境を作りたかった。
区立図書館の自習室は、そういう意味では、選択肢として正しかった。
座席は仕切りで分かれていて、隣に誰かいてもほぼ気にならない。
照明が均一で、夕方になっても暗くならない。
そういう細かいことが、集中の質に影響する、と朔は考えていた。
机の上には、数学の参考書と、英語の長文問題が三枚、開かれていた。
朔は、英語の問題の一つを解き終えて、シャーペンを置いた。
答え合わせをして、間違えた一問のどこが違ったかを確認した。
分からなかったのではなく、読み飛ばしていた。
速度を上げるより正確さを優先するべき箇所だった、と判断して、
解法のメモを余白に書き足した。
窓の外は、夕方の光が傾いていた。
九月に入ってから、日が短くなるのが、少しずつ感じられるようになっていた。
スマートフォンが、静かに振動した。
ことねからのLINEだった。
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ことね:央から「頑張ってください」って伝言
ことね:みおちゃんからも「息抜きになることがあれば言って」って
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朔は、その文面を、少し読んだ。
央とみおから連絡が来ているとは、直接は思っていなかった。
でも、こういう形で届くのは、ことねという人柄らしかった。
自分一人で受け取らずに、共有してしまう。
それがことねの自然なやり方だった。
それを、朔は、悪いとは思わなかった。
むしろ、ことねらしかった。
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ことね:ふたりに何か言い返す?
朔 :……ありがとうと、伝えてください
ことね:了解~
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朔は、スマートフォンをしまって、また英語の問題に向かった。
窓の外の光が、さらに傾いた。
自習室の照明が、少し明るく感じられるようになってきた。
問題を一枚解き終えて、軽く伸びをした。
今年が終わったら。
朔は、なんとなく、その先を考えた。
受験が終わったら、ことねと行きたい場所があった。
具体的な場所が、一つだけ、ずっと頭の中にあった。
以前、ことねがたまたまそこの話をしていたのを聞いて、そこだと決めた。
受験の前に言うつもりは、なかった。
余計なことを考えさせたくなかった。
終わった後に、言えればいい。
それだけのことだったが、その「それだけのこと」が、
今の朔が問題集を開き続けるための、一番手前にある理由だった。
新しい問題用紙を、机の上に広げた。
シャーペンを持ち直して、また問題に向かった。
図書館の自習室は、静かだった。
窓の外で、九月の夕暮れが、ゆっくりと深まっていった。
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