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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第七十八話 9月1日 夏が終わって、続きが始まる


 九月一日。


 二学期の始業式の朝、(おう)は、いつもより少しだけ早く家を出た。


 夏休みの間、ずっと制服を着ていなかったせいか、シャツの襟元の感覚が、わずかに新鮮だった。

 夏の暑さは、まだ完全には引いていなかったが、空気の質が、確かに変わり始めていた。

 朝の光の角度が、八月の頃より、少しだけ斜めになっている気がした。


 通学路を歩きながら、央は、何度か無意識に夏休みのことを思い出していた。

 みおの家を訪ねたこと。水族館に行ったこと。夏祭りの夜のこと。

 その全部が、もう一週間以上前の出来事になっていた。

 それなのに、まるで昨日のことのように、鮮明に思い出せた。


 校門をくぐると、久しぶりに見る制服姿の生徒たちが、あちこちに固まっていた。

 夏休みの間に日に焼けた顔、髪を切った生徒、何も変わらない顔。

 それぞれの夏が、それぞれの形で、姿に表れていた。


 央は、下駄箱で上履きに履き替えながら、廊下の先を見た。


 みおが、そこに立っていた。


 央の姿に気づいて、みおが、こちらを見た。


 一瞬、お互いに、何も言わなかった。


 夏休みの間にあったことが、一気に頭の中をよぎった。

 みおの家でお茶を飲んだこと。水族館の暗い水槽の前で並んで立ったこと。

 夏祭りの夜、人込みの中でつないだ手。花火の下で交わした言葉。

 帰り道、人込みから抱き止めた瞬間。


 そのすべてが、たった一晩で過去になったわけではなかった。

 今、目の前にいるみおの姿の中に、まだ、その全部が残っているような気がした。


「……おはようございます」


 央が、先に言った。


「おはようございます」


 みおが答えた。


 言葉自体は、去年と同じだった。

 一年前、初めて隣の席になった日に交わした言葉と、何も変わらなかった。


 それなのに、今は、まったく違う重さを持っていた。


 ふたりの間に、少しの沈黙があった。

 気まずい沈黙ではなかった。

 むしろ、言葉にしなくても伝わるものがある、という確認に近い沈黙だった。


「……夏休み、お疲れ様でした」


 央が、改めて言った。


「央さんも」


 みおが、小さく笑った。


 その笑い方は、央がよく知っている、みおの笑い方だった。

 でも、夏休み前よりも、少しだけ自然になっている気がした。



「おーい、ふたりとも」


 太秦(うずまさ)の声が、廊下の向こうから聞こえた。


 太秦が、駆け足気味に近づいてきた。


「久しぶり……って、まだ一週間くらいしか経ってないか」


 太秦が、自分で言って、自分で笑った。


 央とみおの顔を交互に見ると、太秦は、何かに気づいたように、わずかに目を細めた。


「……なんか、ふたりとも、夏前と顔が違うな」


 太秦が、軽い調子で言った。


 央が、少し答えに詰まった。


「……そうですか」


「そうだよ。なんていうか……柔らかくなった、っていうか」


 太秦が、それ以上は深く聞かなかった。

 ただ、満足そうに頷いて、自分の教室の方へ歩いていった。


「俺、HR行くわ。また後で」


 太秦が、軽く手を上げて、自分の教室の方へ歩いていった。


 その背中を見送りながら、央は、ふと考えた。

 太秦は、これまでも、央とみおの関係の変化に、何度も気づいてきた。

 夏祭りの夜の「いい顔してる」も、今朝の「顔が違う」も、

 太秦は、いつも誰よりも早く気づいて、そして、深くは追及しなかった。


 それが、太秦という人間の優しさなのだと、央は改めて思った。

 誰よりも軽い調子で接してくるのに、誰よりも正確に、変化を見抜いてくる。

 見抜いた上で、必要以上には踏み込まない。

 その距離感が、央にとっては、ありがたいものだった。



 昇降口の方から、さやかとひなが歩いてきた。


「みお、おはよう」


 さやかが声をかけた。


「おはようございます」


 みおが答えた。


 さやかが、みおの顔を、しげしげと見つめた。


「……なんか、ちゃんと夏した顔してる」


 さやかが、確信を持ったように言った。


「……どういう顔ですか」


 みおが、少し戸惑ったように聞き返した。


「うまく言えないけど。いい意味で」


 さやかが、それ以上は説明しなかった。

 ただ、満足そうな笑みを浮かべていた。


「え、みおに聞いて聞いていい?」


 ひなが、目を輝かせながら、さやかの方を見た。


「だめ」


 さやかが、即座に止めた。


「まだ何も聞いてないのに!」


「顔見れば分かる。聞かなくていい」


 ひなが、不満そうに頬を膨らませた。


「うちだけ仲間外れみたいじゃん」


「仲間外れじゃないよ。察してるだけ」


 さやかが、すました顔で言った。


「察してるなら教えてよ」


「教えない」


「なんで」


「みおが自分で話したくなったときに、聞けばいいから」


 さやかが、あっさりと言った。


 ひなは、それを聞いて、少し黙った。

 不満そうな顔のまま、それでも何か納得したような様子だった。


「……さやか、たまにいいこと言うよね」


「たまにで悪かったね」


 さやかが、軽く笑った。


 みおは、その様子を見ながら、少し苦笑していた。

 ふたりのやりとりは、夏休み前と、何も変わっていなかった。

 その変わらなさが、今は心地よかった。


「ほら、HR始まるよ。行こ」


 さやかが、ひなを彼女の教室へと引かれ歩き出した。


「えー、まだ聞きたいのに」


 ひなが、ぶつぶつ言いながら、それでもついていった。


 みおは、その後ろ姿を見送りながら、小さく息をついた。

 夏休み前と変わらない友人たちの存在が、今は、ありがたかった。



 図書委員のグループLINEには、始業式の朝、いくつかのメッセージが届いていた。


───────────────────────

(けい) :夏休み終わっちゃいましたね

ほのか:夏休み最終日に言わなかったのに今言うの遅い

宇陀(うだ):また、図書室でお待ちしています

───────────────────────


 慧は、登校中、スマートフォンでそのやりとりを見て、思わず笑ってしまった。


「……夏休み最終日に言えって話だよな」


 慧が、独り言のようにつぶやいた。


 隣を歩いていたほのかが、それを聞いて笑った。


「自分で気づいたんだ」


「ほのかに言われて初めて気づいた」


「正直でよろしい」


 ほのかが、満足げに頷いた。


 ふたりは、そのまま、いつものペースで学校へ向かって歩いた。

 夏休みの間に、何度かLINEのやりとりはあったが、こうして直接顔を合わせるのは、

 久しぶりだった。


 ほのかの髪が、夏休み前より少し短くなっていることに、慧は気づいていた。

 言おうかどうか迷って、結局、何も言わなかった。


「……髪、切ったよ」


 代わりに、ほのかの方から聞いてきた。


「えっ」


「だって、さっきからチラチラ見てたから」


「……バレてた」


 慧が、観念したように言った。


「ちょっとだけ切った。気づくの遅い」


 ほのかが、少し得意げに言った。


「気づいてた。言うタイミングを逃しただけ」


「言い訳がましい」


 ほのかが、笑いながら言った。


 慧は、隣を歩くほのかの横顔を、何気なく見た。

 夏休み前と、特に何も変わっていないはずだった。

 でも、見る側の慧の中で、何かが少し変わっていた。


 「幼馴染」という言葉だけでは、収まりきらない何か。

 その正体が何なのか、慧はまだ、はっきりとは分からずにいた。



 ことねと(さく)は、三年生として、別の校舎で始業式に出ていた。


 受験を控えた三年生のフロアには、二年生のフロアとは少し違う緊張感が漂っていた。

 夏期講習を経て、それぞれの表情に、夏前よりも引き締まったものが見えた。


 朔は、隣に立つことねの様子を、横目で見ていた。

 ことねも、夏期講習を通して、少し顔つきが変わったように見えた。

 以前は「無計画すぎる」と自分で言っていたことねが、今は、

 朔が立てた計画表を素直にこなすようになっていた。


 始業式の後、ことねは、廊下で央とすれ違った。


「あ、央」


 ことねが、声をかけた。


「……ことねちゃん」


 央が、少し驚いた顔をした。


「受験始まるけど、夏はよかった」


 ことねが、さらっと言った。


 央は、その言葉の意味を、すぐには完全には掴めなかった。

 でも、ことねの表情を見ていると、それで十分なのだと分かった。


「それは、何よりです」


 央が答えると、ことねが小さく笑った。


「央も、夏、ちゃんと進んだみたいだね」


 ことねが、それだけ言って、朔の方へ戻っていった。


 央は、その後ろ姿を見ながら、少し考えた。

 ことねの言葉の中に、何か、見抜かれているような感覚があった。

 でも、それを気にする必要はないと、すぐに思い直した。

 誰に見抜かれても、困るようなことは、何もなかった。



 2年A組のホームルームでは、担任の笠置(かさぎ)先生が、教壇に立って、いつも以上に張り切った様子を見せていた。


「みんな、夏休みお疲れ様! 二学期もよろしく! 二学期の方が長いから、気合い入れていこうね!」


 笠置先生の声が、教室中に響いた。


 生徒たちの反応は、若干引き気味だった。

 誰かが、小さく「気合いって言われても」とつぶやくのが聞こえた。


「先生、毎回それ言いますよね」


 太秦が、半笑いで言った。


「言うよ! 大事なことだから!」


 笠置先生は、まったくめげる様子もなく、出席を取り始めた。


 名前を呼ぶたびに、誰かが小さく返事をした。

 央の番が来たとき、笠置先生が、一瞬だけ央の顔を見て、何か言いたそうな表情をした。

 でも、結局、何も言わずに、次の名前を呼んだ。


 央は、それに気づいていたが、気にしないことにした。

 笠置先生は、いつも生徒のことをよく見ている先生だった。

 何かに気づいていたとしても、それを今ここで言う人ではなかった。


 央は、その様子を見ながら、何となく安心していた。

 夏休みを挟んでも、変わらないものがある。

 それが、今の自分には、少しありがたく感じられた。



 放課後、央とみおは、いつもの帰り道を、並んで歩いていた。


 校門を出てから、しばらく、ふたりとも何も話さなかった。

 夏の盛りなら蝉の声で埋まっていたはずの道は、今は、ずいぶん静かになっていた。

 代わりに、虫の声が、少しずつ目立ち始めていた。


 空の色も、夏休み前とは違っていた。

 日が沈むのが、少しずつ早くなっているのが、夕方の光の角度から分かった。

 まだ夏の延長のような暑さは残っていたが、確実に、季節は動き始めていた。


「……二学期も、よろしくお願いします」


 央が、先に口を開いた。


「……こちらこそ」


 みおが答えた。


 少し、間があった。


「……夏、楽しかったです」


 みおが、ふと、そう言った。


 央は、その言葉を、すぐには返さなかった。

 夏休みの間にあったことが、もう一度、頭の中を巡った。


「……俺も」


 央が、短く答えた。


 ふたりは、それ以上、特に何も言わなかった。

 でも、それで十分だった。


 夕方の光が、ふたりの長い影を、道に伸ばしていた。

 みおの影は、央の影より、ずっと長かった。

 その差を、央は、もう何度も見てきたはずだったが、今日は、少し違う感じがした。


 長い影が、並んで伸びている。

 それだけのことが、今は、ひどく自然なことのように思えた。


「……来週、また図書委員の仕事ありますよね」


 みおが、話題を変えるように言った。


「ありますね。新しい本のリストが、届くはずです」


「楽しみです」


 みおが言うと、央も小さく頷いた。


 夏休みが終わって、日常が、また始まる。

 でも、その日常は、夏休み前とは、少し違うものになっていた。


 ふたりは、そのまま、いつもの帰り道を、並んで歩き続けた。

 二学期が、始まろうとしていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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