第七十七話 8月27日 夏の、終わりかた
八月の終わりが、近づいていた。
夏休みの残りは、あと一週間ほどだった。
蝉の声は、まだ続いていたが、どこか勢いを失っているように聞こえた。
朝晩の空気には、わずかに、秋の気配が混ざり始めていた。
央は、いつも通り朝五時半に目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗かった。
夏の盛りなら、この時間にはもう明るくなっていたはずだったが、
日の出の時刻も、少しずつ遅くなり始めていた。
階下に降りて、コーヒーミルのハンドルを回した。
豆の砕ける音が、静かな家の中に低く響いた。
ドリッパーに湯を注ぎながら、央は、夏休みのことを思い返していた。
みおの家を訪ねた日のこと。
水族館で、みおが「ここは、好きかもしれないです」と言った横顔。
夏祭りの夜、人込みの中でつないだ手の感触。
花火の光の中で、みおが「わたしも、そうでした」と笑った瞬間。
その全部が、まだ自分の中に、はっきりと残っていた。
庭から、祖父の声がした。
「央、起きてるか」
「はい」
央が、コーヒーカップを手に縁側に出ると、祖父が朝顔の鉢に水をやっていた。
夏の盛りに咲き誇っていた花も、今はもう数えるほどしか残っていなかった。
「今年の夏は、どうだった」
祖父が、何気ない調子で聞いた。
央は、少し考えた。
何から話せばいいのか、すぐには分からなかった。
考えても、結局、簡潔な言葉にしかならなかった。
「……充実していました」
「そうか」
祖父は、それ以上は聞かなかった。
ただ、満足そうに頷いて、また水やりに戻った。
央は、縁側に座って、コーヒーを飲んだ。
祖父の背中越しに見える朝顔が、わずかに揺れていた。
夏が、もう少しで終わる。
そのことを、央は、いつもと違う感覚で受け止めていた。
例年なら、夏休みが終わることに、特別な感慨はなかった。
今年は、何かが違っていた。
名前をつけるなら、それは多分、「もう少し続いてほしい」という気持ちだった。
●
三軒茶屋の葛城家でも、夏の終わりが近づいていた。
みおは、自室で、夏休みの読書記録をまとめていた。
ノートには、読んだ本のタイトルと、短い感想が並んでいた。
例年なら、夏休みの読書記録は、ただの記録に過ぎなかった。
今年は、めくるたびに、その本を読んでいた時の出来事が、一緒によみがえってきた。
ページをめくりながら、みおは、今年の夏にあったことを、一つずつ振り返っていた。
央が家に来た日。
緑茶を入れながら、何を話していいか分からなかったこと。
水族館で、暗い水槽の前で、視線が気にならなかったこと。
夏祭りで、央に手をつないでもらったこと。
花火の光の中で、人込みに押されて、央に抱き止められたこと。
その時のことを思い出すと、今でも、少し顔が熱くなった。
ノートを閉じて、みおは、しばらく天井を見ていた。
「……みお」
部屋のドアの向こうから、蒼介の声がした。
「はい」
みおがドアを開けると、蒼介が立っていた。
明日には、大学の方に戻るらしかった。
帰省も、もう終わりに近づいていた。
夕食のときに、母が「もうそんな時期か」と少し寂しそうに言っていたのを、
みおも思い出していた。
「ちょっと、いいか」
「……どうぞ」
みおが、部屋の入口で蒼介を見た。
蒼介は、部屋には入らず、廊下に立ったままだった。
「この間、言ったよな。また来ていいって」
蒼介が、央のことを言っているのだと、みおはすぐに分かった。
「……言いましたよ」
みおが答えた。
蒼介が、少し間を置いた。
何かを言おうとして、言葉を選んでいるような様子だった。
「……央さん、悪い人じゃないな」
蒼介がそう言って、それだけだった。
みおは、少し驚いた顔をした。
兄が、誰かのことをこういう形で評するのは、珍しいことだった。
特に、みおの周りにいる男子に対しては、これまで一度もなかった。
「……うん」
みおが、小さく頷いた。
蒼介は、それ以上は何も言わずに、自分の部屋に戻っていった。
みおは、ドアを閉めて、机に戻った。
ノートを開き直して、最後のページに、何かを書き足した。
「央さん、悪い人じゃない、と兄が言った」
短い一文だった。
それだけで、十分だった。
●
太秦は、夏休みの短期アルバイトの最終日を迎えていた。
父の自転車店で、夏休みの間、配達や簡単な整備を手伝っていた。
毎年恒例のことだったが、今年は、いつもより楽しく感じる瞬間が多かった。
パンク修理のコツを覚えたり、常連客に名前を覚えてもらったり。
小さなことの積み重ねが、夏の終わりに振り返ると、それなりの厚みになっていた。
最後の仕事を終えて、工具を片付けていると、店のベテランスタッフが声をかけてきた。
「高校生の夏休みって短いな」
その人は、もう何十年もこの店で働いている職人だった。
毎年、夏に手伝いに来る太秦のことを、よく見ていた。
「そうでもなかったですよ、今年は」
太秦が、工具を棚に戻しながら答えた。
「ほう」
ベテランの職人が、少し興味を持ったような顔をした。
「何かあったのか」
「いろいろありました」
太秦は、それ以上は説明しなかった。
央とみおの関係が、夏の間にゆっくりと進んでいったこと。
慧とほのかの距離感に、何かが変わり始めているらしいこと。
ことねと朔が、自然に近づいていく様子を見守っていたこと。
そういうことを、いちいち言葉にする必要はなかった。
太秦は、誰かの恋愛事情を言いふらすような人間ではなかった。
ただ、近くで見て、気づいて、何も言わずに、見守る。
それが、自分なりのやり方だと、太秦は思っていた。
「まあ、いい夏だったならよかったな」
それだけ言って、職人は店の奥に戻っていった。
太秦は、最後にもう一度、工具棚を確認した。
窓の外、夕方の光が、店の前の道を橙色に染めていた。
来週からは、また学校が始まる。
太秦は、軽く伸びをして、エプロンを脱いだ。
●
さやかとひなは、夜、それぞれの自宅から、いつものグループLINEではなく、
ふたりだけのチャットで話していた。
大人数のグループLINEでは話しにくいことが、ふたりの間には、
いくつかあった。
みおの変化のことも、その一つだった。
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ひな :みおの顔、絶対変わったよね
さやか:わかる。でも聞かない
ひな :さやか、聞かないのえらいね
さやか:わかってるから聞かなくていい
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さやかは、スマートフォンを見ながら、少し笑った。
みおが、夏祭りの夜、何か変わったことには、もちろん気づいていた。
央との間に、何かが進んだのだろうということも、なんとなく察していた。
でも、それを本人の口から聞くまでは、確かめる必要はなかった。
みおが話したくなったときに、ちゃんと聞く。
それで十分だった。
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ひな :うちもさやかみたいになりたい
さやか:何が
ひな :察してても黙っとける感じ
さやか:ひなはひなのままでいいよ
ひな :それは励ましなの?
さやか:半分は
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ひなが、笑いのスタンプを送った。
さやかも、軽く笑いながら、同じスタンプを返した。
ふたりの会話は、それからしばらく、夏休みの宿題の進捗や、新学期の制服のことなど、
何気ない話題に移っていった。
それでも、最後にひなが、もう一通だけ送った。
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ひな :みおが幸せそうなら、それでいいよね
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さやかは、その一文に、しばらく返信を打てずにいた。
やがて、短く返した。
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さやか:うん。それでいい
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ことねは、自室で、参考書を広げていた。
受験勉強は、夏休みに入ってから、本格的に始まっていた。
模試の結果が、思っていたより悪くて、少し焦りを感じていた。
数学の問題集を開いたまま、しばらく手が止まっていた。
解法は分かっているはずなのに、計算の途中で、何度も同じところで詰まった。
集中力が切れたところで、スマートフォンを手に取って、朔にLINEを送った。
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ことね:夏休みが終わるの寂しい
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送ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、消す前に、既読がついた。
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朔 :終わっても、続きますよ
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ことねは、その短い返事を、何度か読み返した。
夏祭りの夜、花火の下で交わした会話を思い出した。
りんご飴を受け取るときに触れた指先のことも。
あの夜から、朔との距離が、確かに変わった気がしていた。
ことねは、スタンプをいくつか連続で送った。
笑っているクマのスタンプ、ハートのスタンプ、サムズアップのスタンプ。
しばらくして、朔から返信が来た。
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朔 :……スタンプ、多いです
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ことねは、声を出して笑った。
部屋の中、誰もいないのに、笑い声が響いた。
窓の外では、夏の終わりの虫の声が、静かに鳴き始めていた。
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同じ夜、放出家でも、夏休みの終わりが静かに過ぎようとしていた。
慧は、自室で、夏祭りの写真を見返していた。
ほのかが撮ってグループLINEに送ってきたものだった。
九人で撮った集合写真の中に、自分とほのかが並んで写っている一枚があった。
何気ない一枚だったが、慧は、その写真を、しばらく眺めていた。
ほのかからLINEが届いた。
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ほのか:夏休み終わるね
ほのか:けいくん、宿題終わった?
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慧は、苦笑いしながら返信を打った。
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慧 :まだ半分くらい
ほのか:は? あと一週間しかないよ
慧 :分かってる
ほのか:明日見せて。手伝うから
慧 :……ありがとう
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慧は、画面を見ながら、少し考えた。
夏祭りの夜、ほのかが太秦に「付き合ってんの?」と聞かれていたことを思い出していた。
あのとき、ほのかは「幼馴染です」と答えた。
それは事実だったし、間違ってはいなかった。
でも、慧の中では、その言葉だけでは収まりきらない何かが、
少しずつ大きくなっているのを感じていた。
幼馴染という言葉に、何かもう一つ、付け加えたい気持ちがあった。
それが何なのか、慧自身、まだうまく言葉にできずにいた。
スマートフォンを置いて、慧は、夏祭りの写真をもう一度見た。
ほのかの浴衣姿が、画面の中で、笑っていた。
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央は、その日の夜、部屋の机に向かいながら、スマートフォンを手に取った。
みおに何を送ろうか、少し迷った。
迷うこと自体、以前はあまりなかったことだった。
結局、ありのままの気持ちを、そのまま文字にすることにした。
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央 :夏休み、もうすぐ終わりますね
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送信してから、少し待った。
既読はすぐについたが、返信までには、少し間があった。
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みお :そうですね
みお :早かったような、長かったような
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央は、その言葉に、頷くように画面を見つめた。
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央 :俺も、同じです
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また、少しの間があった。
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みお :来年も、同じくらい充実してたらいいですね
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央は、その一文を、何度か読み返した。
来年、という言葉の中に、何かが含まれている気がした。
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央 :はい
央 :そうなるように、します
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みおから、笑顔のスタンプが届いた。
央は、スマートフォンを置いて、窓の外を見た。
夜空には、星が、いくつか見えていた。
夏の盛りには見えなかった、澄んだ空気の星だった。
夏が、もうすぐ終わる。
でも、何かが終わるという感覚ではなかった。
むしろ、何かが、まだ続いていくという感覚の方が強かった。
明日からの一週間で、夏休みの宿題を仕上げなければならなかった。
そんな現実的なことを考えながらも、央の頭の中には、
みおとのやりとりの一言一言が、まだ温かく残っていた。
央は、そのまま、しばらく窓の外を見ていた。
夏の夜風が、わずかに涼しさを帯び始めていた。
遠くで、最後の蝉が、一匹だけ鳴いていた。
ご一読いただきありがとうございます。
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