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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第七十六話 8月26日 花火と、言えたこと


 花火が始まるという案内放送が、祭りの会場に流れた。


 アナウンスの声は、人混みのざわめきに半分かき消されながらも、

 はっきりと「まもなく」という言葉だけは聞き取れた。


 九人は、それぞれ散らばっていた場所から、自然と一つの方向へ集まり始めていた。

 神社の境内から戻った(おう)とみおも、同じ流れに加わった。


 境内から参道に戻ると、空気が一段と濃くなっていた。

 人の数が、来たときよりも明らかに増えていた。

 屋台の灯りと提灯の灯りが、夜の中でいっそう鮮やかに見えた。


「みんな、集まってきてる」


 みおが、人の流れを見ながら言った。


「行きましょう」


 央が頷いた。


 ふたりは、人の流れに逆らわないように、ゆっくりと歩き始めた。

 みおの背丈は、こういう人混みの中では、かえって目立った。

 通りすがりの何人かが、みおを見て、また視線を逸らした。

 みおは、それに気づいているのかいないのか、央の方だけを見ていた。



 会場の外れ、川沿いの土手が、花火を見るための場所として開けていた。


 すでに多くの人が、シートを広げて座っていた。

 子供を連れた家族、カップル、友人同士のグループ。

 土手の斜面いっぱいに、人の影が並んでいた。


 九人は、その隅の方に、辛うじて立てる場所を見つけた。


「ここでいいか」


 太秦(うずまさ)が周りを見回して言った。


「うん、十分見える」


 ひなが頷いた。


 川面が、対岸の灯りを反射して、細かく揺れていた。

 川風が、昼間の熱気をわずかに冷ましていた。

 遠くで、太鼓の音が、まだ続いていた。


 人込みは、思っていたより激しかった。

 押し合うほどではなかったが、誰かとぶつかりそうになる距離だった。


「はぐれないようにね」


 さやかが、もう何度目かの言葉を言った。


「分かってるって」


 太秦が答えた。


 (けい)とほのかが並んで、人の隙間を縫うように移動してきた。

 ことねと(さく)も、少し遅れて合流した。


 九人が、ようやく一つの場所に揃った。

 空はもう、すっかり暗くなっていた。

 星はほとんど見えなかったが、それを気にする者はいなかった。

 みんなの視線は、すでに花火の上がるはずの方角に向いていた。



 央とみおは、列の端の方に並んで立っていた。


 人の流れが、まだ落ち着かなかった。

 誰かが横を通るたびに、ふたりの距離が、少しずつ詰まっていった。


 みおが、自分の身体を縮めるようにして、人の流れを避けようとしていた。

 長身であることは、こういう場所では、避けようがない不利になった。

 央は、それを横目で見ながら、何も言わなかった。

 ただ、自分の立ち位置を、少しだけみおの外側に寄せた。


 央が、ふと隣を見た。

 みおが、人込みに押されて、少しよろめいていた。


「……っ」


 みおが小さく声を漏らした。


 央が、反射的に手を伸ばした。

 みおの手を、自然な形でつかんでいた。


「……すみません」


 央が言った。


「……いえ」


 みおが答えた。


 手は、そのままだった。

 どちらも、放そうとはしなかった。


 名目としては、はぐれないように、というだけのことだった。

 それだけのことだったが、ふたりとも、それだけではないことを、分かっていた。


 みおの手は、央の手より少しだけ大きかった。

 指の長さも、少し違った。

 その違いを、央は今、はっきりと感じていた。



「一発目、上がるよ!」


 ひなの声が、少し先から聞こえた。

 ひなが、スマートフォンを構えながら、それでも今は撮影せずに、空を見上げていた。


「珍しいね、ひなが写真撮らないの」


 さやかが小さく言った。


「今は、ちゃんと見たいから」


 ひなが答えた。


 空に、最初の光が打ち上がった。


 ドン、という音が、少し遅れて土手まで届いた。

 大きな花が、夜空いっぱいに開いた。


 続けて、もう一発。

 また、もう一発。


 歓声が、あちこちから上がった。


 央とみおは、空を見上げていた。

 手は、まだつながったままだった。


 みおが、少し指を握り返した。


 央が、それに気づいて、握り返す力を少しだけ強めた。

 何も言わなかった。

 言わなくても、伝わっていた。



 花火の光が、何度も夜空を染めた。


 光が瞬くたびに、みおの横顔が、明るくなったり、暗くなったりした。

 央は、花火よりも、その横顔を見ている時間の方が長かった。


 大輪の花が開くたび、土手のあちこちから「わあ」という声が上がった。

 子供たちの歓声、カップルの笑い声、誰かのカメラのシャッター音。

 その全部が、央の耳の中では、少し遠くのことのように聞こえていた。


 央の意識は、ほとんど、隣にいるみおの存在だけに向いていた。

 つないだ手の温度、肩が触れそうになる距離、息をする間隔。

 そういうものの一つひとつが、いつもより鮮明に感じられた。


「……央さん」


 みおが、花火を見上げたまま言った。


「……はい」


「去年の花火のとき、何を考えていましたか」


 央が、少し止まった。


 去年の花火大会のことを、思い出していた。

 あの夜、まだ央とみおは、図書委員として顔を合わせる程度の関係だった。

 それでも、隣に立つみおの姿を見上げながら、よく分からない何かが、

 自分の中に生まれた気がしていた。

 帰り道、その正体について、ずっと考えていたことを覚えていた。

 考えても、名前のつけようがないまま、夏が終わっていった。


「……よく分からないことがある、と思っていました」


 央が、正直に答えた。


 みおが、少し笑った。


「……わたしも、そうでした」


 その一言に、央は、何かが繋がったような感覚を覚えた。

 あの夜、自分だけが何かを抱えていたわけではなかった。

 みおもまた、同じように、何かを持て余していたのだった。


 花火が、また一発、上がった。

 光が、ふたりの顔を、同時に照らした。


 みおが、央の方を見た。

 央も、みおの方を見た。


 言葉は、それ以上なかった。

 なくても、十分だった。


 ふたりは、少しだけ近い距離で、並んで立っていた。

 手は、つながったままだった。


 花火が、夜空を埋め尽くしていくのを、ふたりはただ見ていた。



 花火が終わると、人波が一斉に動き出した。


 最後の一発が消えてからわずか数秒で、土手の人々が、一斉に帰り支度を始めた。

 シートを畳む音、子供を呼ぶ声、傘を持っているらしい誰かの「忘れ物ない?」という声。

 さっきまで空を見上げていた人々が、今度は一斉に同じ方向へ歩き出していた。


 帰路につく人々で、出口付近は、来たとき以上に混雑していた。


 九人は、なんとか固まって歩こうとしたが、人の流れに押されて、少しずつばらけていった。


「離れないで!」


 さやかの声が、人混みの向こうから聞こえた。


 央とみおは、まだ手をつないでいた。

 その手のおかげで、お互いを見失わずにいられた。


 出口に近づくにつれて、人の密度が、さらに増していった。

 狭い参道に、何千人もの人間が、同時に押し寄せているような圧迫感だった。


 央は、自分の身体を、できるだけみおの盾になるような位置に置いていた。

 無意識のうちに、そうしていた。


 その時だった。


 横から来た人の流れに押されて、みおの身体が、大きく傾いた。


「……っ」


 みおが、バランスを崩した。


 央が、反射的に、もう一方の手も伸ばした。

 みおの身体を、引き寄せる形で、抱き止めていた。


 一瞬、周りの音が、遠くなった気がした。


 みおの胸のあたりが、央の肩のすぐ近くにあった。

 央の身長では、みおを正面から受け止めると、どうしてもそうなった。

 いつもなら、見上げる側の央が、今は、すぐ近くで見下ろされる形になっていた。

 その違いが、不思議な感覚だった。


 みおは、動かなかった。

 央も、動かなかった。


 数秒、そのままだった。

 人込みの喧騒が、すぐそばを通り過ぎていくのに、ふたりだけが、その流れから外れたところにいるようだった。


 央が、少しだけ腕を緩めた。


「……すみません」


 央が言った。

 声が、少し掠れていた。


「……いいです」


 みおが答えた。


 その声も、いつもより少し、小さかった。


 どちらも、すぐには動き出さなかった。

 人込みが、ふたりの周りを、何事もなかったように流れていった。

 誰も、ふたりのことなど気にしていなかった。

 その匿名性が、かえって、ふたりだけの時間を作っているようだった。


 しばらくして、みおが、自分の足で立ち直った。

 央が、つないだ手を、改めて確かめるように、少し力を込めた。


 ふたりは、何も言わずに、歩き始めた。

 言葉はなかったが、さっきまでとは、何かが違っていた。

 手のひらの感触が、確かなものとして、ふたりの間に残っていた。



 一方、ことねと朔も、人波の中を歩いていた。


 花火が上がる少し前、ふたりは九人の輪から自然に少し離れた位置取りになっていた。

 誰かが仕組んだわけではなく、気づけばそうなっていた。


 花火が上がっている間、ふたりは少し離れた場所から、同じ夜空を見上げていた。


「……朔くんって、花火好き?」


 ことねが、花火の光を見ながら聞いた。


「好きです。今は、特に」


 朔が答えた。


 ことねが、少し赤くなった。


「なんか、言い方ずるいね」


 朔が、静かに笑った。


「……そうですか」


 ことねが、少しだけ朔の方に寄った。

 腕に、軽く触れる形になった。


 朔は、何も言わなかった。

 ことねも、それ以上は何も言わなかった。


 ふたりは、そのまま、花火が終わるまで、並んで空を見上げていた。



 九人が、なんとか会場の外れで再合流した。


 誰も、はぐれずに済んでいた。

 全員がそこに揃っているのを確認して、さやかが大きく息をついた。


「……みんなどうだった」


 さやかが、少し疲れた様子で聞いた。


「楽しかった!」


 ひなが、真っ先に答えた。


「人多すぎ。腹減った」


 太秦が、伸びをしながら言った。


「あんだけ食べたのにまだ食べるの」


 さやかが呆れたように言った。


「祭りの食い物は別腹」


 太秦が真顔で答えると、慧が小さく笑った。


 ひなが、みおの方を見た。

 みおの表情を、少しの間、見ていた。


 何かに気づいたような顔をしたが、何も言わなかった。

 代わりに、みおの浴衣の袖を、少しだけ整えるように触れた。


 みおが「……ありがとう」と小さく言った。

 ひなは、それだけで満足そうだった。


 太秦が、央の顔を見た。


「……なんか、おうくん、いい顔してる」


「……そうですか」


 央が答えた。


「そうだよ」


 太秦が、それ以上は何も言わずに、笑った。

 何かを聞き出そうとはしなかった。

 それが太秦らしさだということを、央はよく知っていた。


 慧とほのかは、わたあめの残りを分け合っていた。


「ほのか、口の周り、ついてるよ」


 慧が言った。


「えっ、どこ」


 ほのかが慌てて手で拭おうとした。


「……反対」


 慧が、笑いながら言った。


「もう、教えてよ最初から」


 ほのかが、少しむくれながら、自分で拭った。

 慧が、それを見て、また笑った。


 ふたりのやりとりは、いつもと変わらなかった。

 変わらないことが、今は、少しだけ心地よかった。


 ことねが、朔の隣で、少し満足げな顔をしていた。

 朔は、いつも通り、静かな表情のままだった。


 九人は、それぞれの夜の続きを抱えながら、駅へ向かって歩き始めた。


 帰り道は、行きよりも人がまばらだった。

 花火が終わったあとの祭りの会場は、急速に静けさを取り戻しつつあった。

 屋台の灯りが、少しずつ消えていくのが、振り返ると見えた。


 駅までの道のりは、それほど長くなかった。

 だが、その短い時間の中で、九人はそれぞれの組み合わせで、何気ない会話を交わしながら歩いた。


 さやかとひなは、写真を見返しながら、今日撮った中で一番いい一枚を選んでいた。

 太秦と慧とほのかは、明日の予定について話していた。

 ことねと朔は、特に何も話さず、ただ並んで歩いていた。


 央とみおは、少し後ろを歩いていた。


 駅の改札が見えてきたところで、みおが、つないだままの手を、少しだけ持ち上げた。


「……今日、楽しかったです」


 みおが言った。


「……俺もです」


 央が答えた。


 駅の灯りが、ふたりの顔を、明るく照らしていた。

 改札の手前で、自然と手が離れた。

 離れても、その温度は、まだしばらく残っているような気がした。


 夏の夜が、ゆっくりと、終わっていこうとしていた。

 提灯の明かりが、遠ざかっていく背中を、しばらく照らしていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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