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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第七十二話 8月6日 玄関先の、礼儀


 八月最初の週末だった。


 (おう)は朝、いつもより少し早く目が覚めた。

 いつもの五時半より、さらに十五分ほど前だった。

 理由は分かっていた。

 今日が、その日だったからだった。


 窓の外は、もうすっかり夏の光だった。

 蝉の声が、朝から大きかった。


 階下に下りて、珈琲を淹れた。

 いつもの手順だった。

 手順をいつも通りにすることで、何か別のものを整えようとしている気がした。


 祖父が縁側に出てきて、央の様子を見た。


「今日だったか」


「はい」


 央が湯気を見ながら答えた。


「緊張してるのか」


「……分かりません」


「分からないのに、十五分早く起きたのか」


 央が少し止まった。


「……そうかもしれません」


 祖父が小さく笑った。

 珈琲を一口飲んで、それ以上は何も言わなかった。

 央もそれ以上、何も言わなかった。

 言わなくても、伝わっている気がした。



 午前中、央は太秦(うずまさ)に電話をかけた。


「もしもし」


「もしもし。今いいですか」


「いいよ、何」


 央が少し、言葉を選んだ。


「今日、葛城(かつらぎ)さんの家に行くんですが」


「ああ、ついに」


 太秦の声が少し弾んだ。


「手土産は、何がいいと思いますか」


 電話の向こうで、太秦が少し笑った気配があった。


「普通に和菓子でしょ。でもおうくんのことだから、絶対悩みすぎる」


「……悩んでます」


「知ってる」


 太秦がそう言って、また笑った。


「葛城さん本人にあげるんじゃなくて、家族へのものなんでしょ? だったら無難な詰め合わせでいいんじゃない」


「無難すぎても、失礼な気がして」


「考えすぎ」


 太秦が即答した。


「いや、おうくんなら考えすぎた結果、ちょうどいいところに落ち着くと思う。とりあえず店行ってみたら」


 央が少し、頷いた。

 電話越しなので、太秦には見えなかった。


「ありがとうございます」


「がんばれ」


 太秦がそう言って、電話を切った。


 央はスマートフォンを見たまま、少し立っていた。

 がんばれ、という言葉が、何に対する言葉なのか、央は少し考えた。

 考えても、はっきりした答えは出なかった。

 でも、嫌な感じではなかった。



 昼前、央は梅晴堂に向かった。


 商店街の一角にある、小さな和菓子店だった。

 みおがいつも「行列の読みが正確」だと言っている店だった。

 央自身も、この店には何度か来ている。

 みおへの誕生日のプレゼントを選んだ店でもあった。


 暖簾をくぐると、店主が顔を上げた。


「いらっしゃい。……ああ、たまに来てくれる学生さんだ」


「お世話になっています」


 央が頭を下げた。


「今日は何にしましょうか」


 央が少し、考えた。


「……家族の方への、手土産を探しています」


 店主が少し、目を細めた。


「ご家族へ。それなら、これなんかどうですか」


 店主が示したのは、季節の上生菓子を含む詰め合わせだった。


「日持ちもしますし、味の好みが分かれにくい構成にしてあります」


 央が箱を見た。


(……みおが好きなものとは、別の方がいい)


 央は思った。

 みおが好きなものを買うと、これはみおへのプレゼントのように見えてしまう気がした。

 今日は、そうではなかった。

 家族への、礎としての手土産だった。


「これにします」


 央が言った。


 店主が箱を包みながら、ふと言った。


「……前にここで、お嬢さんへのプレゼントを選んでいた人だよね」


 央が少し、止まった。


「……はい」


「うまくいってるみたいで、よかったよ」


 店主がそれだけ言って、包み終えた箱を渡した。

 央は何も答えられなかった。

 答えられないまま、礼を言って店を出た。


 外に出て、少し歩いてから、央は箱を見た。

 店主の言葉が、まだ少し残っていた。


(……うまくいってる、か)


 その言葉を、自分のことのように受け止めていいのかどうか、央には分からなかった。

 分からないまま、箱を持って歩いた。



 午後、央は三軒茶屋に向かった。


 みおの家の最寄り駅だ。

 電車の中で、央は時刻を何度も確認した。

 約束は午後二時だった。

 駅に着いたのは、一時四十分だった。


 駅から歩いて、家の近くまで来たとき、時計はまだ一時五十分だった。


(……早すぎる)


 央は思った。

 早く着くことは、礎として悪いことではない。

 でも、早すぎることは、相手の準備に対して気を遣わせることになる。

 祖父からそう教わったことがあった。


 央はその場で、少し時間を潰すことにした。

 近くの自動販売機の前で、何もせず五分ほど経った。

 時計を見た。

 一時五十五分だった。


 ちょうどいい時間だと思う。


 央は家の前まで歩いた。

 表札に「葛城」とあった。

 小さな庭があり、玄関先に自転車が二台置いてあった。


 央は呼び鈴の前で、少し息を整えた。

 腕時計を一度、撫でた。

 それから、呼び鈴を押した。



 ドアが開いたのは、思ったより早かった。


「……勢多(せた)央です。みおさんと同じクラスです。お邪魔します」


 央が頭を下げた。


 顔を上げると、玄関先に立っていたのは、みおより少し低い、しかし十分に背の高い男性だった。

 央はその人物が誰かを、すぐに理解した。


「葛城蒼介(そうすけ)です。みおの兄です」


 蒼介が言った。

 穏やかな声だったが、央を見る目には、何かを測るような色があった。


 央はその視線を、避けなかった。


「お世話になります。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 蒼介が少し、目を細めた。


「……まあ、上がってよ」


 それだけ言って、蒼介が玄関から半身を引いた。

 央が靴を脱いで、家の中に入った。


 蒼介の表情が、その一瞬だけ「……まあ」というものに変わったことに、央は気づかなかった。

 気づかなくてよかった、ということでもあった。



 リビングに通されると、みおの母が出てきた。


「あら、いらっしゃい。みおから話は聞いていましたよ。上がってください」


「お邪魔します。勢多央です」


 央が箱を差し出した。


「これ、よろしければ」


「あら、ご丁寧に。ありがとうございます」


 みおの母が笑顔で受け取った。


「お茶を用意しますね。みお、お客様よ」


 声がかかった先で、台所からみおが出てきた。


「……央さん、いらっしゃい」


 みおが少し、頭を下げた。


「お邪魔します」


 央が返した。


 みおがいつもより、少し落ち着かない様子だった。

 手の位置が、定まっていなかった。

 央はそれに気づいたが、何も言わなかった。


 蒼介がソファに腰を下ろして、央の方を見た。


「どうぞ、座って」


「……失礼します」


 央が座った。

 リビングのソファだった。

 央は「部屋はまずい」と判断していた。

 みおの部屋に入ることは、今日の訪問の趣旨からは外れている。

 最初からリビングで過ごす想定でいた。



 みおが緑茶を入れて持ってきた。


「……どうぞ」


「ありがとうございます」


 央が受け取った。


 蒼介が向かいの席に座って、何も言わず央を見ていた。

 みおが少し、緊張した様子で央の隣に座った。

 隣、と言ってもソファの端と端だったが、それでも隣だった。


 最初の数分は、静かだった。


 みおの母が、お茶菓子を持ってきた。


「これ、央さんがお持ちくださったものですよ。早速いただきましょう」


 母がそう言って、箱を開けた。

 梅晴堂の上生菓子が、丁寧に並んでいた。


「あら、こちら、上品な見た目」


 母が言った。

 みおが箱を見て、少し、口元を動かした。


「……梅晴堂のですね」


「はい」


「……分かるの、見ただけで」


 みおの母が聞いた。


「箱の形で、だいたい分かります。何度か買っているので」


 蒼介が黙ってそれを聞いていた。

 聞いていたが、口を挟まなかった。



 会話は、少しずつ自然になっていった。


 読書の話になった。


「央さんは、最近どんな本を読んでいますか」


 みおの母が聞いた。


「歴史の補足本を読んでいます。授業より少し先の範囲です」


「真面目ね」


「……読むのが好きなだけです」


 蒼介がそこで、初めて言葉を挟んだ。


「図書委員、だっけ」


「はい」


「みおと同じ」


「はい」


 蒼介が少し、みおを見た。

 みおは緑茶を見ていた。


「……みおが本好きなのは、知ってる?」


「知っています」


 央が答えた。


「ミステリーとSFを、よく読んでいると聞いています」


 蒼介が少し、意外そうな顔をした。


「……そこまで知ってるんだ」


「図書委員なので、自然と話す機会があります」


 央がそう言った。

 言いながら、央自身も、自分がみおについて知っていることの量に、少し気づいた。

 知っていることが、自然に増えていた。

 いつの間にか、というほど自然だった。



 夏休みの話になった。


「央さんは、夏休みどんな風に過ごしてますか」


 みおの母が聞いた。


「祖父と過ごす時間が多いです。あと、読書です」


「お祖父さんとご一緒なんですね」


「父方の祖父が同居しています」


「そうなんですね」


 みおの母がそう言って、少し頷いた。


 蒼介が、ふと言った。


「俺も、帰省してると親戚づきあいが多くなる。今日も午前中、別の予定だった」


「みおさんから伺っています」


 央が答えた。


「日帰りで行かれたそうですね」


「ああ、うん」


 蒼介が少し、央を見た。


「……みおから、結構いろいろ聞いてるんだな」


 央が少し止まった。


「……すみません、込み入った話だったでしょうか」


「いや、別に。普通の会話の範囲でしょ」


 蒼介がそう言って、湯呑みに口をつけた。

 言葉の中に、少しだけ柔らかさが混じっていたが、それを誰も指摘しなかった。



 みおが緑茶のお代わりを持ってきた。


「……お代わり、どうぞ」


「ありがとうございます」


 央が受け取った。


 みおが座り直して、少し言った。


「……家に来てもらうの、初めてですね」


 央が少し、湯呑みを見た。


「緊張しましたか」


「……しました」


 みおが少し、目を伏せた。


「でも、来てもらえてよかった」


 央が少し、口元を動かした。

 返す言葉を、いくつか考えた。

 結局、ひとつだけ言った。


「……俺も、よかったです」


 それだけだった。

 蒼介がその様子を、少し見ていた。

 何も言わなかった。

 言わないことが、その場では正しいことのように思えた。



 二時間ほどが過ぎて、央は帰る時間になった。


「そろそろ失礼します」


 央が立ち上がった。


「あら、もうそんな時間。来てくれてありがとうございました」


 みおの母が言った。


「ありがとうございました。お邪魔しました」


 央が頭を下げた。


 玄関先まで、みおの母とみおが見送りに来た。

 蒼介も、少し遅れて玄関に出てきた。


 央が靴を履いて、もう一度頭を下げた。


「本日はありがとうございました。ご家族の皆様に、よろしくお伝えください」


 みおの母が「また来てくださいね」と笑った。


 蒼介が、玄関の柱に少しもたれながら、央を見ていた。


「……央さん」


 央が顔を上げた。


 蒼介が、少し間を置いた。


「……また来てください」


 それだけだった。

 多くの言葉が、その一言の中に圧縮されているような気がした。


「……ありがとうございます」


 央が答えた。


 みおが、その短いやりとりを、少し驚いた顔で見ていた。

 蒼介がそんな言い方をするのを、初めて聞いたような表情だった。


 央が外に出て、もう一度頭を下げた。

 ドアが閉まる前に、みおの「気をつけて」という声が聞こえた。


「……はい」


 央が答えた。

 ドアが閉まった。



 央は駅まで歩きながら、少し空を見上げた。


 夏の午後の光が、まだ強かった。


(……また来ていい)


 蒼介の言葉を、央は何度か繰り返した。

 言葉自体は短かったが、その短さの中に、何かが許された感覚があった。


 太秦に、後で報告しようと思った。

 報告すれば、太秦は「で?」とすぐに聞いてくるだろう。

 央は、その「で?」に何を答えるか、まだ考えていなかった。


 でも、悪い一日ではなかった。


 央は腕時計を一度撫でて、駅へ向かう道を歩き続けた。


 蝉の声が、まだ続いていた。

 夏の午後が、ゆっくりと過ぎていった。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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