第七十一話 7月26日 夏休みの、それぞれ
夏休みに入って、一週間が経っていた。
七月二十六日。
央は朝五時半に起きた。
いつもの時間だった。
夏休みでも、その時間は変わらなかった。
カーテンを開けると、外はまだ薄明るい程度だった。
空気の匂いが、もう夏のものになっていた。
草と、土と、少し湿った何かの匂いが混じっていた。
階下に下りて、ドリッパーを用意した。
豆を量る。
ミルを回す。
いつもの音が、静かな家の中に低く響いた。
祖父はすでに縁側に出ていた。
新聞を広げている。
央が珈琲を二つ淹れて、ひとつを縁側に持っていった。
「ありがとう」
祖父が新聞から目を上げずに言った。
央が縁側に座った。
祖父の隣だった。
ふたりで珈琲を飲む時間は、夏休みになると少し長くなる。
学校がある日は、央が出る時間が決まっているからだった。
庭の木で、蝉が鳴いていた。
今年最初に鳴いた蝉の声を、央は覚えていなかった。
いつからか鳴いていた。
それだけだった。
「……今年の夏は」
祖父が言った。
新聞をめくる手を止めずに。
「少し違うか」
央が少し、湯気を見た。
「……どう違うか、まだ言葉にできていません」
「そうか」
祖父がそれだけ言って、新聞をめくった。
話はそこで終わった。
終わったが、終わっていない感じがした。
央は珈琲を飲んだ。
少し、苦かった。
いつもと同じ豆だった。
苦さは変わっていないはずだった。
(……何かが、少し違う)
央は思った。
何が違うのかを、考えようとした。
考えてみたが、すぐには言葉にならなかった。
ただ、最近のことを思い出した。
みおから届くLINEのことだった。
以前は、図書委員の用件か、何かの確認だった。
最近は、それだけではないものが増えていた。
「今日は何を読みましたか」というような、用件のない言葉。
央もそれに、用件のない返信をするようになっていた。
それが、いつからか自然になっていた。
いつからか、を央は思い出せなかった。
いつからか自然になっていた、ということ自体が、
央にとっては少し新しい気づきだった。
縁側に、朝の光が伸びてきていた。
祖父が「今日は暑くなるな」と言った。
央が「そうですね」と答えた。
珈琲を飲み終えて、央は本を読み始めた。
夏休みの読書計画の最初の一冊だった。
歴史の補足として読みたかった本だった。
読み始めて少し経って、スマートフォンが鳴った。
みおからだった。
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みお:おはようございます
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央が画面を見た。
時計を確認した。
まだ六時を少し過ぎたところだった。
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央 :おはようございます
央 :早いですね
みお:兄が早朝に出かけるので、見送りました
央 :お兄さんは、もう帰省を終えたんですか
みお:今日は日帰りで親戚のところに行くだけです
みお:また数日したら戻ってくると思います
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央が少し、画面を見た。
───────────────────────
央 :そうですか
みお:央さんは、もう本を読んでいますか
央 :はい
央 :朝に読むのがちょうどいいので
みお:何の本ですか
央 :歴史の補足です
央 :少し先取りで読んでいます
みお:……夏休みの初日に、と思っていましたが
みお:もう一週間経っているので、今は普通の読書ですね
央 :そうですね
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央が少し、口元を動かした。
それだけだった。
画面を見たまま、少し止まった。
LINEのやりとりは、それで一旦終わった。
みおが朝の家事に向かったらしかった。
央もスマートフォンを置いて、本に戻った。
縁側の光が、少しずつ強くなっていった。
蝉の声が、少しずつ増えていった。
(今年は、こうなっている)
去年の夏、こんなふうにLINEのやりとりが始まっていた。
今年は、それが当たり前のようにある。
当たり前という言葉が、央の中で少し引っかかった。
誰かから聞いた言葉のような気がしたが、思い出せなかった。
思い出せないまま、央は本のページを進めた。
●
三軒茶屋の葛城家では、みおが台所に立っていた。
兄を見送ったあと、朝食の片付けをしていた。
母はまだ寝ている時間だった。
みおは早起きだった。
兄の見送りも、いつものことだった。
冷蔵庫を開けて、夕食の下準備をする食材を確認した。
今日は煮物にする予定だった。
大根と人参を切る音が、静かな台所に響いた。
切りながら、みおは少し考えていた。
(……央さんが来る日)
兄が「いつでも来ていいぞ」と言っていたことを、みおは思い出した。
兄は、央が来ることに対して、特に何も言わなかった。
ただ「いつでもいいから」と一言、出かける前に言った。
それだけだった。
みおはその「いつでも」という言葉を、もう何度も思い出していた。
いつ来てもらうか。
みおは、まだそれを決めていなかった。
決めていない、ということが、少し落ち着かなかった。
大根を切る手を、少し止めた。
止めたことに気づいて、また切り始めた。
台所の換気扇の音が、低く響いていた。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
切り終わって、まな板を洗っているとき、リビングから声がした。
「みお、起きてたの」
母だった。
パジャマのまま、リビングに来たところだった。
「……おはようございます」
「おはよう。早いね」
「いつものことです」
母がソファに座って、テレビをつけた。
朝のニュース番組だった。
「お兄ちゃん、出かけたのね」
「はい。日帰りで親戚のところに」
「ふうん」
母がそう言って、テレビを見た。
しばらく、その状態が続いた。
みおが洗い物を終えて、自分の分の麦茶を注いだ。
冷蔵庫の前で、グラスに注いでいる間、母が言った。
「最近、スマホよく見てるね」
みおの手が、少し止まった。
「……そうですか」
「うん。前より見てる気がする」
みおが麦茶を一口飲んだ。
「そういうものだと思います、夏休みは」
「ふうん」
母がもう一度言った。
それ以上は聞かなかった。
テレビの画面に視線を戻した。
みおはグラスを持って、自分の部屋に向かった。
階段を上る途中で、少し、息を吐いた。
(……うるさいです)
心の中で、みおは言った。
言ったが、誰にも聞かれていなかった。
それでよかった。
●
太秦の家は、自転車修理店として今日も営業中だった。
店の奥の作業場で、太秦は朝から自転車のチェーンを清掃していた。
夏休みのバイトという形だったが、給料はあまり出ていなかった。
その代わりに、自転車関連のものを好きに使わせてもらえる、という取り決めだった。
太秦にとっては、それで十分だった。
常連の客が、午前中に何人か来た。
「おう、太秦んとこの息子か。手伝ってんの」
「はい」
「高校生だったっけか、頑張れよ」
「頑張ってます」
常連客が、自分の自転車を置いて出ていった。
太秦が作業を始めた。
チェーンの汚れを落として、油を差す。
手慣れた作業だった。
昼を過ぎて、店の奥で休憩していると、父が「メシ食ってこい」と言った。
太秦が表に出て、コンビニで肉まんを買った。
店の前のベンチで食べた。
夏の日差しが強かった。
食べ終わって、スマートフォンを見た。
グループLINEが少し動いていた。
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ひな:水族館いつ行く?
さやか:来週でいい?麺リスト消化したい
太秦:俺は来週でいい
央 :来週で大丈夫です
みお:……はい
ひな:おっけー!日程は太秦くんが決めて!
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太秦が「俺かよ」と打った。
送信した。
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太秦:俺かよ
ひな:いつも決めてくれるじゃん
太秦:分かったよ
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太秦がスマートフォンをポケットに入れた。
日程を決めるのは、いつも太秦の役割になっている。
別に嫌ではなかった。
誰かが決めなければいけないことで、決める人がいないと、
話は前に進まない。
太秦はそういう役割を、自然に引き受けるタイプだった。
午後、店が少し空いた時間に、太秦は深夜のロードバイクのことを思い出した。
最近、走っていなかった。
夜走るには、相手がいた方が楽だった。
央に連絡してみることにした。
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太秦:今夜走らない?
央 :すみません
央 :夏休み中、別の予定があります
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太秦が画面を見た。
少し見た。
(……あ)
察した。
「別の予定」というのが、何のことかは聞かなかった。
聞かなくても、だいたい分かった。
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太秦:了解
太秦:また今度な
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送信して、太秦は少し笑った。
笑いながら、店の作業に戻った。
誰にも言わないと決めたことを、太秦はまだ守っていた。
守っているつもりだった。
でも、こうして何かに気づくたびに、少しずつ何かが積み重なっている感覚があった。
それが何に向かっているのかは、太秦にもまだ分からなかった。
ただ、悪い積み重ねではないと思っていた。
●
鳥飼家では、さやかが弟と一緒に出かける準備をしていた。
弟の夏期講習が、午前中にあった。
送り迎えは、さやかの役目だった。
「もう行くよ」
「あと一分」
「一分が長いんだって」
弟が玄関で靴を履いていた。
さやかが鞄を持って、先に外に出た。
夏期講習の教室まで、自転車で十五分ほどだった。
弟を降ろして、さやかは近くのカフェで時間を潰すことにした。
カフェの席に座って、メモアプリを開いた。
麺類食べ歩きリストの進捗を確認した。
七月中に五軒という目標は、現在三軒だった。
残り二軒を、今週中に消化する予定だった。
メモアプリを見ながら、さやかは少し考えた。
(……今日もどこか行くか)
弟の講習が終わるまで、二時間ある。
その間に一軒、行けるかもしれない。
近くにラーメン屋があったはずだった。
スマートフォンで検索しながら、さやかはふと、グループLINEを見た。
水族館の話が動いていた。
みおの「……はい」という返信が、少し短いと思った。
いつものことだった。
短くても、参加するという意思は伝わっていた。
(……みおのことは全然心配してないけど)
さやかは思った。
心配していない、というのは本当だった。
みおはちゃんとしている。
ちゃんとしすぎているくらいだった。
(……勢多くんのことが、ちょっと楽しみ)
さやかは少し笑った。
画面を見ながら。
水族館に行ったら、みおがどんな反応をするか。
みおの隣に、央がいるとき、みおがどんな顔をするか。
それを見るのが、少し楽しみだった。
弟が講習に行っている間、さやかは検索したラーメン屋に向かった。
夏の昼下がり、汗をかきながら歩く道だった。
暑かったが、悪くない暑さだった。
●
御所家では、ひなが部屋でスマートフォンを操作していた。
夏コレ──夏の限定コラボグッズの先行販売が、今朝から始まっていた。
ひなは朝の七時から並んで、無事に目当てのアクリルスタンドを確保していた。
戦果を、非公開アカウントに投稿していた。
投稿のあと、撮影した写真のストックを整理していた。
今年の夏は、まだ撮りたい場所がいくつかあった。
水族館の写真は、まだ撮っていなかった。
写真フォルダをスクロールしていると、先月の写真が出てきた。
球技大会の記録写真だった。
みおと央が、記録席で並んで座っている写真があった。
その写真を、ひなは少し見た。
(……これ、いい写真だな)
ふたりとも、写真を撮られていることに気づいていない様子だった。
自然な距離感で、隣に座っていた。
ひなは、この写真を投稿していなかった。
投稿するかどうかを、まだ決めていなかった。
投稿してもいいような気もしたし、しない方がいいような気もした。
しばらく見て、フォルダを閉じた。
さやかからLINEが届いた。
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さやか:水族館来週でいいよね?
ひな:おっけー
ひな:今日もう一軒どこか合流する?
さやか:弟の講習終わったら連絡する
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ひなが「了解」と送って、スマートフォンを置いた。
窓の外を見た。
夏の光が、強かった。
(……みおと勢多くんの夏の話、聞きたい)
ひなは思った。
聞きたい、と思ったが、聞くつもりはなかった。
聞かなくても、いつか分かる気がした。
それで十分だった。
ひなはまた、スマートフォンを手に取った。
今日撮る写真の候補を、頭の中で考え始めた。
●
夕方、図書館の自習室で、朔は問題集を進めていた。
受験勉強は、夏休みに入ってから本格化していた。
計画は、朔が立てていた。
ことねのものも含めて、二人分だった。
自習室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
朔が一区切りつけて、伸びをした。
スマートフォンを見ると、ことねからLINEが届いていた。
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ことね:夏も頑張るじゃん!
ことね:あたしも今日五時間やった
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朔が少し、画面を見た。
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朔 :お疲れ様です
朔 :五時間は、よくできましたね
ことね:自分でもびっくり
ことね:朔くんの計画表のおかげ
朔 :それは、波多野さんが守っているからです
ことね:いやいや、計画があるから守れるんだって
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朔が少し、口元を動かした。
笑った、というほどではなかった。
ただ、少し動いた。
ことねからのLINEは、それで一旦終わった。
朔が問題集に戻った。
戻りながら、朔は少し考えた。
(……今年の受験が終わったら)
行きたい場所が、ひとつあった。
まだ誰にも言っていなかった。
ことねにも言っていなかった。
言うタイミングは、まだ先でいいと思っていた。
今は、目の前の問題に集中する時期だった。
窓の外で、夏の夕方の空が、少しずつ色を変えていった。
自習室の中は、静かだった。
ページをめくる音だけが、しばらく続いた。
●
夜、央は自分の部屋で、今日のLINEのやりとりを少し見返していた。
みおとのやりとりが、画面の上の方に表示されていた。
朝のやりとりだけだった。
それだけのやりとりだったが、央にとっては、それで十分だった。
窓の外で、虫の音が聞こえていた。
蝉の声は、もう聞こえなくなっていた。
代わりに、別の虫の声が始まっていた。
央は、机の上の腕時計を見た。
文字盤を、少し撫でた。
(……みおの家に、行く)
まだ日程は決まっていなかった。
提案するのは、央からでいいと思っていた。
いつ言うか、どう言うか。
考えることは、いくつかあった。
考えながら、央は少し、口元を緩めた。
考えること自体が、少し楽しいような気がした。
その感覚を、央はまだうまく言葉にできなかった。
でも、悪くない感覚だった。
夏休みは、まだ始まったばかりだった。
まだ何も、決まっていないことが多かった。
決まっていないことが多い、ということが、
今年の夏は、少し違って感じられた。
央は時計をもう一度撫でて、明かりを消した。
窓の外で、虫の声が続いていた。
夏の夜が、静かに過ぎていった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




