第七十話 7月22日 気づかれなかった日
夏休みに入って、最初の月曜日だった。
慧は朝、いつもの時間に目が覚めた。
カーテンの隙間から、もう強い光が入っていた。
スマートフォンを見た。
通知はいくつかあった。
ゲームのログイン報酬。
動画サイトの更新。
誕生日らしい通知はなかった。
慧は特に気にしなかった。
毎年そうだった。
誕生日というのは、自分から言わなければ誰にも分からない日だった。
言わないことに、特に理由はなかった。
ただ、言うタイミングがいつもなかった。
ベッドから出て、カーテンを開けた。
夏の光が、部屋いっぱいに入ってきた。
外で蝉が鳴いていた。
まだ朝の七時台だったが、もう蝉は鳴き始めていた。
(……今日から夏休みか)
昨日まで学校があったことが、もう少し遠いことのように感じられた。
夏休みというのは、初日にいきなり時間の流れが変わる。
慧はそれが好きだった。
なんでもできる時間が、目の前にどんと置かれている感じがした。
朝食を済ませて、スマートフォンを見ながら部屋でだらだらしていると、メッセージが届いた。
ほのかからだった。
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ほのか:おはよう
ほのか:誕生日おめでとう
───────────────────────
慧が画面を見た。
少し見た。
それから返信を打った。
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慧:おう、ありがと
ほのか:今日って予定ある?
慧:特にない。図書室行こうかなって思ってる
ほのか:じゃあ夕方暇?
慧:暇
ほのか:了解。あとで連絡する
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慧がスマートフォンを置いた。
少し笑った。
ほのかが覚えていたことに、驚きはなかった。
毎年だった。
でも、今年は少し違うことがあった。
ほのかから届いたメッセージの中に「誕生日おめでとう」とあったが、
例年と違って、それが最初に来た。
いつもは「おはよう」のあと、少し雑談があって、最後の方で「あ、そういえば」という流れだった。
今年は最初に来た。
(……まあ、別にいいけど)
慧はそれ以上深く考えなかった。
考えるには早すぎる時間だった。
午前中、自転車で図書室に向かった。
夏期開放の初日だった。
扉を開けると、宇陀さんがカウンターにいた。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
「家にいると暇なんで」
宇陀さんが少し頷いた。
「好きな場所で読んでいただいて構いません」
「ありがとうございます」
慧が棚から数冊抜いて、いつもの席に座った。
窓際の席だった。
夏の光が、机の上に長い四角を作っていた。
冒険小説を一冊読み始めた。
主人公が見知らぬ街に着いたところから始まる話だった。
慧はこういう始まり方が好きだった。
何かが始まる予感が、文章の最初の数行にすでにあった。
図書室は、夏休みになるとまた違う顔をする。
普段の放課後とは違い、利用者は少なく、その分静かだった。
空調の音と、ページをめくる音だけが聞こえた。
慧はこの静かさが、最近少し好きになっていた。
1学期の頃は、静かにしているのが少し苦手だった。
今は、静かな場所で本を読むことに、慣れてきていた。
一冊読み終えて、次の本に手を伸ばした。
時計を見ると、もう一時間以上が経っていた。
時間が経つのが早い、と思った。
誕生日だからというわけではなく、いつもこうだった。
昼前、宇陀さんがカウンターから出てきて、近くの棚を整えていた。
ふと、慧の方を見た。
「放出さん、今日は誕生日でしたね」
慧が顔を上げた。
「え、なんで知ってるんですか」
「委員の名簿に書いてありましたよ」
「……そうか」
慧が少し、自分の頭を掻いた。
「ありがとうございます」
「特に何もできませんが、伝えるくらいはと」
宇陀さんがそれだけ言って、棚の作業に戻った。
慧が少し、宇陀さんの後ろ姿を見た。
名簿に書いてあるから知っている。
それだけのことだった。
でも、それを言うために宇陀さんが声をかけてくれたことが、少し意外だった。
(……宇陀さんって、こういうとこあるんだな)
慧は本に視線を戻した。
戻したが、しばらく同じページを見ていた。
昼を過ぎて、図書室に人が増えてきた。
夏休みの図書室は、自習をする生徒が多かった。
慧は静かな空間が少し苦手だったが、今日は気にならなかった。
本を読んでいると、時間が早く進んだ。
午後の遅い時間、もう一冊読み終えたところで、スマートフォンが鳴った。
ほのかからだった。
───────────────────────
ほのか:今日の夜ご飯うちに来なよ
ほのか:お母さんが作るって言ってた
───────────────────────
慧が画面を見た。
───────────────────────
慧:行く
───────────────────────
即答だった。
打ってから、少し早すぎたかと思ったが、取り消すほどでもないと思った。
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慧:何時頃がいい?
ほのか:6時くらいで
慧:了解
───────────────────────
慧がスマートフォンをポケットに入れた。
ほのかの家に行くのは、特別なことではなかった。
小さい頃から、何度も行っていた。
ほのかの母親の作る料理を、何度も食べていた。
誕生日だから、というわけではなく、誕生日の日に行くことが、毎年の決まりになっていた。
慧はそれを当たり前だと思っていた。
今日も、特に気にせず本を閉じた。
窓の外を見ると、夏の午後の光が、少し傾き始めていた。
まだ時間はあった。
もう一冊くらい読めるかもしれない。
慧は棚に戻って、次の本を選びに行った。
午後三時を過ぎて、図書室を出る準備をした。
借りる本を二冊選んで、カウンターに持っていった。
宇陀さんが手続きをしながら、ふと言った。
「今日はゆっくり読めましたか」
「はい。三冊読みました」
「それは早いですね」
「速読が得意とかじゃないんですけど、夏休みは時間があるので」
宇陀さんが少し頷いた。
カードに返却日を書き込んで、本を返した。
慧が本を受け取って、リュックに入れた。
図書室を出る前に、宇陀さんに「失礼します」と言った。
「気をつけて」
「あ、はい」
扉を出る間際、慧が少し止まった。
(……先輩たちには言わなくてもいっか)
勢多先輩や葛城先輩、比叡先輩に誕生日のことを伝える流れは特になかった。
LINEのグループは図書委員業務用のもので、私的な話題はあまり流れない。
慧自身も、特に伝える必要を感じていなかった。
それでいい、と思った。
誕生日というのは、自分から大きく言うものではなかった。
誰かが覚えていてくれて、それで十分だった。
今は、それがほのかひとりだった。
それでいい、と慧は思っていた。
夕方、ほのかの家に着くと、玄関でほのかの母親が出迎えてくれた。
「あら、慧くん。誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。お邪魔します」
「いつも来てくれて嬉しいわ」
慧が靴を脱いだ。
この家の匂いは、子供の頃からずっと同じだった。
台所から、何か煮込んでいる匂いがした。
ほのかが部屋から出てきた。
「あ、来た」
「来た」
ふたりでリビングに向かった。
テーブルに料理が並んでいた。
いつもより少し品数が多かった。
誕生日だから、という説明はなかった。
でも、慧には分かった。
「……毎年、ちゃんと覚えてるよな」
慧が言った。
ほのかが少し、箸を止めた。
「当たり前じゃん」
「当たり前」
「何年の付き合いだと思ってるの」
慧が少し、ほのかを見た。
「……当たり前か」
「そうだよ」
ほのかがそう言って、また食べ始めた。
慧は少し、その「当たり前」という言葉を、頭の中で繰り返した。
(……当たり前)
当たり前というのは、簡単に言える言葉だった。
でも、簡単に言える言葉の中には、簡単ではないものが含まれていることがある。
慧はそれを今日、はじめて少し感じた。
でも、それが何なのかは、まだ言葉にならなかった。
ほのかが「肉、もっと食べる?」と聞いた。
「食べる」
「いいリアクションだね」
「誕生日だから」
「それは関係ある?」
「ある気がする」
ほのかが「変なの」と言って、お代わりを取りに行った。
慧はそのまま、テーブルの上の料理を見た。
いつもと同じテーブルだった。
いつもと同じ家族だった。
いつもと同じ、ほのかだった。
でも今日は、何かが少しだけ、いつもと違って見えた。
それが何なのか、慧にはまだ分からなかった。
ただ、その違いに気づいたこと自体が、今年の誕生日の一番大きな出来事だった気がした。
ほのかが肉を持って戻ってきた。
慧の皿に乗せた。
慧が「ありがと」と言った。
ほのかが「どういたしまして」と言った。
いつものやりとりだった。
いつもと同じ言葉だった。
でも、慧はその言葉を、いつもより少し長く覚えていた気がした。
窓の外で、夏の夕方の空が、ゆっくりと色を変えていった。
今日という一日が、誰にも気づかれなかった日として終わるのか、
それとも、何かが少し動いた日として記憶されるのか。
慧にはまだ分からなかった。
でも、悪い一日ではなかった。
それだけは、確かだった。
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