第六十九話 7月18日 夏の前に、確かめること
終業式の朝、教室の空気は少し違う。
梅雨が明けていた。
七月十八日。
昨日の夜、気象庁が発表した。
朝起きたとき、みおはスマートフォンでそれを確認した。
窓の外の光を見た。
確かに、梅雨ではない光だった。
1学期が終わる日の朝は、いつもこういう感じだった。
少し浮き足立っている。
声が少し多い。
先生が来る前の教室で、誰かが夏の予定を言い始める。
それを聞いた誰かが別の予定を言う。
みおはそれを聞きながら、席に座っていた。
通知表が返ってくる日だった。
成績そのものよりも、この1学期に何があったかを一枚の紙にまとめられる感じが、
みおはあまり好きではなかった。
でも今年は、紙に収まらないことの方が多かった気がした。
それが少し、違う感じだった。
「終わったー!」
「テストが遠い昔みたい」
「いや、返却されたの先週だから」
「でも気持ち的には遠い」
周囲の席から声がした。
みおは聞きながら、振り返る。
斜め後ろの席で央が本を出していた。
「……夏休みの初日に読む本ですか」
央が少し本を持ち上げた。
「これは2学期に向けて読んでおきたかったものです」
「何ですか」
「歴史の補足として読んでいます。授業より少し先のところです」
みおが少し、表紙を見た。
「夏休みの初日から」
「終業式があるので、まだ夏休みではないです」
「……そうですね」
みおが少し、窓の外を見た。
梅雨明けの空が、青かった。
笠置先生が入ってきたのは朝のホームルームの時刻ちょうどだった。
出席簿を脇に挟んで、通知表の束を抱えていた。
「みんな1学期お疲れ様でした! いろいろありましたが、無事終わりましたね」
いろいろ、という言葉が少し大きかった。
何がいろいろだったのかは各自違うと思うが、笠置先生は分け隔てなく「いろいろ」と言った。
みおは少し、それが好きだと思った。
「通知表、配ります。見るのは家でもここでも構いません。2学期の目標に使ってください。あと夏休み中に体調崩さないように。熱中症、今年も出てるから。以上です」
テンポが速かった。
前から後ろへ、通路を歩きながら配っていった。
手渡す際に生徒の顔をさっと見る癖が笠置先生にはあった。
みおのを渡すときも一瞬目が合った。
「葛城さん、1学期お疲れ様でした」
「……ありがとうございます」
「2学期もよろしく」
それだけだった。
先を急ぐように次の生徒へ向かった。
みおが通知表を手に取った。
数字を確認した。
去年とほぼ変わらなかった。
変わらないことが、今のみおには少し安心だった。
ふと気づくと、笠置先生が央の通知表を渡す瞬間だった。
央が受け取る。
笠置先生が次へ向かう直前に、一瞬だけみおと央の方を横目で見た。
見た、というより、確かめた、という感じだった。
みおはそれに気づいたが、何も言わなかった。
(……先生は、知っている)
何を、とは言えなかった。
でも、笠置先生がこちらを見るときの目は、去年からずっと、少し温かかった。
それがどういう意味かをみおが考え始めたのは、割と最近のことだった。
そして今は、その意味が少し、分かる気がしていた。
終業式が終わって教室に戻ると、夏の予定を話す声が増えた。
「夏どこ行く」「バイト入れまくる予定」「どこか行こうよ」
さやかが腕を組みながら言った。
「私は弟の夏期講習の送り迎えと麺食べ歩き」
「麺の食べ歩き」
「7月中に5軒行く予定。リスト作ってある」
太秦が「すごい計画性だ」と言った。
「太秦くんは?」
「バイト。親父の店で。あとロードバイク。何かしたい」
「何かってなに」
「何かが分からないから何かって言った」
さやかが「なら、ないな」と肩をすくめた。
「みおは?」
さやかがみおの方を向いた。
みおが少し、前を向いたまま答えた。
「……家にいると思います。兄も帰省してくるので」
「お兄さん来るんだ」
「夏の間に何度か」
「ちゃんと夏してるじゃん」
みおが少し、さやかを見た。
「……どういう意味ですか」
「いや、みおが「夏休み」って感じするのが珍しいなと思って」
「普通に夏休みだと思いますが」
「去年の今頃と比べての話」
みおが少し止まった。
さやかが「まあいいや」と言って前を向いた。
それ以上追わなかった。
さやかはいつも、ここで止まる人だった。
みおは気づかないふりをした。
央が少し、静かに答えた。
「……読書と、母方の祖父母のところへ。あと、夏休みに誰かと会えたら」
誰かと、という言葉が少し残った。
誰か、という言い方を央がするときは、だいたい意味がある。
さやかが「誰かって誰?」と聞きそうになったのをみおは感じた。
聞かなかった。
(……誰かと)
みおは少し、通知表の角を折った。
それを認識して、元に戻した。
太秦が「おうくん、祖父ちゃんのところ行くの今年も?」と尋ねた。
「今年も行きます」
「毎年行ってるよね。仲いいんだ」
「仲がいいというより、会う機会が少ないので」
「それが仲いいってことじゃないの」
央が少し考えた。
「……そうかもしれません」
太秦が「そういうとこな」と言った。
さやかが「そういうとこって何」と聞いた。
太秦が「言葉が正確すぎる」と言った。
みおが少し、前を向いたまま思った。
言葉が正確すぎる。
それが太秦から見た央の特徴だった。
みおから見ても、そうだった。
でもみおには、その正確さが嫌いではなかった。
むしろ、頼りになると思っていた。
(……そういうところが、好きだ)
みおが思った。
声には出なかった。
心の中でそう思ったことが、少し驚きだった。
でも、驚かない自分も少しいた。
昼過ぎに、太秦がスマートフォンを取り出した。
「夏休みどこか行こうぜ全員で」
グループLINEに送った。
さやかの既読がついた。
ひなの既読がついた。
央の既読がついた。
「行く」「いいね」「どこ行く」「いつがいい」
十秒も経たずに返信が集まった。
太秦が「はや」と言った。
さやかが「みお反応して」と言った。
みおがスマートフォンを取り出してグループLINEを確認した。
既読をつけたまま少し止まった。
「……いつ頃の予定ですか」
さやかが「8月に一回は行きたい」と言った。
LINEにはひなから「海がいい!渋谷もいい!屋台があるとこ!」と三連続で届いた。
太秦が「どれ」と返信した。
みおが「……参加します」とだけ打った。
さやかが「よし」と言った。
それだけで、何かが決まった感じになった。
グループLINEはそういうものだった。
誰かが言い出して、全員が乗った時点で成立する。
細かいことはその後でいい。
みおは少し、スマートフォンを置いた。
夏休みに全員で、という予定が、今年もできた。
去年も同じようにできた。
それが続いていることを、みおは少し嬉しいと思った。
放課後になった。
図書室の夏期開放の確認があった。
委員で集まって、宇陀さんから日程と当番表を受け取った。
「夏期開放は8月の第一週まで。当番は週に2回程度です。詳細はこれを見てください」
宇陀さんが印刷されたプリントを配った。
「何か質問はありますか」
慧が「休み中も来てもいいですか」と聞いた。
当番でない日のことを聞いているらしかった。
「来たい日に来ていただいて構いません。当番ではなくてもです」
「ありがとうございます」
宇陀さんが「では」と言って当番の確認に戻った。
慧がほのかに「来る?」と聞いた。
ほのかが「予定次第で」と答えた。
慧が「そっか」と言った。
みおはその会話を聞きながら、当番表に自分の名前が入っている日を確認した。
8月の一週目、二回。
そういう夏になる。
委員の確認が終わって、宇陀さんがカウンターに戻った。
慧とほのかが「失礼します」と言って先に出た。
みおが棚を少し整えながら、央が当番表を折りたたむのを横目で見た。
静かだった。
図書室の夏は、廊下より静かになる。
窓の外の光が、今日は真夏のそれに近かった。
央が少し、みおの方を向いた。
「……夏休み中、一度うかがってもいいですか」
みおが少し、手を止めた。
「……家に、ですか」
「はい。図々しければ言ってください」
みおが少し、手元を見た。
棚の本の背表紙が、整然と並んでいた。
(……いつかは、と思っていた)
去年の夏、LINEのやりとりが始まった。
それが今年は「また連絡していいですか」になった。
今年は「うかがってもいいですか」になった。
一年ごとに、少しずつ近くなっていた。
「……いいです」
みおが言った。
少し間があった。
「いつかは、と思っていました」
央が少し止まった。
「そうですか」
「……はい」
それだけだった。
日程の話も、何時に来るかも、何もまだ決まっていなかった。
でも決まった、という感覚があった。
央が「ありがとうございます」と言った。
みおが少し、棚の本を一冊直した。
手が少し、止まった。
止まっていることに気づいた。
直した。
図書室の中は静かだった。
宇陀さんがカウンターで何かを書いていた。
窓の外の光が、斜めに床に落ちていた。
(……夏が来た)
梅雨が終わって、終業式が終わって、夏になった。
去年の夏とは、少し違う夏になりそうだった。
違うことが何なのかは、まだ全部分からなかった。
でも、分かり始めている部分があった。
それで十分だと思った。
廊下で、太秦が図書室の扉の前を通りかかった。
帰り道の途中で、消しゴムを忘れたことに気づいて引き返してきたところだった。
上履きのまま来てしまったと思いながら廊下を歩いて、図書室の前まで来たとき、扉が少し開いていた。
(あ、葛城さんとおうくん)
声をかけようとした。
止まった。
中から央の「ありがとうございます」という声が聞こえた。
みおの「いつかは、と思っていました」という声が聞こえた。
(……やばい)
偶然聞いてしまった。
太秦が後退した。
後退しながら音を立てないようにした。
廊下の柱の陰まで下がった。
(聞いてない 聞いてない 俺は何も聞いてない)
頭の中でそう繰り返した。
繰り返しながら、足早に廊下を進んだ。
消しゴムのことは忘れた。
どこかに落としたか、あるいは教室の机の中かもしれなかった。
明日でいい。
夏休みだから明日はないが、まあどこかで見つかる。
進みながら少し、口元が上がった。
(……よかった、ふたりとも)
それだけ思った。
誰にも言わないと、心の中で決めた。
さやかには絶対言わない。
さやかに言うと、さやかは「知っとったし」と言うだろう。
その「知っとったし」がいつ炸裂するかは、さやかが決める話だ。
今年の夏も、何も知らない顔をしていようと思った。
廊下の窓から、夏の光が差し込んでいた。
1学期が終わった日の光だった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




