第六十八話 7月14日 去年の教訓と、今年の作戦
七月の空は、正直だ。
朝から太陽が出ていた。
梅雨明け宣言はまだだったが、もう実質的には夏だった。
空気の重さが、梅雨のそれとは違った。
光の量が、違った。
みおは朝、登校しながら少しだけ目を細めた。
今日は球技大会だった。
去年のことを、みおは少し思い出していた。
コートの外まで飛んだ。
バレーボールが。
みおのサーブが。
どういう軌道をたどったのか今でも分からなかったが、
コートとは逆方向へ、かなりの速度で飛んでいったことは覚えていた。
(……去年の轍は踏まない)
今年の作戦は、すでに決まっていた。
さやかが立案した。
朝のホームルームが終わって、クラスの準備が始まった。
さやかが央のそばに来て「勢多くんも記録係にしといたから」と言った。
「なんでですか」
「体育が苦手でしょ」
「……ばれていましたか」
「バレー大会の前の顔してる。去年と同じ顔」
央が少し黙った。
さやかがみおの方を向いた。
「みおも今年は記録係でいいよ」
「……昨年はそんなにひどかったですか」
「ひどかった。コートの外まで飛んだ」
「……自覚はあります」
「自覚があるなら話が早い。今年は記録に徹して」
みおが少し、さやかを見た。
「記録係でも、楽しめますか」
「楽しめる。でなきゃ提案しない」
それだけ言って、さやかはクラスメイトへの連絡に戻った。
みおが少し、空を見た。
今日の空は、去年の球技大会の日より、ずっと青かった。
体育館に向かう途中、太秦が央の横に来た。
「おうくんと葛城さんは記録係でいい。俺が取るから」
央が「頼む」と言った。
一言だった。
迷いがなかった。
太秦が少し笑った。
「去年もそう言ったよな」
「去年も頼みましたか」
「今年は慧くんもいるから戦力は上がってる」
「慧くんは体育が得意ですか」
「バスケ得意らしいから、まあ多分」
太秦がそれだけ言って、ビブスの確認に向かった。
みおが少し、太秦の後ろ姿を見た。
去年もこういう感じだったと思う。
颯爽とした動き方が体育の場に似合っていた。
体育館の脇に、慧とほのかがいた。
慧が体育館を見回していた。
ほのかがその隣に立っていた。
「けいくん、緊張してる?」
「してないです」
「敬語じゃん。なんかそわそわしてるし」
「してない。どっちかっていうとやる気が出てる」
「どんなスポーツでもやる気出るよね」
「球技は特に」
ほのかが少し呆れた顔をした。
「はりきりすぎないでよ。先輩に迷惑かけないようにね」
「迷惑はかけない」
「先輩たち、運動苦手っぽいから」
「葛城先輩とか勢多先輩も出るの」
「記録係だって。去年は出て大変だったって」
慧が少し、体育館の方を向いた。
「……なんかもったいない気がする。葛城先輩のスパイクとか見てみたい」
「絶対見ない方がいい」
「なんで」
「いいから」
慧が「謎だな」と言った。
みおはその会話を少し離れた場所から聞いていた。
聞こえていたが、近づかなかった。
ほのかが「絶対見ない方がいい」と言ったことが、少し正確だと思った。
試合が始まった。
クラスは二チームに分かれた。
みおと央は点数の記録と応援に回った。
太秦はコートの中にいた。
体育の三雲先生が、コートの端から全体を見ていた。
「……怪我しなきゃいい」
さやかが振り返った。
「先生、それ毎年言ってますよね」
「毎年怪我しそうな生徒がいるからな」
「誰ですか」
「お前のクラスだろう」
さやかが「まあそうですね」と言って前を向いた。
みおが少し、三雲先生を見た。
去年も同じことを言っていた。
ほぼ同じ位置で、ほぼ同じ言い方だった。
毎年、体育の先生はこういう場所で同じことを言うのかもしれなかった。
あるいは三雲先生がそういう人なのかもしれなかった。
どちらでもよかった。
この空間に定点があることが、少し落ち着いた。
試合の途中から、慧が目立ち始めた。
最初のうちは様子を見ていたらしく、落ち着いていた。
それが二セット目に入ってから、動きが変わった。
跳んだ。
みおは思わず見た。
慧の跳躍は、他の生徒と明らかに違った。
高さが違った。
滞空時間が違った。
身長が190センチあるのに、さらにそこから跳ぶ。
バレーボールとして機能するサイズだった。
スパイクが決まった。
コートの中に一拍の静止があった。
それから声が上がった。
「でかっ」「届くのかそれ」「あれ反則じゃないの」
反則ではなかった。
ただ大きくて跳べるというだけだった。
みおは自分が同じようなことを言われてきたことを、少し思い出した。
珍しがられることには慣れていた。
でも慧は慣れていないのか、少し照れたように首の後ろを掻いた。
ほのかが「わあ」と言った。
「けいくんって運動できるんだ」
慧が振り返った。
「……前から知ってたじゃん」
「なんか学校で見るの初めてな気がして」
「いつも体育で見てるだろ」
「バレーで飛び込んでるとこは初めて見た」
「バスケの話は何回かしたのに」
「実際に見るのと聞くのは違うじゃん」
慧が少し、ほのかを見た。
何か言いかけて、言わなかった。
「……見とけよ。まだ出番あるから」
そう言って、コートに戻った。
ほのかが慧の背中を見た。
少し、何かを考えているような顔だった。
みおはそれを見ていたが、何も言わなかった。
(……実際に見るのと聞くのは違う)
ほのかの言った言葉が、少し残った。
当たり前のことだった。
でも、当たり前のことが言葉になる瞬間というのは、
たいてい、何か動いているときだ。
太秦が一本決めた。
控えのスニーカーをキュッと鳴らしながら着地した。
さやかが「ナイス」と言った。
太秦が「ありがとうございます」と返した。
みおが記録用紙に点数を入れた。
隣に央がいた。
「……太秦くんは、こういう場所が似合いますね」
央が少し、コートを見た。
「似合います。昔から」
「昔から」
「小学生の頃から体育は上手でした。休み時間もずっと外にいる人でした」
みおが少し、太秦を見た。
「……今でもそうですか」
「今でも深夜にロードバイクで走ったりしてます」
「夜に」
「深夜に。月に一度か二度」
「……元気ですね」
「元気です。それが太秦の良いところだと思います」
みおが少し、記録用紙から目を上げた。
央が太秦のことをそう言うのを、みおは初めて聞いた。
でも、自然に出てきた言葉だった。
長い付き合いの中で積み上がってきた見方が、さらっと出た、という感じがした。
「……仲がいいんですね、ずっと」
「小学校からです。向こうは深く考えずに友人でいてくれる人なので、助かっています」
みおが少し前を向いた。
コートで太秦がレシーブの構えをしていた。
深く考えずに友人でいてくれる。
その言い方が、央らしいと思った。
午後になって、試合が進んだ。
慧は試合のたびに少しずつ本領を出してきていた。
ブロックが決まる。
スパイクが決まる。
その度にクラスメイトが騒いだ。
「放出、お前バレー部か」
「違います。バスケです」
「どおりで」
「でも球技は割と何でも」
「何でもって何だよ」
慧が「好きだから」と言って笑った。
えくぼが出た。
太秦が横から「バスケ得意って言ってたもんな」と言った。
慧が「太秦さんに話しましたっけ」と返した。
太秦が「聞いた。ちゃんと聞いてるから」と言った。
慧が「ありがとうございます」と少し照れた顔で言った。
みおはその二人を見た。
太秦と慧が、気づかないうちに少し打ち解けていた。
学年が離れているようで、ノリが似ていた。
こういう場所で縮まる距離感があることを、みおは球技大会を通して初めて知った。
ほのかがその笑顔を見て、少し視線を落とした。
何かを確認するような動作だった。
みおはそれにも気づいていたが、やはり何も言わなかった。
こういうことは、本人が気づいていく順序がある。
外から言葉にするより、その順序を待つ方がいいことを、
みおは自分の経験から知っていた。
試合が全て終わった。
体育館の外に出ると、七月の光がまだ強かった。
みおは少し目を細めた。
さやかが「お疲れ、記録係」と言いながら近づいてきた。
「疲れました」
「記録係で疲れた?」
「……ずっと立っていたので」
「ごもっとも」
ひなが「みお、コートに入らなくてよかったじゃん」と言った。
授業後に合流していた。
「……そうです。さやかのおかげです」
「去年のこと今でも語り草になってるからね、三雲先生の中で」
「……それは聞きたくなかった情報です」
ひなが「笑う」と言った。
さやかが腕を組んだ。
「でも今年は作戦勝ちでしょ」
「……記録係でも、楽しめました」
「ほんとに?」
みおが少し、体育館を振り返った。
「見ている方が、分かることがありました。コートの中にいると見えないものが」
さやかが少し、みおを見た。
「なんかそれ、いいね」
「そうですか」
「うん。それがみおらしい楽しみ方だよ」
みおが少し、口元が動いた。
さやかが笑った。
声は出なかったが、笑うときの目になっていた。
帰り道に差し掛かって、みおと央が並んだ。
さやかとひなは先に上がっていた。
太秦は慧と何か話しながら先を歩いていた。
ほのかがその二人の後ろを少し遅れてついていた。
みおは少し、その後ろ姿を見た。
太秦が慧の肩を叩きながら何か言っていた。
慧が笑いながら返していた。
ほのかがそれを少し離れたところから見ていた。
見守るというより、確かめているような目だった。
みおと央は、いつもの帰り道を歩いた。
「……記録係でも楽しいですね」
みおが言った。
央が少し、前を向いたまま答えた。
「……去年より楽しいです」
みおが少し止まった。
止まらずに歩いた。
(……去年より)
去年も央は記録係だったと思う。
同じポジションにいた。
でも、去年より楽しい。
「……何が違いますか」
央が少し考えた。
「……隣にいる人が、今年の方が分かっています」
みおが少し、前を向いたまま考えた。
(……分かっている)
分かっている人の隣で見ている試合と、
あまり分からない人の隣で見ている試合は、
確かに違うと思った。
何が起きても少し話せる。
黙っていても、ちゃんと隣にいる感じがある。
「……わたしも、そうです」
みおが言った。
央が少し、みおを見た。
何も言わなかった。
でも、少し口元が動いた。
左の口角のあたりが、少し緩んだ。
みおは前を向いた。
前を向いて歩いた。
夏の光が、道の上に均等に広がっていた。
もうすぐ夏休みになる。
夏休みになったら、また少し違う時間が来る。
去年の夏は、始まる前に少し緊張していた。
央からLINEが来るかどうか分からなかった。
来たとき、みおは少し驚いて、それから少し嬉しかった。
驚いた自分に、さらに少し驚いた。
今年は、待っている。
驚かない準備で待っている。
そういう変化が、一年分の積み重ねだと思うと、なんだか長いようで短かった。
(……楽しみだ)
みおが思った。
声には出なかった。
でも、思った。
今年の夏休みを楽しみにしている自分が、去年よりずっと自然だった。
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