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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第六十七話 7月10日 テストと、その後ろ


 七夕が終わると、空気が変わる。


 梅雨が完全に明けたわけではなかった。

 でも、学校の廊下に漂う感じが、七月初旬とは少し違った。

 湿度の重さではなく、緊張の重さが混じっていた。

 試験前の空気だった。


 今週の後半から期末テストが始まる。

 みおにとっては、試練の前哨戦だった。

 試練というのは、テスト本体ではない。

 テスト前の図書室に(けい)が来ることだった。


 去年の同じ時期、太秦(うずまさ)が来た。

 苦手科目を抱えて来て、みおと(おう)とで見てもらい、何とかなった。

 今年は一年生が来る。

 顔ぶれは違うが、構造は同じだった。

 そういうことが繰り返されることを、みおは悪くないと思っていた。



 放課後、みおが棚の整理を終えたところで、慧が扉を開けた。


 いつもより少し急いだ足音だった。

 ほのかが後ろからついてきていた。


葛城(かつらぎ)先輩、今日ちょっといいですか」


 みおが振り返った。


「……何ですか」


「数学、また見てもらえますか。前回少し分かったんですけど、今回の範囲が」


「今回の範囲は」


「……違う単元です」


 みおが少し慧を見た。


「どの単元ですか」


「三角比です」


「分かりました。教科書を出してください」


 慧が「ありがとうございます」と言いながらカバンを下ろした。


 そのとき、ほのかが少し横を向いた。


「……ちょっと待って」


「何ですか」


「けいくん、英語の課題、出したっけ」


 慧が止まった。


 そのまま少しの間動かなかった。


「……課題」


「先週出た範囲の翻訳。明後日提出でしょ。見た?」


「……見てない」


「なんで」


「三角比のことしか考えてなかった」


 ほのかが目を閉じた。

 開いた。


「ということは今、数学と英語が両方やばいってこと」


「……そういうことになります」


 みおが少し、ふたりを見た。


「……数学と英語、どちらから見ますか」


 慧が少し考えた。

 考える様子が、迷っているというより観念しているように見えた。


「……両方、見てもらっていいですか」


 ほのかが「両方って何」と小声で言った。

 咎めているのか呆れているのか、声の調子からは判断しにくかった。


「けいくんって、すっごく葛城先輩に頼るよね」


「先輩の方が分かるから」


「そういう問題じゃなくて」


「じゃあどういう問題」


「……もういい」


 ほのかがそう言って、自分もノートを出した。

 見捨てたわけではないらしかった。


 みおが少し、その一連を見た。

 それから椅子を引いた。


「まず教科書と課題、両方出してください。どのくらい進んでいるか確認します」


 慧が「はい」と言って全部出した。

 英語の課題はまだ白紙だった。


(……なるほど)


 みおが確認しながら、少し止まった。

 こういうところは去年の太秦さんに似ている、と思ったが言わなかった。



 宇陀(うだ)さんがカウンターから出てきた。


 みおの横をひとつ通り過ぎて、奥の棚の点検をしていた。


放出(はなてん)さん、英語の範囲はどこまでですか」


 慧が顔を上げた。

 宇陀さんから声をかけられるのは珍しいらしく、少し驚いた顔をした。


「……教科書の37ページまでです」


「参考になるか分かりませんが」


 宇陀さんが少し考えてから、棚から一冊を抜いた。

 みおの方に向けて差し出した。


「翻訳の感覚を掴むには、日本語訳のある対訳本で読む練習が効くこともあります。余計なお世話かもしれませんが」


 みおが受け取った。

 薄い文庫本だった。


「……ありがとうございます」


「テスト勉強の邪魔をしたくはないので」


 宇陀さんがそれだけ言って、棚の点検に戻った。


 慧が「宇陀さん、すごい」と小声で言った。

 ほのかが「静かにしな」と返した。


 みおが対訳本の表紙を一秒見た。

 それから慧に英語の課題を広げるよう言った。



 図書室に、テスト前の静けさが満ちた。


 慧がみおに英語の訳し方を聞いて、みおが説明する。

 ほのかが並行して自分のノートをまとめる。

 時々慧がほのかに確認する。

 ほのかが少し呆れながら答える。


 そういうリズムが続いた。


 みおにとって誰かに教える時間は、自分の理解を確かめる時間でもあった。

 当たり前になっている考え方を、言葉にして出すとき、自分がそれをどこで覚えたか思い出すことがある。

 数学は教科書で。

 英語は、みお自身は誰にも教わらず、ひたすら読んでいた。


(……読むのと教えるのは、少し違う)


 慧の質問は直球だった。

「これ何で前に置くんですか」「ここの文の主語どれですか」「倒置って何のためにあるんですか」

 全部答えた。

 全部の答えを持っていた。

 今まで意識していなかっただけで、持っていた。


 それが少し、意外だった。


 棚の奥で、央が新着図書の確認をしていた。

 みおの説明する声が聞こえているはずだった。

 でも何も言わなかった。

 去年の図書室でも、そういう場所を央は持っていた。

 近くにいるのに遠い、ではなく、近くにいて何もしない、というのが央の在り方だった。

 みおはそれを邪魔だと思ったことがなかった。



 ほのかが鉛筆を置いた。


「……葛城先輩って、教えるの好きですか」


 みおが少し顔を上げた。


「……そんなことはないと思います」


「じゃあ、苦じゃない感じですか」


 みおが少し考えた。


「……苦ではないです」


「それって実は好きってことじゃないかな、と思うんですけど」


「……どうですかね」


「だって説明するとき少し、楽しそうですよ」


 みおが少し止まった。


「……そうですか」


「そうです。さっき倒置の説明してるとき、声が少し変わりました」


 みおが何も言わなかった。

 自分では気づいていなかった。


(楽しそう……)


 そういう風に見えたなら、そうなのかもしれなかった。

 数学を教えていたときも、英語の文構造を解いているときも、

 頭の中が整理される感覚があった。

 それが顔に出ていたとしたら、たしかに苦ではない状態だったのだと思う。


「……そうかもしれません」


 みおが静かに言った。

 ほのかが少し微笑んだ。

 慧が「俺も楽しかったです」と言った。

 ほのかが「あんたが楽しくても意味ないでしょ」と呆れた。

 慧が「なんで」と返した。


 みおが少し、口元が動きそうになるのを止めた。

 止まらなかった。



 翌日の夕方、テストが終わった。


 廊下に「終わった」という空気が流れた。

 声には出なかったが、全員が少しだけ速度を落として歩いていた。

 終わった人間の重心だった。


 みおも廊下を歩いた。

 テストはいつも通りだった。

 解き終わって、見直して、終わりの合図を待った。

 それだけだった。

 数学の最後の問題で少し考えた。

 でも解けた。


 廊下の端でさやかが待っていた。


「どうだった」


「……いつも通りです」


 さやかが「知っとったし」と言った。


「今年もそれですか」


「今年もです。みおの成績が安定しているのは、この学校では定番です」


「……慣れました」


「慣れるほどやってきてるってことでしょ。いいことじゃん」


 みおが少し前を向いた。


 廊下の先で、太秦が慧の答案を覗き込んでいた。

 慧が答案を見せたくなさそうにしていたが、太秦がすでに見ていた。


「ちょっと待って、俺と慧くんが同じ点数じゃん」


「……やばいじゃないですか俺」


「俺もやばいんですけど」


「俺が太秦さんと同じ点数って、まずいですよね」


「なんで俺基準なの」


「英語がこの点数って」


「俺も英語がこの点数なんですけど」


 ほのかが「ふたりとも英語の話してる」と言った。

 さやかが「笑えない」と言った。

 みおが少し止まった。


(……去年の太秦さんと、今年の慧さんが同じ軌道を通っている)


 去年の1学期も、太秦が似たようなことを言っていた。

 時間が経っても、こういうことは繰り返される。

 悪いことではなかった。

 むしろ、この廊下がまだ同じ廊下だということの確かめ方だった。



 数日後、答案が返ってきた。


 慧の数学は前回より改善していた。


「先輩、上がりました」


 放課後、図書室で慧が答案を見せた。

 前回より十五点上がっていた。


「よかったです」


「英語は微妙でした」


「翻訳は提出できましたか」


「ぎりぎり提出しました」


「それはよかったです」


 慧が少し、答案を見た。


「……数学、あと少しで平均行けそうです」


「今回の範囲を定着させれば、次も上がります」


「先輩はいつも当たりますね、そういう見立てが」


「……外れることもあります」


「今まで外れましたか」


 みおが少し考えた。


「……今のところは」


 慧が「やっぱり」と言った。

 少し笑った。

 左頬のえくぼが出た。


 みおが少し、答案を返した。

 何も言わなかったが、悪くない気分だった。



 廊下に夕方の光が入ってくる時間帯になった。


 図書委員の当番が終わり、みおと央が図書室を出た。

 慧とほのかは先に上がっていた。


 廊下に出ると、窓の向こうが橙に近い色をしていた。

 梅雨明けが完全ではなくても、七月の夕方の光はもう夏のそれに近かった。


 ふたりで廊下を歩いた。


 静かだった。

 テストが終わった後の廊下は、緊張が抜けて少し間延びした空気になる。

 その空気が、みおは嫌いではなかった。

 始まる前の緊張と、終わった後の緩みが、一番学校らしい瞬間だとみおは思っていた。


 階段を下りながら、央が少し声を出した。


「……夏休みにまた、連絡していいですか」


 みおが少し、足を止めた。


 止まらなかった。

 歩きながら、頭の中で繰り返した。


(……去年も、同じことを聞いた)


 去年の1学期の終わりに、同じ質問を同じ廊下で聞いた。

 あのときの央の言い方を、みおは覚えていた。

 少し間を置いて、「……夏休みに、連絡していいですか」と言った。

 今年は「また」という言葉が入っていた。


「去年も聞きましたね、同じことを」


 央が少し止まった。

 歩きながら、少し止まったように見えた。


「……そうでしたね」


「覚えていますか」


「覚えています」


「……今年は「また」と言いました」


 央が少し間を置いた。


「……言いました」


 それだけだった。

 説明はなかった。

 でも、みおには説明は要らなかった。


「……もちろんです」


 みおが言った。


 去年も同じ言葉で答えた。

 でも、今年は少し違う重さだった。

 去年は「いいですよ」という許可だった。

 今年は、待っている、という意味に近かった。


 央が「ありがとうございます」と言った。


 ふたりで廊下を歩いた。

 外の光が廊下の窓枠に長い四角を作っていた。

 夏の光だった。

 もうすぐ夏休みになる。


 みおが少し、前を向いたまま思った。


(……また、という言葉がこんなに変わるものだとは)


 去年は「また」と言わなかった。

 今年は言った。

 その一語の差を、きちんと聞き取れたことが、少しだけ嬉しかった。


 央が腕時計をさわる音が、少し聞こえた。

 考えているときの癖だった。

 みおは今年の春頃から、それが何を意味するか分かるようになっていた。


(……何かを考えている)


 何を考えているかは聞かなかった。

 聞かなくてよかった。

 今は、並んで廊下を歩いていて、それだけで十分だった。


 校舎を出ると、外の空気が夕方の温度になっていた。

 テストが終わった解放感と、夏が来る予感が混じっていた。

 みおは少し空を見た。


(……また、夏になる)


 去年の夏があって、今年の夏がある。

 去年と同じ夏ではない。

 でも、同じ場所から始まる夏だった。

 それでいいと思った。

 それの方がいいとも思った。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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