第七話 4月25日 休みの前の、なんとなく
四月の終わりは、空気が変わる。
授業中の集中力が、少しだけ薄くなる。
廊下を歩く足取りが、少しだけ軽くなる。
先生の話を聞きながら、別のことを考えている生徒の割合が、体感で増える。
原因は明白だった。
明日から、ゴールデンウィーク。
一時間目の現代文の授業が終わると、教室に小さなざわめきが起きた。
特に何かがあったわけではない。
「一時間目が終わった」という事実だけで、気持ちが動く。
それがGW前の空気だった。
勢多央は教科書を閉じながら、窓の外を見た。
薄い雲が、西から東へ、ゆっくりと流れていた。
休み時間になると、隣の列から声がした。
「おうくん、GWどうすんの」
太秦だった。
自分の席から身を乗り出して、少し前のめりになっている。
「どうもしない」
「何も予定ないの?」
「今のところは」
本を読もうと思っていた。
早朝の珈琲と読書の時間が、連休中は少し長く取れる。
それが今の央には十分だった。
「つまんなくない?」
「つまんないとは思わない」
「そういうもんかあ」
太秦は頭の後ろを掻いた。
照れているときではなく、考え込んでいるときの仕草だった。
「俺は前半、家の店手伝うんだよな。親父がGWも普通に開けるから」
「自転車屋は連休も需要があるか」
「そうそう。整備持ち込む人がけっこう来る。あとパンク。連休前後はパンクが増えるらしくて」
「どこかに出かけて、知らない道でパンクするのか」
「それそれ。見知らぬ土地でのパンクは一番困るって親父が言ってた」
太秦は少し笑った。
「でも後半は空くから。そっちで何かしたいな、と思ってて」
言い方が、含みを持っていた。
「思ってて」で終わるのは、続きがある前置きだ。
央は腕時計を撫でながら、返事を保留した。
三時間目が終わった昼休み、みおの席の周りにさやかとひなが集まっていた。
「みおはGWどうするの」
さやかが言った。
腕を組んで、みおの顔を見ている。
「……特に決めてないです」
「え、実家に帰るとかも?」
「実家というか、もともと東京なので」
みおは少し考えながら答えた。
「大阪には祖父母がいるんですけど、今年は行かないかなあと思って」
「じゃあ地元で過ごす?」
「多分、散歩か、家にいるか」
さやかが「散歩か」と繰り返した。
「うちはね」とひなが割り込んだ。「絶対カフェ行く。行きたいとこ三件くらいリストアップしてる」
ひなはスマホを横持ちにして、画面を二人に見せた。
「これとこれ。新宿のと、あと渋谷の裏路地にあるやつ。どっちも映え枠なんだけど、こっちのが光の入り方がよくて」
「詳しいな」とさやかが言った。「ていうかひな、それ一人で行くの?」
ひなはスマホから顔を上げた。
少し考える顔をして、それから「……一人でも行けるけど、誰かと行ってもいい」と言った。
「みお、行く?」
「……行けたら行きたいです」
みおが答えた。
「行けたら」という留保がついていたが、声は穏やかだった。
「行けたら、じゃなくて行こうよ」
「さやかも一緒に?」
「私はラーメン食べ歩きの予定があるから全部はムリだけど、一日くらいなら合わせられる」
さやかが言い切ると、ひながすかさず「じゃあ決まり」と言った。
みおは少し戸惑ったような顔をして、それから小さく「……じゃあ、よろしくお願いします」と言った。
さやかが「なんでそんな丁寧なの」と笑った。
その会話を、央は自分の机で教科書を開いたまま聞いていた。
聞くつもりはなかったが、近い距離から聞こえてきた。
授業の予習を進めながら、声だけを流していた。
(散歩か)
みおが散歩をするという情報は、引継ぎではなく今日初めて知った。
図書室での話から、「本が好き」ということは分かっていた。
散歩も好きなら、歩きながら何か考えているのかもしれない。
自分も散歩は好きだ。
早起きのついでに、近所を一周することがある。
でも、それを声に出す必要はなかった。
午後の最後の授業が終わったのは、三時半すぎだった。
帰りのHRが終わると、教室の空気が一気に緩んだ。
笠置先生の「明日からゴールデンウィークです。健康に気をつけて楽しんでください」という言葉が、教室の喧騒にかき消されかけた。
「先生、自分のGW予定は?」
誰かが聞いた。
笠置先生は少し間を置いてから「教員は研修があります」と答えた。
「えー」という声が上がった。
先生が「でもその後は実家に帰ります」と続けたので、笑いになった。
央は鞄を持って立ち上がった。
その瞬間だった。
「みんな、GW、どっか行かない?」
太秦の声が、教室に広がった。
声が大きかったわけではない。
でも、帰り支度の動きが止まった。
少なくとも、央のすぐ周辺にいた数人は振り向いた。
太秦は机の端に腰かけて、特に誰かに向けるでもなく言っていた。
「みんな」の範囲が少し曖昧な言い方だったが、その目線は大体、さやかとひなの方向に向いていた。
「どっか、ってどこ」
さやかが腕を組んで聞いた。
「それはまあ、みんなで決めるとして。行けそう?」
「後半なら調整できなくもないけど」
「後半でいい。俺も前半は店手伝いあるから」
ひなが「え、どこ行くの?」と言いながらスマホを取り出した。
すでに何かを調べ始めていた。
「どこがいいかな。公園系? 水辺?」
「なんか開けたとこがいい気がする。天気良さそうだし」
太秦がそう言うと、さやかが「緑道とかもありじゃない? 散歩がてら歩けるやつ」と言った。
「わかる。屋台とかも出てたりするしね」
「あとカフェ寄れるとこ。ひなが行きたいとこあるんだっけ」
「渋谷の裏路地のやつ! あそこ近くに川沿いの道もあるんだよね」
「じゃあそのへんで組めるじゃん」
さやかとひなの話し合いが、自然に進んでいた。
太秦が「話が速いな」と言って頭の後ろを掻いた。
央はその会話を聞きながら、鞄のストラップを直していた。
「おうくんは?」
太秦が振り返った。
「来る?」
央は少し考えた。
嫌という理由は、特になかった。
ただ、「行く」と言い切れるほどの確信もなかった。
「……行けたら行く」
「渋くない?」と太秦が言った。
「予定が読めないんだ」
「読めない予定って何」
「本とか」
「本は予定じゃない」
太秦に即座に返された。
央は少しだけ口角を上げた。
「行けたら行く」
「それ本人の中では"行く"寄りの返事なの?」
「……そのへんで」
太秦が「つかみどころがないな」と笑った。
やり取りが一段落したところで、太秦が向こうを見た。
「葛城さんは?」
みおは帰り支度の途中だった。
シュシュを直して、鞄のファスナーを閉めていた。
急に名前を呼ばれて、少し顔を上げた。
「……わたしも、行けたら、ということで」
声は穏やかだったが、「行けたら」という言葉の温度が、さっきと少し違う気がした。
「行けたら多いな、このクラス」と太秦が言った。
ひなが「つまり行けない人は誰もいないってことじゃん」と言った。
さやかが笑いながら「そういう解釈か」と言った。
教室から廊下に出たところで、さやかが「待ち合わせどこにする?」と言った。
五人の足がそろわなかった。
「渋谷でいいと思うけど、みんな電車で来る感じ?」
ひなが言うと、さやかが「そりゃそうじゃん、電車だよ」と答えた。
「みおも電車?」
「……はい。渋谷まで直通で来られます」
「どのへんから?」
「……三軒茶屋のあたりです」
「じゃあ渋谷で落ち合うのが楽かな。改札前でよくない?」
さやかが言うと、ひなが「あそこ人多いんだよ」と言った。
「分かりにくいし。みおが迷子になる」
「迷子にはならないと思います」
「でも人が多い場所、好きじゃないんじゃないかなって思って」
ひながみおをちらっと見た。
みおは少し間を置いてから、「……気にしてくれてありがとう」と言った。
「じゃあ、もう少し静かめのとこにしようか」
さやかが腕を組んだ。
「公園口から出て、坂を上がったところに広場みたいなのがあるじゃん。あそこどう?」
「あー、分かる。ベンチがあるとこ」
「そこなら人が固まらないし、目印になる木もあるし」
太秦が「いいじゃん」と言った。
「……分かりました」とみおも言った。
話がまとまりかけたところで、ひなが「あ、でも」と言った。
「勢多くんと太秦くんは、そこまで来るのどのくらいかかる?」
太秦が「俺は自転車で行こうと思ってた」と言った。
「え、そんな近いの?」
さやかが聞くと、太秦が少し照れたような顔をして、「まあ、うちからそんな遠くないから」と言った。
「おうくんとこも近いよな」
太秦が央に確認した。
「……近いな」
「どのへんなの?」とさやかが聞いた。
「うちは代田橋のあたり」と太秦が答えた。「おうくんは」
央は少し考えた。
「笹塚の近く」
「あ、そういうことか。じゃあ太秦くんと央くんは自転車でもいけちゃうじゃん」
さやかが言った。
「てかそのへんって近所なん?」
ひなが太秦を見た。
「まあそれなりに。中学も一緒だったし」
「え、そうなの」
「小学校からの腐れ縁です」
太秦が笑った。
央は「腐れ縁という言い方は少し違う気がする」と言った。
太秦は「じゃあ何?」と言った。
央は考えて「……腐れ縁で合ってる」と答えた。
小さな笑いが起きた。
「そっか、太秦くんと勢多くんって同じエリアなんだ」
さやかが「じゃあ電車組と合流する感じで時間決めれば、ちょうどいいかな」と言った。
「みおはどの駅から来る?」
「三軒茶屋から、渋谷まで直通です」
「さやかは?」とひなが聞いた。
「うちも三軒茶屋。じゃあみおと一緒に来れるじゃん」
「うちは世田谷代田から」
ひなが言って、「電車組三人、徒歩・自転車組二人か。合流はやっぱ現地の広場でいいと思う」と続けた。
「電車でも、みんな渋谷に向かえばいいだけだもんね」
「そうそう。みんなで一個の電車乗るより、バラバラに来て現地集合のが楽だし」
さやかが「十一時集合くらいでどう? お昼前から動けるし」と言った。
「それでいい」とひなが言った。
太秦も「いいっすよ」と言った。
「みおは?」
「……はい、大丈夫です」
みおがそう答えた。
「大丈夫です」という言葉は柔らかかったが、その前の一拍が少し長かった。
(何か考えていた)
央はそれに気づいたが、何も言わなかった。
「おうくんは?」と太秦が繰り返した。
央は腕時計を撫でた。
「……行けたら、十一時には合わせる」
「行けたら!」
太秦が笑った。
ひなが「なんで行けたらなの」と言った。
さやかが「まあ行く気はある、ってことでしょ」と言った。
ひなが「そういうことにしておこう」と言った。
みおはその会話を、少し離れたところから聞いていた。
ふと目が合った。
どちらも何も言わなかった。
みおが視線を外した。
その顔が、何かを考えているときの顔だった。
唇が、わずかに動いた。
昇降口で靴を履き替えながら、ひなが「あ、そうだ」と言った。
「渋谷に行くなら、梅晴堂って知ってる?」
さやかが「知らない」と言った。
「渋谷からちょっと歩いたとこに和菓子屋があって。インスタで見たんだけど、どら焼きが有名らしくて」
みおが、さっきとは違う速さで顔を上げた。
「……梅晴堂、知ってます」
「え、行ったことある?」
「はい。季節の生菓子が並ぶの、四月の末から変わるので、そのころに行くのが好きで」
みおの声が、少しだけ弾んでいた。
さっきまでの「行けたら」という含みのある声とは、明らかに違う。
「知ってるんだ」とひなが言った。「じゃあみおに案内してもらえる?」
「……おすすめの頼み方とか、時間帯とかなら」
「十分! ていうかみお、和菓子詳しいの?」
「好きで、そのへんのお店はいくつか」
さやかが「みおって意外と食べ歩きしてるんだね」と言った。
みおが「和菓子だけです」と答えた。
「いいじゃん、そっちも組み込もう」
ひなが素早くスマホに何かを書き込んだ。
さやかが「よし、予定が固まってきた」と言った。
太秦が「なんか楽しそうになってきたな」と言った。
声に本音が滲んでいた。
央はそれを聞きながら、校門に向かった。
(行けたら行く。嘘ではなかった)
校門を出たところで、太秦が横に並んだ。
「行くでしょ」
断定の口調だった。
「……どうだろ」
「なに、ほんとに悩んでるの?」
「悩んでるというより」
央は少し考えた。
「考えてる」
「何を」
「……特に」
太秦は「それ答えてないじゃん」と言ったが、それ以上は聞かなかった。
いつもそういう加減が上手い。
しばらく並んで歩いた。
夕方の風が、少し生ぬるかった。
GWの手前特有の、春と初夏の境目の空気だった。
「葛城さんたちも来るし。さやかさんとひなちゃんも。なんか、いいじゃないか」
太秦がさらっと言った。
「葛城さんたちも、という言い方をするんだな」
「え、変だった?」
「別に変じゃない」
「……じゃあいいだろ」
太秦は頭の後ろを掻いた。
ソフトモヒカンのてっぺんが、夕陽に少し光った。
「おうくんが行けたらって言ったとき、葛城さんがちょっと見てたよ」
央は返事をしなかった。
「気づいてた?」
気づいていた。
廊下でひとつ目線が合った。
何かを確認するような目だった。
「……別に何も思わない」
「そうかな」と太秦が言った。
それだけだった。
太秦は続けなかった。
角まで来たところで、ふたりは立ち止まった。
「じゃあ、またGWに」
「うん」
「……おうくん」
太秦が珍しく、少し真顔になった。
「ちゃんと来いよ」
命令ではなく、確認のような言い方だった。
央は腕時計を撫でた。
「……考える」
「それ来るってことだろ」
太秦は笑って、自分の家の方向へ歩いていった。
最後まで振り向かなかった。
央は一人で帰り道を歩いた。
夕方の住宅街は、GW前だからか、いつもより人が多かった。
腕時計の文字盤を見た。
時刻は、四時を少し過ぎていた。
(梅晴堂)
笹塚からなら、渋谷は遠くない。
連休中に自転車で近くを通ったことがあった気もした。
行く気があるかといえば、ある。
行けたら行く、は、嘘ではなかった。
ただ、それ以上のことを今の自分が言葉にできるかどうか、分からなかった。
腕時計のリューズが、指の腹にあたった。
祖父から譲られた時計は、今日も冷たかった。
みおが「行けたら」と言ったときの、あの一拍の間。
あの目が合った瞬間を、あまり考えすぎないようにした。
明日から連休だ。
珈琲を飲んで、本を読む。
それで十分だ、と自分に言い聞かせながら、央は家の方向へ歩いた。
夕空が、少しずつ橙に変わっていた。
GWの前の、なんとなくの夕方だった。
その夜、図書委員のグループLINEに、朔から短いメッセージが届いた。
『GW期間中、図書室は5月1日と2日のみ短時間開放があります。委員の方は不要ですが、念のため共有します』
みおが先に返信した。
『ありがとうございます』
央も続けた。
『ありがとうございます。良い連休を』
宇陀さんから短い返信が来た。
『皆さんも良い連休を』
朔も『ありがとうございます』と送った。
みおからは、それ以上何もこなかった。
央はスマホを置いて、文庫本を手に取った。
読みかけの推理小説の続きを開いた。
ページを進めながら、ふと思った。
(連休明けに、葛城さんが何を読んでいるか、聞けるかもしれない)
委員の仕事で「好きな本を紹介していい」という話があった。
いつか、そういう話になるかもしれない。
文庫本に目を戻した。
主人公が川沿いを歩くシーンだった。
連休が明ければ、また図書室がある。
またホームルームがある。
また、隣の席がある。
それがどういうことなのか、今の央には整理がつかなかった。
ただ、悪くないとは思っていた。
ページが一枚、めくれた。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




