第六十五話 7月1日 215センチです
梅雨の晴れ間というのは、突然来る。
朝、空を見たとき、雲の隙間に青があった。
久しぶりの青だった。
湿度はまだ高かったが、光の質が違った。
今日だ、とみおは思った。
根拠はなかった。
でも、今日のこの空を見たとき、何かが動いた。
夏になる前に、と決めていた。
今日が、その日だという感覚があった。
朝食を終えてから、いつもより少し丁寧に支度した。
シュシュを選ぶのに少し時間がかかった。
いつもと同じものを選んだ。
(……今日にする)
玄関で靴を履きながら、もう一度思った。
今日にする。
それだけだった。
外に出ると、空気が梅雨よりも軽かった。
まだ湿度はあったが、光が澄んでいた。
こういう日の朝は、歩くのが少し好きだった。
歩きながら、もう一度だけ言葉を確かめた。
(198cmと言いましたが、本当は215cmです)
声には出なかった。
でも、唇が少し動いた。
言い方は、これでいいと思った。
回りくどくしない。
説明は、その後でいい。
まず事実を言う。
みおはそう決めた。
(……事実を言えば、あとは央さんが受け取る)
受け取った後どうなるかは、みおには分からなかった。
でも、受け取る前に怖がり続けるよりは、渡してしまう方がよかった。
それが、今日の朝みおが決めたことだった。
学校に着いてから、みおはずっと少し上の空だった。
授業は聞いていた。
ノートも取った。
でも、頭の半分がずっと別のところにあった。
(……どう言うか)
言葉は何度も考えた。
「198cmと言いましたが」という出だしは決まっていた。
その先をどう続けるか。
何度考えても、毎回同じ場所で止まった。
昼休み、さやかが「今日なんか上の空じゃない」と言った。
「……そうですか」
「そうですよ。何かあった?」
「……何かあるというより、何かしようとしています」
さやかが少し前のめりになった。
「何を」
「……今日、言おうと思っていることがあります」
「言おうと思っていること」
「……央さんに」
さやかが少し止まった。
それから何も言わなかった。
さやかが何かを言いかけた。
止まった。
代わりに「……頑張って」とだけ言った。
聞かなかった。
いつものさやかと少し違う引き際だった。
「ありがとう、さやか」
みおが言った。
さやかが「どういたしまして」と言って、弁当の箱を閉めた。
少し間があった。
「ねえ、みお」
「……はい」
「うまくいくといいね」
さやかが静かに言った。
うまくいく、の意味を、みおは正確には分からなかった。
でも、さやかの言い方は、責めでも応援でもなく、ただ願っているような声だった。
「わたしも、そう思います」
みおが返した。
さやかがそれを聞いて、少し笑った。
声は出なかったが、口元が動いた。
それを見て、みおも少し口元が緩んだ。
ふたりで弁当を食べた。
他の話をした。
いつもの昼休みだった。
でも、みおの頭の半分は、ずっと今日の放課後にあった。
さやかがみおを少し見た。
何か言いたそうだったが、やっぱり言わなかった。
(……さやかも分かっている)
何を言おうとしているかではなく、今日が特別な日だということが伝わっていた。
さやかはそういうことを、言葉より先に分かる人だった。
放課後、図書委員の当番があった。
今日は央とふたりの当番だった。
慧とほのかは別の曜日だった。
宇陀さんがカウンターにいた。
棚の整理を淡々とやりながら、みおは言葉を頭の中で確かめた。
(……198cmと言いましたが、本当は215cmです)
声に出してはいなかった。
でも何度か繰り返した。
(今年の健康診断で215cmでした。去年も210cmでした)
これを言った後、どうなるかが分からなかった。
怒られるかもしれない。
驚かれるのは確実だった。
他の反応は、想像しきれなかった。
(……引かれるかもしれない)
もう一度思った。
でも今日は、その先を少し考えた。
(……引かれても、言う)
言わないまま続けることの方が、今のみおには重かった。
引かれるかどうかよりも、言えないままでいることの方が、ずっと苦しかった。
それが分かったのは、今日の朝だった。
梅雨の晴れ間の空を見た瞬間だった。
央が別の棚から戻ってきた。
みおが棚の最後の一冊を戻した。
「終わりました」と央が言った。
「……はい、わたしも」とみおが言った。
宇陀さんがカウンターから顔を上げた。
「今日はお疲れ様でした」
「……ありがとうございました」
みおが答えた。
宇陀さんが少し、みおを見た。
何かを言おうとして、やめた。
いつもの宇陀さんだった。
(……言えると思う相手だから、悩む)
先週の宇陀さんの言葉を思い出した。
今日の空を見て今日に決めたのは、それが理由の一つでもあった。
みおが荷物を持って、図書室を出た。
央が後ろから続いた。
廊下に出ると、窓の向こうに夕方の光があった。
梅雨の晴れ間の光は、6月の重さを少し脱いでいた。
橙に近くて、でも夏の光よりはまだ柔らかかった。
ふたりで廊下を歩いた。
いつもの帰り道だった。
校舎の出口を出て、校庭の脇の道に入った。
(……ここで言う)
みおが決めた。
根拠は、また、特になかった。
ただここが、言う場所のような気がした。
図書室の帰り道で、人通りが少なくて、光が良かった。
それだけだった。
心臓が少し速かった。
気づいていたが、止める方法がなかった。
朝、「198cmと言いましたが」という言葉を何度も確かめた。
昼休みはさやかに「頑張って」と言われた。
当番中、棚の前で何度も言葉を繰り返した。
それだけのことを、今日一日かけてやってきた。
(……あとは、言うだけ)
みおが少し、自分に言い聞かせた。
言うだけ、は簡単ではなかった。
でも、今日ここまで来たなら、できる気がした。
みおが少し、足を遅くした。
「……央さん」
「……何ですか」
みおが止まった。
央も止まった。
振り返った。
みおが少し、空を見た。
それから央を見た。
「今日、身長のことを話してもいいですか」
央が少し間を置いた。
「……はい」
一言だった。
でも、急かさなかった。
みおが話し始めるのを、ただ待っていた。
みおが少し息を吸った。
「……198cmと言いましたが、本当は215cmです」
央が少し動かなくなった。
「今年の健康診断で215cmでした。去年も、210cmでした。1年で5センチ伸びました。今も成長期が続いています。学校の記録は198cmになっています。先生に毎年頼んで、そう書いてもらっています」
全部言った。
止まらずに言った。
止まったら言えなくなりそうだった。
央が静かにみおを見ていた。
しばらく間があった。
「……そうですか」
央が言った。
怒っているわけではなかった。
驚いているのかどうかも、みおには読めなかった。
「……怒りますか」
みおが聞いた。
央が少し間を置いた。
「……怒りません。でも、なぜ言わなかったんですか」
「……言いにくかったです」
「言いにくい、とはどういうことですか」
「198cmでも、十分驚かれます。それ以上だと思うと」
みおが少し、地面を見た。
「……珍しがられることは慣れています。でも、驚かれることと、引かれることは、少し違う。引かれることが、怖かったです」
央が少し、みおを見た。
「……俺が、引くと思っていましたか」
みおが少し考えた。
「……引かない気がしていました。でも、気がする、と確信する、は違います」
央が少し間を置いた。
「……そうですね」
否定しなかった。
肯定でもなかった。
ただ、そうだと言った。
みおが少し、央を見た。
「怒って、いませんか」
「怒っていません。ただ」
央が少し止まった。
「……俺も、言っていないことがあります」
みおが少し、央を見た。
「わたしに、ですか」
「みおに、です」
央が少し、空を見た。
梅雨の晴れ間の光が、斜めに差していた。
「……背の高い人が、好きでした。ずっと」
みおが動かなくなった。
「それを、誰かに言ったことはなかったと思います。みおに言うべきかどうか、ずっと考えていました。言ったら、みおが背のことを気にしている理由にされると思って。そういう理由で付き合っているわけじゃない、と思われたくなかった」
央がそれだけ言って、前を向いた。
みおが少しの間、動かなかった。
何かを頭の中で繰り返していた。
「背の高い人が、好きでした。ずっと」という言葉だった。
(……ずっと、と言った)
ずっと、という言葉の重さを、みおは少し考えた。
央は言葉を大げさに使う人ではなかった。
「少し」とか「分かった」とか「そうだ」とか、必要なことだけ言う人だった。
その人が「ずっと」と言った。
(……そうか)
みおが少し、空を見た。
梅雨の晴れ間の光が、まだ斜めに差していた。
自分の背が高いことを、ずっと面倒に思っていた。
気にしないようにしていた。
気にしないようにしながら、実は気にしていた。
でも今、初めて思った。
(……よかったのかもしれない)
言葉に気づいて、少し間を置いた。
「……そうですか」
それだけ言った。
声が、少し小さかった。
央が少し、みおを見た。
「……みおが話してくれて、よかったと思います」
みおが何も言わなかった。
少し経ってから、歩き出した。
央も歩き出した。
並んで歩いた。
少しの間、何も言わなかった。
校門を出た。
住宅街の路地に入った。
夕方の光が、道の上に伸びていた。
みおが少し、前を向いたまま言った。
「……わたしも、よかったと思います」
央が少し止まった。
みおは止まらずに歩いた。
(……言った)
215cmのことも、よかったということも。
どちらも今日、言えた。
足元に自分の影が伸びていた。
長い影だった。
梅雨の晴れ間の夕方は、影を長く伸ばした。
今日の自分の影が、少し好きだった。
央が追いついてきた。
みおの隣に並んだ。
どちらも何も言わなかった。
でも、さっきまでと空気が違った。
重いものが減った、というより、ちゃんと置いた、という感じだった。
持ち続けていたものを、渡した。
受け取ってもらえた。
(……受け取ってもらえた)
それが今日、一番大きいことだった。
みおが少し、隣を見た。
央が前を向いて歩いていた。
表情は、いつもとあまり変わらなかった。
でも、左の口角のあたりが、少し緩んでいる気がした。
(よかった、と思っているのかもしれない)
確信はなかった。
でも、そう思いたかった。
そして、そう思っていいと思った。
ふたりで、路地を歩いた。
夕方の光が長く伸びていた。
そのとき、校門の少し先に太秦がいた。
自転車で来ていた。
帰り道の途中に寄り道をしていたのか、コンビニの袋を持っていた。
ふたりに気づいていた。
太秦は、ふたりが歩いてくるのを少し離れた場所から見ていた。
(……葛城さんが何か言った)
声は聞こえなかった。
でも、雰囲気が少し前と違った。
おうくんが止まった。
葛城さんが歩き続けた。
おうくんが少し経ってから歩き出した。
何が起きたかは分からなかった。
でも、何かが終わって、何かが始まったような空気だった。
(……あ、言ったんだ)
太秦は頭の後ろを少し掻いた。
何を言ったかは分からなかった。
でも、言ったのだということは、なんとなく分かった。
小学生の頃、おうくんが「背の高い人が好き」と言っていたのを太秦は覚えていた。
あのときはまだ小学生だった。
他の話の流れで、ぽろっと出てきたような言い方だった。
おうくん自身は大したことを言ったつもりがなかったかもしれない。
でも太秦は覚えていた。
ずっと覚えていた。
葛城さんと初めて並んでいるのを見たとき、「あ、これだわ」と思った。
確信に近かった。
でもそれは、太秦が言うことではなかった。
おうくんが自分で動くまで、黙っていた。
プレゼントを一緒に選びに行った日も。
傘の話をさやかさんにした日も。
ただ、おうくんの隣にいた。
(……よかったな)
太秦は自転車のハンドルを握った。
声には出さなかった。
でも、そう思った。
胸の中でそれだけ言って、あとは何も考えなかった。
ふたりが路地の角を曲がって、見えなくなった。
太秦が自転車に乗った。
コンビニに寄ろうと思った。
肉まんの季節ではなかったが、なんとなく何か買いたかった。
ペダルを踏みながら、もう一度思った。
(……よかったな、おうくん)
声には出さなかった。
これからも出さないと思った。
出す必要がなかった。
おうくんは知らなくていい。
ただ、誰かが知っていれば、それで十分だった。
梅雨の晴れ間の空が、まだ少し青かった。
夏が、もうすぐそこにあった。
梅雨の終わりは、いつも突然だった。
でも今年は、その前に大事なことがひとつ終わった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




