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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第六十四話 6月23日 言えなかったことの、言い方


 図書委員の当番は、週に一度か二度ある。


 棚の整理、返却された本の確認、新着本のラベル貼り。

 やることは毎回だいたい同じだった。

 でもみおにとって、この時間は好きな時間のうちに入っていた。


 今日は棚の奥の方の整理だった。

 背の順に並んでいるはずの本が、何冊かずれていた。

 みおが一冊ずつ確認しながら並べ直した。


 そのとき、(けい)が入ってきた。


「先輩、今日も当番ですか」


「……そうです」


「俺も当番です。よろしくお願いします」


 慧が荷物を置いてから、棚の方を見た。

 みおが上の方の棚を確認していた。


 少し間があった。


「……先輩、一番上の棚、届きますか」


 みおが手を伸ばした。

 一番上の棚まで、楽に届いた。


「……届きます」


「すごい」


 慧が少し声を出した。

 感嘆というより、確認のような口調だった。


「……何ですか」


「いや、俺も背は高い方なんですけど、一番上は背伸びしないといけなくて。先輩は普通に届くので」


放出(はなてん)くんは、190cmでしたか」


「そうです。でも先輩はさらに上で」


 慧が少し止まった。

 自分が何を言いかけたか気づいたのか、「……まあ、届くんですね」とだけ言った。


 みおが棚に本を戻した。


 ほのかがカウンターの方から来た。

 手に本を何冊か持っていた。


「けいくん、何してるの」


「先輩に棚のこと聞いてた」


「また先輩に頼んだの」


「頼んでない。聞いただけ」


「どういう違いがあるの」


「俺が届いても、先輩に聞いたのと違うだろ」


 ほのかが少し首を傾けた。


「……どういう意味?」


 慧が少し止まった。

 何か言いかけて、「いや、何でもない」と言った。


 ほのかが「変なの」と言って、本を棚に戻しに行った。


 みおが棚の整理を続けながら、少し聞いていた。


(……放出くんの「俺が届いても先輩に聞いたのと違う」は)


 どういう意味なのかは、なんとなく分かった。

 でも、分かったからといって何も言えなかった。


 そういうことは、本人が気づいた頃に動くものだった。



 棚の整理が一段落して、みおは少し一人になった。


 (おう)は今日、別の棚の確認をしていた。

 慧とほのかはカウンターの方で作業していた。

 宇陀(うだ)さんは事務室に入っていた。


 みおが窓の外を見た。

 梅雨の空は低く、白かった。


(……身長のこと、央さんにはいつか言わないといけない)


 いつかではなく、もうそろそろ、という感覚が先週くらいからあった。


 自称198cmで、本当は215cmだ。

 学校の公式記録は198cmになっている。

 養護教諭に頼んで、毎年そうしてもらっている。


 付き合っている相手に、嘘をついていることになる。


 みおは唇を少し噛んだ。

 嘘をついているつもりはなかった。

 でも、知っている事実を言っていないことは、嘘に似ていた。


 今年の健康診断で215cmになった。

 一年で5センチ伸びた。

 1年生のとき210cmで、それでも十分驚かれていた。

 それが215cmだと知ったとき、みおは少し天井を見た。


(……これ以上は、止まってほしい)


 止まるかどうかは、みおには分からなかった。


 198cmでも十分、珍しがられる。

 それ以上だと分かったら、どうなるか。

 驚かれるのは分かっていた。

 引かれるかどうかは、分からなかった。


(……央さんは、引かない気がする)


 そうも思った。

 この人は、みおの背が高いことを一度も「高すぎる」とは言わなかった。

 気にした様子を見せたことがなかった。


 でも、それと「本当は215cmです」と告げることの間には、距離があった。

 どう切り出せばいいか。

 どのタイミングがいいか。

 何度か考えて、何度か答えが出なかった。


(……言い方が、分からない)


 みおは少し、自分の手を見た。

 棚に触れた指先が、ほんの少し冷えていた。

 図書室は夏でも少しひんやりしている。


 健康診断の後、央に「今年の身長、聞きますか」と聞いたことがあった。

 央が「聞いていいなら」と返した。

 みおが「まだ、少し待ってください」と言った。


 あれから数ヶ月が経った。

 その後、央は一度も聞いてこなかった。

 みおが「待ってください」と言ったから、待っていた。


(……ずっと待っていてくれた)


 そう思うと、今が「もうすぐ」である理由が少し分かった気がした。

 待たせすぎていた、という気持ちではなかった。

 ただ、そろそろ言えるかもしれない、という感覚が積み重なっていた。


 誕生日に本と菓子をもらった。

 図書委員の当番で、毎週会った。

 雨の日に一緒に帰った。

 梅晴堂に一緒に行った。


 そういう日々の中に、まだ言えていないことが一つある。

 それだけが、みおの中でまだ片付いていなかった。


 窓の外で、雨が少し落ち始めた。

 細い雨だった。


 もう一度、棚を見た。

 本が一列、きれいに並んでいた。

 ここは整っていた。


 自分の中にある、まだ整っていないことを、みおは少しの間見ていた。



 作業が終わって、慧とほのかが先に上がった。


「お先に失礼します」とほのかが言い、慧が「ありがとうございました」と言った。

 ふたりが出ていくのを、みおが見送った。


 図書室にはみおと央と、事務室から戻ってきた宇陀さんだけになった。


 宇陀さんがカウンターの中を整えながら、静かに言った。


「今日は蒸しますね」


「……そうですね」


「梅雨の終わりかけが、一番湿度が高い気がします」


「そうかもしれません」


 みおが棚の前で少し止まった。


「……宇陀さんは、言いにくいことを言うとき、どうしますか」


 宇陀さんが手を止めた。

 みおを見た。


「言いにくいこと、ですか」


「相手に伝えるべきことがあって、でもどう言えばいいか分からないとき、です」


 宇陀さんが少し考えた。


「……わたしはあまり、溜めない方です」


「溜めない、ですか」


「早く言ってしまう方が、自分が楽になるので。良くも悪くも」


 みおが少し、棚を見た。


「……言いにくい内容でも、ですか」


「内容によります。でも、言えなくて引きずっている状態の方が、わたしには辛い」


「……そうですか」


「……言えると思う相手に、言えていないことがあるのですか」


 みおが少し止まった。


「……あると思います」


「言えると思う、から悩んでいるのかもしれませんね」


 宇陀さんがそれだけ言って、作業に戻った。

 それ以上は聞かなかった。

 いつもの宇陀さんだった。


(言えると思うから、悩んでいる)


 みおが頭の中で繰り返した。

 言えない相手には、そもそも悩まない。

 央に言えると思っているから、どう言うかを考えている。


(……諦めていない)


 諦めていないから、今日もここで考えていた。

 それが、答えの一つだった。


 窓の外の雨が、少し強くなった。

 みおが傘を確認した。

 今日は大きい傘を持ってきていた。

 去年ならこういう日に傘の心配をしていた。

 今年は、帰り道に誰かがいた。


(……今日、言おうか)


 と思った。

 すぐに「今日ではない」と思い直した。

 まだ、言い方が決まっていなかった。

 でも「今日ではない」と思い直したのは、「近いうちには言う」という意味でもあった。


 みおが棚の最後の一冊を戻した。

 整った。



 帰り道は、ふたりだった。


 雨が降っていたので、傘を開いて歩いた。

 今日は、みおが大きい傘を持ってきていた。

 自分の背に合った、少し大きめの傘だった。

 央は折りたたみ傘だった。


 ふたりで並んで歩きながら、少しの間何も言わなかった。


 梅雨の夕方は、音が違った。

 雨が地面に当たる音と、傘に当たる音が重なって、街の音が薄くなった。

 みおが好きな時間帯だった。


 校門を出て、住宅街の路地に入った。

 この道はいつも、帰りに通る道だった。

 去年の今頃は、この道を並んで歩いていなかった。


(今年は、並んで歩いている)


 当たり前のことだった。

 当たり前になったのが、いつ頃からだったか、みおには正確には分からなかった。

 気づいたら当たり前になっていた。


 それが少し、不思議だった。

 一年前のみおに「来年の今頃、一緒に帰る人ができている」と言っても、

 信じなかったかもしれない。


 でも、今はここにいた。


 しばらく歩いてから、央が少し声を出した。


「……みおは、背のことを気にしていますか」


 みおが少し止まった。

 止まらないように歩き続けたが、一瞬、足が遅くなった。


「……気にしているのと、気にしていないのと、両方あります」


 央が少し、みおを見た。


「両方、ということは、どういうことですか」


「気にしている部分と、気にしていない部分があります」


「……どちらが多いですか」


 みおが少し考えた。


「……日によります」


「今日は、どうですか」


 みおが少し、雨の中を見た。


「今日は、気にしている方が少し多いかもしれません」


 央が「……そうですか」と言った。

 それ以上は聞かなかった。


(……聞かない)


 央はいつもそうだった。

 踏み込めるところまで聞いて、そこから先は待った。


 それが、みおには少し、ありがたかった。

 急かされないことが、みおの「言えなかったこと」が少しずつ形になるための時間を作っていた。


「……言えていないことがあります」


 みおが言った。


 央が少し、みおを見た。


「俺に、ですか」


「……はい」


「……聞いていいですか」


「今日は、まだです」


 央が前を向いた。


「分かりました」


 それだけだった。

 それ以上は聞かなかった。

 急かさなかった。


 みおが少し、傘の柄を持つ手に力を入れた。

 今日ではない。

 でも、もうすぐだった。



 駅の近くで、少し雨が強くなった。


 ふたりで軒下に入った。

 みおが傘を閉じて、雨粒を払った。


 央が腕時計を少し見た。


「次の電車、4分後です」


「……ここで待ちます」


「……そうですね」


 軒下は狭くはなかったが、ふたりで立つとそれなりに近かった。

 みおが少し横を向いた。

 央が前を向いていた。


「……央さん」


「何ですか」


「聞いてもいいですか」


「……何でしょう」


 みおが少し間を置いた。


「……身長の話を聞こうと思ったのは、今日ですか」


 央が少し止まった。


「……違います」


「いつ頃からですか」


「聞こうと思ったことは、何度かありました。でも、みおが言いたくなるまで待った方がいいと思っていました」


 みおが少し、横の壁を見た。


「……なぜですか」


「みおが気にしている、というのは分かっていました。でも、気にしていることを急かすのは違うと思った」


(……分かっていた)


 こちらが言っていないのに、分かっていた。

 見ていたから分かった、ということだった。


「……気づいていましたか」


「背の話を、みおから聞いたことがないので。何かあると思っていました」


「……そうですか」


「……あります、か」


 みおが少し、央を見た。

 央が少し、みおを見た。


「……あります」


 みおが答えた。


「待ちます」


 央が短く言った。

 その言葉は、「今日ではなくていい」という意味だった。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。


 みおが前を向いた。

 雨が、軒から落ちていた。


(……言い方は、まだ分からない)


 でも、言うことは決まっていた。

 決まったのは今日ではなかった。

 でも、今日の「待ちます」という一言で、もう少し早くなった気がした。


「言えると思う相手に、言えていないことがある」


 宇陀さんが静かに言っていた。

 央は少し間を置いてから「待ちます」と答えてくれた。


 ふたりとも、急かさなかった。

 それが今日、みおの中で何かを少し動かした。


「もう少しだけ、待ってください」


 みおが言った。


 央が少し、みおを見た。


「……少し、というのはどのくらいですか」


「……近いうちに」


「分かりました」


 返事はそれだけだった。

 でも、央の声の中に何もないわけではなかった。

 みおには分かった。


 4分が、少しずつ経っていった。


 雨の音が、少し変わった。

 軒から落ちる水が、地面に溜まり始めていた。

 梅雨の夕方の匂いがした。


 みおが少し、空を見た。

 軒の向こうに、白い空があった。

 雲が低かった。


(……もうすぐ、梅雨が明ける)


 梅雨が明けたら夏になる。

 夏になる前に、言おうと思った。


 それが今日決まったことだった。

 タイミングでも、言い方でもなかった。

 「夏になる前に」という、自分の中の期限だった。


 央が隣に立っていた。

 腕時計を見て、また前を向いた。


「電車が来ます」


「……はい」


 ふたりで傘を開いて、軒下から出た。

 雨の中を、駅の入口まで歩いた。

 距離は短かったが、傘が並んだ。


 みおが改札の前で少し立った。

 央が振り向いた。


「……また明日」


「はい。また明日」


 それだけだった。

 でも、それで十分だった。


 改札を通りながら、みおは思った。


(……夏になる前に、言う)


 今日決めたことが、一つあった。

 言い方は、まだ決まっていなかった。

 でも、いつ言うかは決まった。

 それだけで、今日はよかった。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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