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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第六十三話 6月12日 去年の梅雨は、こうじゃなかった


 朝、教室に入ると、窓の外が白かった。


 雲が低かった。

 梅雨の気配は先週からあったが、今朝は空気の重さが違った。

 湿度が肌に貼りついてくるような、6月の中旬の朝だった。


 (おう)は席につきながら、少し外を見た。


(……去年の今頃)


 去年の6月の中旬に何をしていたか、少し考えた。


 思い出した。

 みおの兄のことを引きずっていた頃だった。


 みおと放課後に帰る場面を目撃して、「あの人が彼氏か」と思っていた頃。

 聞けなくて、でも気になっていた。

 図書委員の当番がある日だけ、みおと話せる理由ができると思っていた頃。


(……今は、そういうことがない)


 央は腕時計を少し撫でた。

 文字盤が、曇り空の光を反射した。


 今は隣に座っているだけでいい。

 それが去年と今年の、一番の違いだった。



 みおが席についた。


 夏服だった。

 衣替えが今週から始まっていた。

 白いシャツで、首元は詰まっていた。

 袖は長くはなかったが、露出が増えるわけでもなかった。

 去年の夏服と同じ方向性で、ただ今年の方がみおの慣れが感じられた。


 去年の衣替えのとき、みおはシャツのサイズについて少し困っていた。

 既製品の丈では足りないことがある、という話を図書室で少しだけ聞いた気がした。

 今年のシャツは、丈がちゃんと収まっていた。


(……対応したのか)


 あのとき何か言えばよかったのかどうか、正直よく分からなかった。

 でも今年のみおが困っていないなら、それでよかった。


 みおが鞄を机にかけながら、少し央の方を見た。


「……おはようございます」


「おはようございます」


「今日、雨になりそうですか」


 央が窓を見た。


「……昼過ぎには降るかもしれません」


「……折りたたみ傘、持ってきました」


「……そうですか」


 みおが前を向いた。

 それだけだった。

 短いやりとりで、でも央には十分だった。


(……去年の今頃、傘の話をみおとしたことはなかった)


 今は何でもない話として傘の話ができる。

 それも、去年と今年の違いだった。



 昼休み、さやかがみおの席に来た。


 弁当を持ったまま「ちょっといい?」と言って、みおの隣の席を引いて座った。

 みおが「どうぞ」と言った。


「今日、雨降りそうだね」


「降ると思います」


「この季節になると思い出すな、去年の6月のこと」


 みおが少し、弁当箱のふたを閉じる手を止めた。


「……何を思い出しますか」


「みおがさ、傘1本で帰ってたやつ。6月末の」


 みおが少し間を置いた。


「……あれは、驚きました」


「でしょ。急に雨降ってきてさ、私もひなも傘あったのに、みおが「先に行っていいです」って言い張るから」


「さやかとひなが気を遣ってくれているのは分かっていました。でも、いつも気を遣わせるのが申し訳なくて」


「それがまあ、みおらしいというか」


 さやかが弁当のおかずをひとつ食べた。


「あの日のこと、後から聞いたんだけど」


「……何をですか」


勢多(せた)くんも同じ方向で帰ってたんでしょ。で、傘1本で」


 みおが少し止まった。


「……どこで聞きましたか」


太秦(うずまさ)くんから。あの日の話をしてたとき、さらっと言ってた」


「……そうですか」


「勢多くんも覚えてたの? あの日のこと」


 みおが少し、弁当の中を見た。


「覚えていると思います」


「どうして分かるの」


「一度、似た話をしたことがあるので」


 さやかが少し前のめりになった。


「どんな話」


「……どれくらい近かったか、という話を少しだけ」


「え、ちゃんと話したの?」


「ちゃんとかどうか、分かりませんが」


 さやかが弁当を机に置いた。

 両手を重ねて、みおをまっすぐ見た。


「みお、もうちょっと詳しく教えてよ」


「さやかは、いつもそうやって詳しく聞こうとします」


「そりゃあそうよ。みおが自分から言わないから」


 みおが少し、さやかを見た。


「……あの日は、傘がひとつ分の距離でした」


 さやかが少しの間、黙った。

 それからゆっくり前を向いた。


「あー、……もう、それで十分だわ」


「……詳しく聞かないんですか」


「聞かなくていいもの、あるよ。そう思い直した」


 さやかが笑った。

 声は出なかったが、目が細くなった。


 みおが少し、弁当に戻った。

 耳が少し温かかった。

 聞かれなかったのが、少しだけ助かった。



 昼過ぎ、予報通りに雨が降り始めた。


 窓に雨粒が当たる音が、教室に低く響いた。

 梅雨の雨は激しくはなかったが、しっかりと降っていた。


 みおが少し窓の外を見た。


(……雨の日は、静かになる)


 昔からそうだった。

 雨の日は人の動きが少し鈍くなる。

 廊下の音も、外の声も、薄くなる。


 こういう日の図書室は特に静かだった。

 みおが図書委員の仕事を好きな理由のひとつが、梅雨の図書室だった。


 授業が終わってから、みおは窓の外をもう一度見た。

 まだ降っていた。

 折りたたみ傘を持ってきていた。

 今日は大丈夫だった。


 去年の今頃は、傘のことをもっと面倒に思っていた。

 傘を差すと目立つ。

 大きい傘を持てばよいが、荷物が増える。

 折りたたみは補助にはなるが、自分の背だと傘の外に出る部分が多い。


 今もそれは変わらなかった。

 でも今は、雨の日に誰かと一緒に帰る経路がある。

 それがあるとないとでは、気持ちの持ちようが違った。



 放課後、図書室に行くと、(けい)とほのかがすでに来ていた。


 慧が窓の外を見ながら「雨だね」と言った。

 ほのかが「さっきから言ってるね、それ」と返した。

 慧が「いや、なんか雨の日の図書室って落ち着くなと思って」と言った。


 みおが棚の整理を始めながら、そのやりとりを聞いていた。


「なんかここ落ち着くな、ってずっと思ってたんだよ。普段より静かな気がして」


 慧がみおの方を見た。


「先輩も、そう思いますか」


「……思います」


「なんで静かになるんですかね」


「雨の音がするからじゃないの」


 ほのかが少し肩をすくめた。

 慧が「それはそうなんだけど」と前置きしてから、少し考えるように窓を見た。


「それ以外に、何かある気がして」


 みおが少し考えてから口を開いた。


「……雨の日は、静かで、人が減るので」


「人が減る?」


「外出を控える人が増えます。図書館に来る人の数が変わります。ここも同じだと思います」


 慧が少し頷いた。


「あ、そういうこと。人が少ないから静かなのか」


「……それだけではないと思いますが、一つの理由だと思います」


「なるほど。勉強になります」


「けいくん、そんなこと考えてたの」


 ほのかが少し驚いたように慧を見た。


「考えてたよ」


「普段考えてなさそうに見えるから」


 慧がノートを持ったまま「失礼だよそれ」とほのかに言った。


 みおが棚に本を戻しながら、少し聞いていた。


(……去年の今頃)


 と思った。

 去年の図書委員のこの時期には、(さく)やことねが2年生だった。

 今は、自分たちが2年生になっていた。


 慧とほのかのやりとりを聞きながら、去年の朔と自分たちの関係を少し思い出した。

 朔は静かで、でも気づいていることが多い人だった。

 今の慧は朔とは全然違う。

 でも、図書室に自分の場所を見つけようとしているのは似ていた。


(……先輩というのは、こうやって後輩を見るのか)


 去年は見られる側だったが、今は少し、見る側になっていた。



 央が作業を終えて戻ってきた。


「……終わった」

「……終わりましたか」


 みおが言うより早く、央が言った。


 ふたりがほぼ同時に言ったことに、慧が気づいた。

 ほのかも気づいていた。

 ふたりとも何も言わなかった。


 宇陀(うだ)さんがカウンターから「今日はお疲れ様でした。雨ですから気をつけて帰ってください」と言った。

 みおが「ありがとうございます」と答えた。


 慧が「先輩たち、一緒に帰るんですか」と聞いた。

 単純な確認だった。

 悪気はなかった。


 みおが少し央を見た。

 央が少しみおを見た。


「……同じ方向なので」


 みおが答えた。


「そうなんですね」


 慧がそれだけ言って、ほのかと荷物をまとめ始めた。

 ほのかが「お先に失礼します」と言った。

 ふたりが出ていった。


 宇陀さんがカウンターで本を閉じた。


「最近、よく雨が降りますね」


 宇陀さんが静かに言った。

 みおが「はい」と答えた。


「去年のこの時期も、雨が多かった気がします」


 みおが少し、宇陀さんを見た。


「覚えていますか」


「……図書室は雨の日の方が静かで好きなので、よく覚えています」


「そうですか」


葛城(かつらぎ)さんたちも、同じでしたか」


 みおが少し、央を見た。

 央が少し、みおを見た。


「……去年は、まだ違いました」


 央が静かに言った。

 宇陀さんが「そうですか」と言って、本棚の方を向いた。

 それ以上は聞かなかった。


 聞かないところが、宇陀さんらしかった。



 図書室を出ると、廊下にまだ雨の音が聞こえた。


 ふたりで廊下を歩きながら、みおが折りたたみ傘を出した。


「……一本しかないですが」


「俺も持ってきました」


 央が鞄から折りたたみ傘を出した。

 みおが少し見た。


「……今年は、ちゃんと持ってきたんですね」


「去年、役に立てなかったことが気になっていて」


 みおが止まった。


「……去年は役に立ちませんでしたか」


「傘は1本しかなかった。みおが大きくて、半分しか入れられなくて」


「でも、傘1本で帰りました」


「……それは分かっています」


「……入れなかったのではなく、入っていました」


 央が少し止まった。

 みおを見た。


(……そういう言い方をする)


 事実の受け取り方が、央とは少し違う。

 そういうところが、みおらしかった。


「そうでしたか」


「……そうでした」


 みおが少し前を向いた。


「今年は傘が2本あるので、気にしなくて大丈夫です」


「……そうですね」


 ふたりで傘を開いて、並んで外に出た。

 雨は細くなっていたが、まだ降っていた。


 校門の辺りで、横に並んだ。

 傘と傘の間が少し近かった。

 でもそれは、去年のような意味での「近さ」ではなかった。


 みおが少し上を見た。

 雨粒が傘の布に当たって、小さな音を立てていた。


(去年の梅雨は、こうじゃなかった)


 去年は傘1本で、端の方に入って歩いた。

 今年はふたりぶんの傘がある。


 何が変わって、何が変わらなかったか。

 うまく言葉にはならなかった。


 ただ、今日の帰り道には続きがあった。

 それだけで、十分だった。


「……去年、この時期に傘を1本しか持っていなかったのが、今でも少し気になっています」


 歩きながら、央が言った。


 みおが少し央を見た。


「……今も気になっていますか」


「持っていけばよかった、と思っています」


「でも、今日は持ってきました」


「そうです。だから、今日はいいんです」


 みおが少し前を向いた。


「央さんは、そういうことを引きずりますか」


「……引きずると言うより、覚えているんだと思います」


「……違いは何ですか」


 央が少し考えた。


「引きずるのは次に影響することで、覚えているのは次に活かすことだと思っています」


「……今日、傘を持ってきたのが「次に活かした」ということですか」


「そうなりますね」


 みおが少し、傘を持つ手を見た。


(……こういう人だ)


 去年の「役に立てなかった」という気持ちを、今日の傘一本に変えた。

 大げさでもなく、説明もしなかった。

 ただ今日、折りたたみ傘を持ってきた。


 それだけのことが、みおには少し大きく感じられた。


「ちゃんと、届いていました」


 みおが言った。


「……何がですか」


「去年の傘も、今日の傘も」


 央が少し止まった。

 歩きながら、みおを見た。

 みおが少し前を向いたまま歩いていた。


 央が「……そうですか」と言った。

 短い返事だったが、声の中に何かがあった。


 みおには聞こえていた。



 駅に向かう道の途中で、央が少し声を出した。


「……ことねちゃんからLINEが来ていました」


 みおが「……何と」と聞いた。


「誕生日おめでとうを、みおに伝えておいてほしいと、だそうです」


「……ありがとうございます。遅れて届きましたか」


「少し前に来ていました。見るのが遅くて」


 みおが少し笑った。

 聞こえないくらいの小さな笑いだったが、央には分かった。


「……ことねちゃんらしいですか」


「はい。央さんに頼むところが」


「……確かにそうですね」


「ことね先輩には、LINEで直接お礼を送ります」


「そうしてください」


 雨の中を歩いた。

 傘が少し揺れた。

 梅雨の雨は、相変わらず細く、しっかりと降っていた。


 去年の今頃は、こういう帰り道がなかった。

 去年は、傘1本で帰ることが精一杯だった。


 今年は、傘が2本あった。

 並んで歩ける人がいた。

 それが今年の6月だった。


 央が腕時計を少し見た。

 文字盤に雨粒が一滴落ちて、すぐに流れた。


(……去年の梅雨は、こうじゃなかった)


 と央も思っていた。

 でもその言葉は、声には出なかった。

 出さなくてよかった。


 ふたりで、雨の中を歩いた。

 梅雨の6月の夕方が、静かに続いていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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