第六十一話 6月1日 去年の今日のこと
6月1日は、学校の創立記念日で休みだった。
授業も委員会もない。
ただ、1日だけ空く。
央は朝、いつもより少し遅く起きた。
6時に目が覚めたが、そのまま布団の中にいた。
特に急ぐことがなかった。
珈琲を入れて、窓の外を見た。
6月の空は曇っていた。
梅雨の前の、少し重たい空気だった。
(……去年の今日、何をしていたか)
少し額に手を当て、思い出した。
太秦と出かけた。
渋谷のいくつかの店を回って、みおへのプレゼントを探した。
どら焼きと本に決めたのは、あの日だった。
みおが「なんで、これが好きって知ってたんですか」と聞いた。
央が「GWのときに話していたので」と答えた。
あれから一年経った。
今年もみおの誕生日が近づいている。
珈琲を飲み終えてから、央はスマートフォンを開いた。
太秦からのLINEが来ていた。
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太秦:今日ひま?
太秦:去年もこの日出かけた気がするけど
太秦:何か買いに行く用事ある?
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央が少し考えた。
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央 :用事はある
央 :また付き合ってもらえるか
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太秦:やっぱりね
太秦:何時にする
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待ち合わせは昼前に設定した。
腕時計を手首に通しながら、央はもう一度考えた。
(……去年と同じにするか、違うものにするか)
それが今日の問いだった。
待ち合わせ場所の駅前に出ると、太秦がすでにいた。
白いTシャツに、深い緑色のパンツ。
スニーカーは先週買ったばかりのものだ、と以前言っていた。
「今年も来た」
太秦が言った。
「……来ました」
「去年も、ここで待ち合わせたよな」
「そうでしたね」
「あのとき、おうくんって何を考えてたの」
央が少し間を置いた。
「……みおが好きなものを、渡したかったので」
「それ今年も同じじゃん」
「……そうですね」
太秦が少し笑った。
並んで歩き始めた。
「今年も同じにする? 去年みたいに」
「そこを考えていました」
「去年はどら焼きと本だったよな。正解だったと思うけど」
「……去年の正解が今年も正解とは限らないと思います」
太秦が「おうくんらしい言い方だな」と言った。
「……どういう意味ですか」
「去年うまくいったことをそのままやれない、ってやつ。慎重というか、丁寧というか」
央が少し、太秦を見た。
「太秦は、同じにする方ですか、変える方ですか」
「俺は変える方。去年と同じプレゼントって、ちょっと手を抜いた感じがしてね」
「……去年喜ばれたなら、同じものでもいい気もしますが」
「でも「去年と同じ」って言ったら引かれない?」
央が少し考えた。
「……みおなら引かないと思います」
「……なぜですか」
「去年受け取ったとき、すごく丁寧に包みを開けていました。大事にしてくれる人だと分かりました」
太秦が少し黙った。
「……おうくん、そういうの覚えてるの」
「見ていましたから」
「そっか」
太秦が頭の後ろを少し掻いた。
いくつかの店を回った。
和菓子の専門店。
本屋。
央が以前、珈琲豆を買ったことがある店の近く。
立ち寄った和菓子店の前で、央は少し足を止めた。
梅晴堂ではなかった。
みおが通う店のことは、央も知っていた。
「梅晴堂とは別の場所がいいと思っています」
「どうして」
「梅晴堂はみおが自分で選ぶ場所です。俺が代わりに選ぶのは、少し違う気がして」
太秦が少し考えた。
「なるほどね。みおさんの場所に踏み込みすぎない、ってこと」
「……そういうことかもしれません」
「おうくん、細かいな」
「……細かいですか」
「細かい。でも悪くない」
太秦が笑った。
央が小さく頷いた。
別のあんこ系の菓子を扱う店があった。
季節の上生菓子が並んでいた。
梅晴堂とは違う味で、でもみおが好きな系統だった。
「こっちにする」
「うん、いいんじゃない。去年と少し変えた感じが出る」
「……去年のどら焼きは残します。こちらを足して」
「足すの?」
「去年喜んでいたから、なくすのは違う気がして」
太秦が少し止まった。
「……おうくん、それ、去年の正解も今年の正解も両方使うってこと」
「そうなるかもしれません」
「変わったようで変わってない、か」
「変えたのは菓子だけです。本は別に考えます」
太秦が「まだあるの」と言った。
「……本を追加しようと思っています」
「去年も本を渡してたじゃん」
「……去年と同じ作家で、まだ渡していない本があります」
太秦が少し眉を上げた。
「去年と同じ作家の、別のやつってこと」
「みおが「別の本があれば読みたい」と言っていました。図書委員の当番のときに」
「ちゃんと聞いてたんだ」
「……聞いていましたから」
太秦がもう一度頭の後ろを掻いた。
「おうくん、それ全部で何個になる」
「菓子がふたつと、本が一冊です」
「多くない?」
「……多いですか」
「葛城さんが喜ぶかどうかで言えば喜ぶと思うけど」
「それで十分です」
太秦が少し笑った。
笑いながら何かを言いかけて、止めた。
央は少し、太秦を見た。
太秦がたまにそういうことをする。
最後まで言わなかったが、何を言おうとしたかは、なんとなく分かった気がした。
本屋に入った。
棚を確認した。
みおが以前言っていた作家の本があった。
文庫版で、去年渡した一冊とは別のタイトルだった。
「……これにします」
「去年も同じ棚で選んでたよな、確か」
「似た場所でしたね」
「毎年ここに来ることになるの?」
央が少し考えた。
「……なるかもしれません」
「それはそれで面白いな」
太秦が笑った。
目が細くしなるような笑みだ。
会計を済ませて、ふたりは外に出た。
昼を少し過ぎた頃で、空が少し明るくなっていた。
雲の合間から光が差していた。
6月の光は、5月より少し重かった。
「去年、ここで話したよな」
太秦がベンチのある広場を指した。
「……話しました」
「あのとき、おうくんが「みおに渡すかどうか分からない」って言ってたんだよ。覚えてる?」
央が少し考えた。
「……言ったかもしれません」
「言ってた。「図書委員として気を遣っただけかもしれない」って」
「……そうでしたか」
「今は?」
央が少し、太秦を見た。
「今は、渡したいと思っています」
「理由は?」
「……気を遣っているわけじゃないので」
太秦がまた頭の後ろを掻いた。
「成長したな、おうくん」
「……一年経ったからだと思います」
「俺も一年経ったけど、そんなに変わってないぞ」
「太秦はそれでいいと思います」
「どういう意味だよ」
「……変わらないのが太秦のいいところだと思います」
太秦が少し止まった。
「……それ、褒めてる?」
「褒めています」
太秦がまた笑った。
「おうくんに褒められると、なんか変な感じする」
「どういう感じですか」
「合ってるのに、合いすぎて照れくさい感じ」
央が少し、前を見た。
(……太秦はいつも、正確なことを言う)
自分でそれに気づいていないのが、太秦のいいところだった。
帰り道、央はもう一度考えた。
去年の今日、みおへのプレゼントをどら焼きと本に決めた。
その選択は間違っていなかった。
みおが喜んでいたのを、央は見ていた。
今年は菓子を一つ足して、本を一冊選んだ。
どら焼きを残したのは、去年の判断を信じているからだった。
でも菓子を足して本を変えたのは、今年のみおを見ているからだった。
(……去年のみおと、今年のみおは、少し違う)
違うというのは、変わったということだった。
同じ人が、少し別の顔を見せるようになっていた。
それが一緒にいる、ということだと央は思った。
去年と同じものを残しながら、今年のものを足す。
それで十分だった。
一方で、みおはその日の午後、蒼介と近所を歩いていた。
蒼介が久しぶりに帰ってきていた。
大学の講義が休みになったと言っていた。
住宅街の路地を並んで歩いた。
蒼介が175センチで、みおの肩の辺りまでしかなかった。
慣れた道で、慣れた隣の人だった。
「最近、楽しそうだな」
蒼介が前を見たまま言った。
「……そうですか」
「学校の話をするとき、少し顔が違う」
「分かりますか」
「分かる。小さいころからそういうの分かるよ」
みおが少し、前を向いた。
「……そうですか」
「図書委員が楽しいのか、友達が増えたのか、何か好きなことがあるのか」
みおが少し間を置いた。
「……全部、少しずつ」
蒼介が何か言いかけた。
止まった。
(……また聞きすぎようとした)
蒼介は自身の口を手で覆った。
詳しく聞きたかった。
でも、みおが「全部、少しずつ」と言ったとき、それ以上のことを話すつもりがないのが伝わった。
聞いてもいいかもしれない。
でも、聞かなくてもいいかもしれない。
どちらでも、みおは楽しそうにしている。
それが今は十分だった。
「そっか」
蒼介はそれだけ言った。
みおが「はい」と短く答えた。
並んで歩くのが続いた。
6月の空が、少し明るくなっていた。
梅雨の前の空は、こういう顔をすることがある。
その夜、みおが部屋で本を読んでいると、兄がドアをノックした。
「今日さ、近所のどら焼き屋、通ったじゃん」
「はい」
「みおってどら焼き好きだよな」
「好きです」
「何が好きなの、あんこ? 皮?」
「……どちらも」
「どっちかって言ったら」
「……あんこです」
「そっか」
蒼介がドアのところで少し立っていた。
「去年の誕生日、誰かにもらったんだろ。どら焼きと本」
みおが少し、本から顔を上げた。
「……はい」
「すごく大事そうにしてたよな、包み」
「覚えていましたか」
「覚えてる。みおが何かをあんなふうに受け取るの、珍しかったから」
みおが少し、蒼介を見た。
「……そうですか」
「今年も来るといいな」
蒼介が静かに言った。
みおが何も言わなかった。
少し間があって。
「……来ると思います」
と、静かに言った。
蒼介が「そっか」と言って、廊下に引っ込んだ。
ドアが静かに閉まった。
みおが本に視線を戻した。
ページが、少しの間めくれなかった。
翌日の朝、央はみおにLINEを送った。
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央 :明後日、図書委員の当番ですよね
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みお:はい
みお:央さんも当番ですか
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央 :そうです
央 :その後、少し時間がありますか
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少し間があった。
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みお:あります
みお:……何かありますか
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央 :渡したいものが
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みお:……分かりました
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それだけだった。
みおが何を想像しているか、央には分からなかった。
でも、「分かりました」という言葉は、静かな了解だった。
(……去年もそうだった)
去年の今日、プレゼントを決めた。
翌日には渡す準備ができていた。
一年前と同じ流れで、今年も動いている。
でも今年の方が、少しだけ確かだった。
腕時計を撫でた。
文字盤が、6月の朝の光を反射した。
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