第六十話 5月15日 教えることと、習うこと
中間テストの一週間前になると、教室の空気が少し変わる。
休み時間に教科書を開く人が増える。
昼休みの話題がテストの範囲になる。
窓の外は5月だが、教室の中は少し密度が上がっていた。
太秦が央の席に来て言った。
「おうくん、今年の数学の先生、去年より難しい問題出すって噂あるの知ってる?」
「……知りませんでした」
「やっぱりそういうのは俺の方が早い。情報収集は得意なんで」
「……数学の勉強は」
「……それはこれからで」
「……そうですか」
太秦が椅子を引いて逆向きに座った。
「葛城さんって、数学得意だよね」
「……得意ですね」
「定期テスト、毎回学年上位とか聞いたけど」
「聞いた話、ですか」
「俺、葛城さんに数学教えてもらいたいな。冗談で言うんじゃなく、割と本気で」
「……本人に直接お願いしてみてください」
「えー、なんか緊張しない? こう、改まって言うのって」
「頼まれれば教えてくれると思います」
「そう? おうくんは頼んだことある?」
央が少し間を置いた。
「……直接はありません。でも質問に答えてくれるのは知っています」
「ならいけるか。図書室で勉強会やろう、テスト前に」
「それはいい考えかもしれません」
太秦がぱっと顔を上げた。
「珍しい、おうくんがすぐ賛成した」
「……図書室は静かですから、勉強に向いていますね」
「なるほど。よし、声かける。葛城さんとさやかさんと、ひなさんも声かけてみるか」
太秦がもう立ち上がっていた。
何かが決まると動くのが速い。
(……本人は深く考えていないが、それでも楽しそうにやるのが太秦のいいところだ)
その日の放課後、慧が図書室に来た。
いつもより少し顔色が暗かった。
「……どうしましたか」
「今日、数学の小テスト返ってきて」
「……何点でしたか」
慧が用紙を取り出した。
19点と書いてあった。
「……100点満点ですか」
「100点満点です。勢多先輩、100点満点で19点って、どう思いますか」
「……正直に言っていいですか」
「聞いてから後悔しそうですが、聞きます」
「……厳しいと思います」
「そうですよね。俺も思ってます」
慧が椅子に座った。
ちょっと崩れ気味の座り方だった。
「数学って、ちゃんとやれば理解できるんですかね」
「ちゃんとやれば、ある程度は理解できると思います」
「俺、ちゃんとやる方法が分からないのかもしれない」
「どこから分からなくなったかを探すのが最初だと思います」
「それが分からないです」
「……正直ですね」
慧がまた少し沈んだ。
「葛城先輩って、数学得意なんですよね」
「……そうです」
「教えてもらえますかね」
「……葛城さんに言ってみますか」
「言えますか? 俺から直接頼むの、なんか申し訳なくて」
「どうして、申し訳ないんですか」
「だって先輩の時間を使うわけじゃないですか。俺の数学のために」
央が少し考えた。
「……葛城さんは、そういうことを申し訳ないとは思わないと思いますよ」
「そうですか」
「聞き方さえちゃんとすれば、快く答えてくれる人だと思います」
「勢多先輩がそう言うなら、そうなのかもしれない」
慧が少し顔を上げた。
「……来週、うちのクラスの太秦が図書室で勉強会をやろうと言っていました。葛城さんも声をかける予定です。そこで聞くのがいいと思います」
「勉強会! それは助かります。参加してもいいですか」
「1年生も来て大丈夫です。宇陀さんに確認してみます」
「ほんとですか。ほのかにも言っていいですか」
「どうぞ」
「……勢多先輩って、なんか救済者みたいですね」
「そんなことはないですよ」
「いや、俺が19点で沈んでたら、さらっと解決策を出してくれた。これは救済者」
「……太秦が言い出した勉強会に乗っただけです」
「でも乗ってくれたじゃないですか」
央が少し、慧を見た。
(……この子は、人のことをちゃんと見ている)
見え方が素直だった。
「また来週、図書室に来てください」
「来ます! ほのかも連れてきます」
慧が荷物をまとめた。
今日は本を借りずに帰ることになったが、顔色は最初より戻っていた。
扉を出る前に振り返った。
「19点でもまだ間に合いますかね」
「……テストまで一週間あります」
「……がんばります」
慧が出ていった。
扉が閉まった。
宇陀さんが静かに「19点は確かに厳しいですね」と言った。
「……そうですね」
「でも正直に持ってきたのはいいことだと思います」
「そうですね」
央が少し、宇陀さんを見た。
宇陀さんはもうカウンターの作業に戻っていた。
勉強会は翌週の火曜日の放課後に設定した。
太秦が段取りをした。
宇陀さんに「テスト勉強で図書室を使っていいか」と聞いたら「静かにするなら」と言われた。
太秦が「音楽もなしで大丈夫っす」と宇陀さんに言った。
宇陀さんが一度だけ太秦を見てから、「音楽はもちろんなしです」と静かに返した。
「ですよね」と太秦が肩をすくめた。
集まったのは、央・みお・太秦・さやかの四人に、慧とほのかが加わった六人だった。
ひなは「テスト前に話し込むと後悔するから、ひとりで集中する」と言って来なかった。
図書室の中央テーブルに並んで座った。
思ったより人数が多くて、テーブルがちょうどいっぱいになった。
「なんか、去年の図書委員っぽい感じになったね」
さやかが言った。
「去年はここでテスト勉強したことあったっけ?」
「……あまりなかった。やることが増えた」
「まあ2年になったからね。慧くん、ほのかちゃんも来てくれてありがとう」
「呼んでもらえてよかったです。よろしくお願いします」
ほのかが言った。
慧も「よろしくお願いします」と言った。
それぞれが教科書とノートを開いた。
しばらく静かに各自が進めていた。
最初に動いたのは太秦だった。
20分ほどして、数学のノートをみおの前に滑らせた。
「……葛城さん、ここが分からないんだけど」
みおがノートを受け取った。
少し確認した。
「この問題は、二段階で処理しています。最初の式変形で躓いていますね」
「そうそう。なんでこうなるの」
「ここで、共通因数を括り出しています。A×B+A×Cを、A×(B+C)にする形です」
「……あ」
「見えましたか」
「……見えた気がする。もう一回自分でやってみる」
みおがノートを返した。
太秦がまた手元に向かった。
それだけだった。
余分なことは言わなかった。
説明が短くて、必要な部分だけだった。
さやかが「みおって教え方上手だよね」と小声で言った。
「……そうですか」
「説明が無駄なく入ってくる感じがする」
「この問題は、構造が単純なので」
「構造が単純でも、教え方が上手じゃないと入ってこないよ。塾の先生でも、話が長い人って頭に入らないじゃん」
みおが少し、さやかを見た。
「……ありがとうございます」
「本当のことだよ」
みおが少し間を置いてから、また自分の手元に向かった。
(……さやかさんは、ちゃんと見ている)
遠回りに言うのではなく、ちゃんと正面から言う。
さやかのそういうところが、みおには届く気がした。
慧が隣の席のほのかにノートを見せて何か話していた。
少し声が出かけて、自分で「しーっ」と言った。
みおがそちらを見た。
「……何か分からないですか」
みおが静かに聞いた。
慧が少し背筋を正した。
「あ、えーっと……関数のグラフがどうしてこういう形になるかが、全然ピンと来なくて」
「見せてもらえますか」
みおが慧のノートを受け取った。
確認してから、自分のノートの余白を開いた。
「……グラフは、xの値が変わると、yの値がどう変わるかを絵にしたものです。式がある場合、まず几帳面に値を入れてみるのが一番確実です」
「几帳面に、というのは」
「x=0、x=1、x=2と順番に入れて、yの値を出してから点を打ちます。点が集まると線になる」
「点を打って、線にする」
「最初はそのくらいの理解でいいと思います。グラフの「性質」を先に覚えようとすると混乱します。まず自分の手で点を打ってみることが先です」
慧がみおの余白を見た。
みおが例として一つ、点を打って見せた。
「……あ。なんかこう見ると分かる気がします」
「実際にやってみてください。このページの練習問題を、一問だけでいいので自分で点を打ちながらやってみてください」
「やってみます」
慧がノートと向き合った。
鉛筆を動かし始めた。
みおが少し、慧のノートを横から見ていた。
訂正はしなかった。
慧が自分で手を動かすのを待っていた。
(……みおは、待てる人だ)
前にもここで「待てる人と動けない人は違う」という話をした。
みおが誰かに教えるときも、同じ質感だった。
教えるのではなく、一緒に考える。
答えを渡すのではなく、手が動くのを待つ。
「……できました。たぶん」
慧がノートを見せた。
みおが確認した。
「……合っています。次の問題も同じ方法でやってみてください」
「はい!」
慧がまたノートに向かった。
今度は自分で最初から動いていた。
30分ほど経ったころ、ほのかがみおに小声で言った。
「あの、葛城先輩」
「はい」
「この前、本を薦めてもらったミステリー、読みました」
みおが少し、ほのかを見た。
「……どうでしたか」
「最初の数ページで引き込まれて。あの、犯人の正体が分かる直前のところ、あそこで一回本を閉じて考えちゃいました」
「……どう読んでも自然な流れで誘導されているんですよね、あの場面は」
「そうなんです! 先輩は最初読んだとき気づきましたか」
「……気づきませんでした。読み返してから、ここにこういう伏線があったと分かりました」
「読み返したんですか」
「面白かったので」
ほのかが少し笑った。
「先輩、本の話するとき少し表情変わりますよね」
「……そうですか」
「なんか、少し前のめりになる感じ。普段はもっと静かじゃないですか」
「……気づかなかったです」
「えくぼとかは出ないですけど、目が少し動く感じ」
みおが少し間を置いた。
「……えくぼは出ないですか」
「でないですね、たぶん。でも表情は変わってます」
「……放出さんの笑い方とは別の、わたしなりの感じ方があるということですかね」
ほのかが「そういうことですね!」と少し声を上げかけて、自分で「しーっ」と言った。
みおが少し、ほのかを見た。
「また次に読んだら、教えてください」
「はい。先輩のおすすめ、次も聞きたいです」
「次は何が読みたいですか」
「先輩が好きなやつがいいです。あたしに合うかどうかより、先輩が好きなのを先に知りたい」
みおが少し考えた。
「……少し考えてから、持ってきます」
「やった」
ほのかが小声で言った。
央はそれを少し遠くから見ていた。
(……乙訓さんは、人に何かを聞くのが上手だ)
相手が答えやすい場所を先に作ってから聞く。
「先輩のを先に知りたい」という一言が、みおに「考えてから持ってくる」という言葉を引き出した。
それは無意識なのかもしれなかったが、うまかった。
一時間ほどで、勉強会は自然に終わりに近づいた。
各自が少しずつ教科書を閉じ始めた。
太秦が伸びをした。
「いやー、葛城さんの説明、分かりやすかったな。塾より分かりやすかったかも」
みおが少し、太秦を見た。
「……比べる相手が塾というのは、どうでしょうか」
「今週塾でも同じとこやったんだよ。でも先生の説明は長くて、なんか頭がうーって感じになった。葛城さんの説明は短くて、頭に入ってきた」
「……説明が短いのは、正確に言えば「必要な部分だけ言っている」ということです。長い説明は、対象が変わると短くなるとは限らないです」
「そういうもんか」
「もっと難しい単元になれば、わたしの説明も長くなるかもしれません」
「じゃあ次も教えてもらわないといけないな」
太秦が笑った。
「便乗しすぎじゃない」とさやかが言った。
太秦が「みんな思ってることを言っただけ」と軽く返した。
さやかが少し笑った。
「……太秦くんって、たまにすごい正確なこと言うよね」
「え、そう?」
「うん。今みたいな感じで。みんなが少し思ってても言わないことを、さらって言う」
太秦が少し首を傾けた。
「……そういうもんかな」
「そういうもんだよ。本人が気づいてないのがまた」
さやかが何かを言いかけて止めた。
「何?」
太秦が少し首を傾けた。
さやかが目を逸らして「何でもない」と言った。
みおが少し、さやかを横から見た。
何も言わなかった。
央は少し、さやかと太秦のやりとりを見ていた。
(……さやかさんは、太秦の何かに気づき始めている)
太秦の本質発言の自覚なさは、以前からそうだった。
今日はさやかにそれが届いた。
それだけのことかもしれなかった。
でも、そういう積み重ねが何かになる。
片付けのとき、慧が央に言った。
「今日、少し分かってきた気がします。数学」
「それはよかった」
「葛城先輩の教え方、なんか安心するんですよ。答えをくれるというより、一緒にいてくれる感じがする」
央が少し、慧を見た。
「……ちゃんと見ていますね」
「え、俺が?」
「葛城さんのことを」
「ああ、なんか自然に見てしまう感じはありますけど。なんでですかね」
「本質を言っているんだと思います」
「本質か。なんか難しい言い方ですね、勢多先輩は」
「……太秦に言わせると、もっとシンプルな言い方になると思います」
「どういう言い方ですか」
「……分かりやすい、という感じです」
慧が少し笑った。
今度はえくぼが出た。
「俺もそっちの言い方の方が分かりやすいです」
「そうですね。俺が遠回りになるのは直らないかもしれません」
「でも勢多先輩の遠回りって、ちゃんと辿り着くので問題ないと思います」
央が少し、慧を見た。
えくぼが出たままだった。
(……慧くんは、本質を見る後輩だ)
見えたことを素直に言える。
それは一種の才能だと思った。
みおとふたりで帰る道、央が少し聞いた。
「教えていて、どうでしたか」
みおが少し前を向いたまま考えた。
「……楽しかったです」
「……そうですか」
「予想していなかったことが起きました。放出さんが、自分で手を動かし始めたとき、それを見ていて楽しいと思いました」
「……待っていたんですね」
「待っていました。答えを渡すより、動き始めるのを待つ方が、何かが伝わった気がして」
央が少し、みおを見た。
「それは、「得意なことを使ってやりたいことをやっている」感じじゃないでしょうか」
みおが少し止まった。
「……どういうことですか」
「得意なことと、やりたいことが同じかどうか分からないと言っていましたね、進路調査票のとき。今日の感じは、どちらに近かったですか」
みおが少し考えた。
「……やりたいことに、少し近かった気がします」
「……そうか」
「そうか、で終わらせますか」
「……もう少し続けますか。何かが見えてきたんじゃないでしょうか」
「少し、見えた気がします。ただ、今日一日でそれが進路かどうかは分からない」
「分からなくていいと思います。宇陀さんが言っていた。書ける言葉にまで育っていない、と。今日、育ち始めたかもしれない」
みおが少し、足を止めた。
「……央さんって、宇陀さんの言葉をよく覚えていますね」
「……好きな言い方だから」
「どういうところが好きですか」
「……急かさないところが」
みおが少し、央を見た。
「それは、央さんらしいと思います」
「……どういう意味でしょうか」
「急かさない人が、急かさない言い方を好む、ということです」
5月の夕方の光が、ふたりの横を通り過ぎた。
街路樹が少し揺れた。
「……ほのかさんが、本の話をしてくれました」
みおが少し続けた。
「読みましたか、薦めた本を」
「読んでいました。そして「先輩のを先に知りたい」と言ってくれました」
「次も、薦めますか」
「考えてみます。何を持っていくかを考えるのが、楽しいです」
央が少し、みおを見た。
(……みおが「楽しい」と言うのが、少し増えた)
去年の今頃は、もう少し静かに受け取るだけだった。
今年は、楽しいと言う。
「……みおが楽しいと言うのは、いいことだと思います」
「……そうですか」
「そうです」
みおが少し間を置いた。
「……去年は、あまり言わなかったですか、そういうことを」
「あまり言わなかった気がします」
「……そうですね。言い始めたのは、たぶん、央さんがちゃんと受け取ってくれるから、だと思います」
央が少し、みおを見た。
みおは前を向いていた。
「……受け取っています」
「……知っています」
5月の夕方が、少しずつ暗くなり始めていた。
中間テストまで、あと一週間だった。
教えることが楽しかった。
待てることが伝わった。
言い始めたことが届いていた。
そういう5月の一日だった。
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