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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第五十九話 5月8日 言葉になっている人


 GW明けの最初の一週間は、意外と早く過ぎた。


 連休の前と後では、空気が少し変わる。

 授業の密度が上がる。提出物が増える。

 中間テストが近づいている。


 (おう)は放課後に図書室に来ることが増えた。

 授業の合間に考え事をしていると、教室より図書室の方が落ち着く感じがある。

 別に何か急ぎで調べることがあるわけではなかった。


(考えていると、ここに来る)


 と思いながら、棚の前に立った。


 今日は何かを借りるつもりではなかった。

 ただ背表紙を眺めていると、頭の中が少し整理される気がした。


「来ましたか」


 宇陀(うだ)さんがカウンターから声をかけた。


「……少し頭を冷やしに来ました」


「どうぞ。今日は空いています」


 央が椅子に座った。

 5月の午後の図書室は、光が穏やかだった。



 しばらくして、扉が開いた。


 (さく)だった。

 眼鏡をかけていて、脇に参考書を一冊挟んでいた。

 図書室に入ってから央を見て、少し目を細めた。


勢多(せた)くん、来ていたんですか」


「サクさんこそ、ですね」


「僕は資料を探しに来たんです。志望校の学科で扱う文献を少し調べたくて」


 朔が宇陀さんに一言断ってから、棚の方に向かった。

 央はそれを少し見た。


(「志望校の学科で扱う文献」、か)


 そういう言い方ができる人は、もう向かう先がある程度見えているということだ。



 朔が資料を一冊見つけて、央の向かいに座った。


 しばらく静かにページをたどっていた。

 央も手元の本を開いていたが、あまり読み進んでいなかった。


「……サクさんは、進路が決まっているんですか」


 央が少し聞いた。


 朔が顔を上げた。


「大まかには。文学か言語系の学科を考えています。いくつか調べています」


「……いつごろから考えていたんですか」


「去年の秋頃です。波多野(はたの)さんが英語の話をしているのを聞いたときに、自分は何が好きかを考えました」


 央が少し、朔を見た。


「……ことねさんがきっかけですか」


「はい。直接のきっかけは波多野さんです。ただ、文学が好きだということ自体は、もっと前から分かっていました」


「どういう部分が好きなんですか、文学は」


 朔がしばらく考えた。


「……答えが変わる、という部分です」


 朔が少し眼鏡を直した。


「数学は正しく解けば答えが一つになりますが、文学は同じ文章を読んでも、読む時期や状況によって受け取り方が変わります。それが好きです。変わることが、正確さだと思っているので」


「変わることが正確さ、ですか」


「同じ本を10年後に読んで同じことしか感じなければ、それは読者が止まっているということだと思っています。変わること自体が、向き合い続けている証拠になる」


 央が少し、手元の本を見た。


(……確かにそうだ)


 一度読んだ本にもう一度戻ることがある。

 戻るたびに少し違うものが見える。

 それを「変わることが正確さ」と言い切れる人は、言葉が整っている。


「勢多くんは、何か方向はありますか」


 今度は朔が聞いた。


「……まだありません。好きなことをリストにしてみましたが、それがどこに向かうかが分からなくて」


「好きなことのリストに、何が出ましたか」


「本を読むこと。考えること。珈琲。静かな場所。祖父と話すこと、といった感じです」


 朔が少し思考の表情を見せた。


「……そのリストだと、文系寄りですね」


「そうかもしれません」


「特定の科目というより、「考えることそのもの」が好きな人の進路は難しいですよね。学科の名前に直結しない」


「……そう感じます」


「ただ、勢多くんは現代文が得意でしたよね」


「……得意ではありますが、それが進路になるかどうかは分かりません」


 朔が少し考えた。


「考えることが好きと、言葉が好きは、実はかなり近い場所にいると思います。言葉は考えるための道具だから。文学や言語に限らず、歴史・哲学・社会系なども「言葉で考える」ことが軸にある学科です」


 央が少し、朔を見た。


「言葉で考える、ですか」


「乱暴に言うと、「答えが出ない問いと長く付き合える人」が向いている分野は、わりと文系全般です。文学に限らず」


「……答えが出ない問いと長く付き合う、ですか」


「勢多くんは、それが得意な方だと思っています」


 央が少し間を置いた。


「……どうして分かるんですか」


「図書室で見ていると、ページをめくる速さが安定しているので。焦らずに読んでいる人は、だいたいそういう人です」


 央がまた間を置いた。


(ページをめくる速さで、か)


 朔は観察する人だ。

 声には出さないが、見ている。


「宇陀さんが似たことを言っていました。書ける言葉にまで育っていない、と」


「……宇陀さんが言いましたか」


「進路調査票で何も書けないと話したときのことです」


 朔が少し、宇陀さんの方を見た。

 宇陀さんはカウンターで本の分類作業をしていた。


「宇陀さんは正確な言い方をしますね」


「そうですね」


「書ける言葉にまで育っていない、というのは、考えていないのではなく、まだ言葉の手前にある、ということですよね。それは時間で解決します」


「……時間で解決する、ですか」


「少なくとも、今焦る必要はないと思います。進路を決める期限はまだ先です。ただ、考え続けていれば、いつか言葉にできる日が来る」


 それは宇陀さんの言い方と、ほとんど同じだった。

 央は少し、そのことを考えた。


(サクさんと宇陀さんは、同じことを言っている)


 ふたりとも、「言葉になっている人」だった。

 自分の向かう場所が見えている人は、他人の「まだ見えていない」を急かさない。

 それが今、少しだけはっきりした気がした。



 しばらくして、扉が開いた。


 みおが入ってきた。


「こんにちは」


「……こんにちは」


「サクさんも、こんにちは」


「こんにちは、葛城(かつらぎ)さん」


「……調べ物ですか」


「少し。今日は資料を一冊確認できたので、もう帰ります」


 朔が立ち上がって本を棚に戻した。

 宇陀さんに「ありがとうございました」と言って、鞄を持った。


「勢多くん」


「……何でしょうか」


「言葉で考えることが好きというのは、それ自体が立派な方向性だと思います。急がなくていいですが、忘れないでください」


「……分かりました」


 朔が頷いた。

 扉を出て行った。

 足音が廊下で遠ざかっていった。


 みおが椅子に座った。


「サクさんと、何の話をしていたんですか」


「進路の話を少し。サクさんは文学か言語系の学科を考えているそうです」


「そうですか。……サクさんらしいですね」


「サクさんらしい、ですか」


「ちゃんと言葉を持っている人なので」


 央が少し、みおを見た。


「みおにも、そう見えていましたか」


「はい。図書委員のオリエンテーションのころから、そういう印象でした」


 央が少し考えた。


「自分に「言葉があるかどうか」は、自分では分かりにくいですよね」


「……分かりにくいですね。自分の言葉は自分の中にあるから、見えていないものが分からない」


「サクさんは外から見て言ってくれました。ページをめくる速さが安定しているから、答えが出ない問いと長く付き合える人だと」


 みおが少し考えた。


「……それは、確かにそうだと思います」


「どう思いますか」


「ページをめくる速さで分かるというのは、観察が細かい。でもそれ以上に、央さんがそういう人だというのは、一年間見ていても感じました」


「……一年間、ですか」


「はい。急かさない人なので」


 央が少し、窓の外を見た。

 5月の光が差していた。


(みおも同じことを言った)


 「急がない人」という評価が、以前にも出ていた。

 みおが見ていたものが、少し形になった気がした。



 少しして、央がもう一つ思い出したことを聞いた。


「……みお、ことねちゃんから進路の話は聞いたことはありますか」


「……直接は聞いていないですが、さやかが少し話していました。英語を使う仕事を考えているって」


「はい。サクさんからも少し聞きました」


「ことね先輩は、ちゃんと向かう先がある人なんですね」


「言い方が独特でしたが」


「……どういう言い方ですか」


「どこかに受かるが目標、という感じでした。学部や職種より、まず受かることを目標にする」


 みおが少し考えた。


「それは、ことね先輩らしいと思います。結果を出してから考えるタイプ、というか」


「……そうかもしれない」


「央さんとは逆ですね」


「どういう意味でしょうか」


「……央さんは何かが分かってから動くタイプだと思うので」


 央が少し考えた。


「……そうですね。分からないまま動くのは難しいと思います」


「わたしは、どちらかというと央さんに近いです。答えが見えていないと動きにくい」


「でもみおは、さっき「急かさない人だ」と言いました。それは答えを待てる人でもある」


「待てる、というのと、動けない、というのは違いますか」


「……違うと思う。待てるのは、待っている間も考えているからです。止まっているんじゃない」


 みおが少し、央を見た。


「……そうですね」


 少し間があった。


「サクさんが言っていた「答えが出ない問いと長く付き合える人」というのは、そういうことだと思います。待てる人、というのと近い」


「……そうかもしれない」


 窓の外が、夕方の色に変わり始めていた。

 5月の空は、まだ少し明るかった。


「……少し分かった気がします」


 みおが静かに言った。


「……何が、ですか」


「進路が決まっていない人が何を考えているか。決まっている人の話を聞いて、初めて輪郭が見えてくるものがあるんですね」


「……俺もサクさんの話を聞いて、少しそう思った」


「わたしも今日、少しそう思いました」


 ふたりで少し、窓の外を見た。

 宇陀さんが棚の整理を続けていた。

 図書室に、静かな時間が流れていた。



 帰り際、廊下で宇陀さんがカウンターの向こうから一言言った。


比叡(ひえい)さん、今日も来ていましたね」


「はい。来ていました」


「……3年生は、この時期から忙しくなります。来られる回数が減っていくかもしれませんね」


 央が少し、宇陀さんを見た。


「……そうですね」


「でも、ここに来ていた時間は、その人の中に残ります。本と過ごした時間というのは、そういうものなので」


 宇陀さんが静かに言った。


 央は何も言わなかった。

 みおが少し、央の横で立っていた。


(……サクさんが図書室に来なくなる日が、来るんだな)


 それは当たり前のことだった。

 でも当たり前のことが、今日は少し実感として重かった。


 1年次に初めて図書室に来たとき、朔はすでにいた。

 「サクさんで通ってます」と自己紹介していた。

 それから一年と少し、図書室で何度か話した。


 朔が来なくなる日は、まだ先かもしれない。

 でも来る。


「宇陀さんも、そうなんですか」


 みおが少し聞いた。


「……何がですか」


「本と過ごした時間が、自分の中に残っているんですか」


 宇陀さんが少し考えた。


「……そうだと思っています。わたしが今でも本を好きな理由は、最初に好きになった本があるから。その本は今も残っています」


「……書きかけの物語も、そういうものですか」


 みおが静かに聞いた。


 宇陀さんが少し、みおを見た。


「……そうかもしれません。言葉になっていないものを言葉にしようとしている限り、その時間は続いていく気がします」


 央がその言葉を少し聞いた。


(「言葉になっていないものを言葉にしようとしている」、か)


 それは進路の話にも、なんとなく重なった。

 宇陀さんが言うことはいつも、少し手前から届く感じがした。


 ふたりで図書室を出た。

 廊下を並んで歩いた。


「……宇陀さんの物語、どんな話なんでしょうね」


 みおが少し言った。


「いつか、読めるかもしれません」


「……読みたいですね」


「……俺も読みたいです」


 廊下の窓から、5月の夕方が見えた。

 朔の足音は、もうどこにも聞こえなかった。

 でも、今日話したことは残っている。


 「言葉で考えることが好き」というのは、それ自体が方向性だ。


 央はそれを、帰り道にもう一度、静かに繰り返した。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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