第五十七話 4月23日 まだ書けないこと
進路調査票が配られたのは、4月の最終週の水曜日だった。
ホームルームで笠置先生が一枚ずつ配りながら言った。
「2年生になったので、進路について少し意識し始める時期です。この用紙に今の考えを書いて、来週の月曜日までに出してください。空欄でも構いませんが、何か書けることがあれば書いてみてください」
用紙が回ってきた。
央が受け取った。
「将来希望する進路(志望大学・学部、就職先など)」という欄があった。
その下に「その理由」。
「得意科目・興味のある分野」。
「現在の課題と取り組みたいこと」。
(……書けるか)
と思った。
欄が四つあった。
四つとも、すぐには答えが出なかった。
休み時間に太秦が央の席に来た。
「おうくん、進路書けた?」
「……書けていません」
「俺も。スニーカー関係って書いたら笑われる?」
「笑いません」
「でも笠置先生に呼ばれそう」
「……書き方の問題だと思います」
「書き方?」
「スニーカー関係と書かず、流通とかデザインとか、もう少し具体的な言葉にすればいいと思います」
太秦が少し考えた。
「……それ、本当にやりたいのか俺が分かってないってことじゃん」
「……そうかもしれません」
「厳しいな」
「進路調査票って、そういうものだと思います」
太秦が頭の後ろを掻いた。
「おうくんは何か書けそうなの、ある?」
「……今のところ、ありません」
「ないって正直だな。俺もないわ」
ふたりで少し、用紙を見た。
欄が静かに空いていた。
みおの席を見た。
みおはすでに鉛筆を持って、何か書いていた。
「葛城さんはもう書いてますね」
太秦が小声で言った。
「……そうですね」
「あっちの方向には俺たちは進めないな」
「……方向の問題ではないと思います」
「まあそうか」
太秦がまた頭の後ろを掻いた。
昼休みに、さやかが央の席に来た。
「進路調査票、書いた?」
「……まだ」
「まあ、来週の月曜日まであるから急がなくてもいいか。わたしは志望大学の方向だけ書いた。学部はまだ決まってないけど」
「……都内の大学ですか」
「うん。それだけは決まってる。なんか地元を離れるイメージが湧かなくて」
央が少し頷いた。
さやかが少し間を置いてから続けた。
「みおは……すごいね、あんなに書けて」
「何を書いていたか、見えましたか」
「いや、見てないけど。鉛筆がよく動いてたから」
さやかが少し笑った。
「みおって、自分のことを話さないけど、ちゃんと考えてることはたくさんあるんだよね。見てると分かる」
「……そうですね」
「勢多くんも見てるんだね、そういうとこ」
央が少し、さやかを見た。
さやかはもう別の方を向いていた。
放課後、央は図書室に来た。
宇陀さんがカウンターにいた。
棚の整理をしかけて、手を止めた。
「来ましたか」
「今日は少し本を読もうと思って」
「どうぞ」
央が棚の前に立った。
文庫の列を目でたどった。
手が止まった。
(……何が読みたいかが、分からない日がある)
いつもはすぐ手が伸びる。
今日は棚の前で少し止まった。
「……宇陀さん」
「はい」
「進路調査票が配られました」
「そうですか」
「……何も書けなかったです」
宇陀さんが少し顔を上げた。
「今は、ですか」
「……今は。来週の月曜日までに出す必要があるので、それまでに何か書けるかは分かりません」
「そうですか」
宇陀さんが本を一冊棚に戻した。
「何も書けないということは、何も考えていないということとは違いますよね」
「……どういう意味ですか」
「書ける言葉にまで育っていない、ということかもしれないので」
央が少し考えた。
「……そうかもしれないです」
「焦ることはないと思います。ただ、考え始めるきっかけにはなりますよね」
「……なっています」
「それで十分ではないですか」
宇陀さんが静かに言った。
央が少し、棚の前に立ったままでいた。
手が伸びた。
一冊、文庫を引き出した。
昨年、一度読んだ本だった。
(……もう一度読む気になったか)
分からないことがあるときに、一度読んだ本に戻ることが央にはある。
答えが書いてあるわけではないが、考えるための場所になる気がした。
椅子に座って数ページ読んでいると、扉が開いた。
慧だった。
「あ、勢多先輩いた! そっち行ってもいいですか」
「どうぞ。約束通りに来たんですね」
「来ると言ったら来ます」
慧が荷物を置いて、棚の前に立った。
少し前に央が薦めた棚の辺りに歩いていった。
「この前の、探してみます」
「ラベルで著者名を引けば出てきます」
「……あ、ありました」
慧が本を一冊持ってきた。
央が少し確認した。
「それで合っています」
「やった。読んでみます」
慧が向かいの椅子に座った。
宇陀さんに「借りてもいいですか」と聞いた。
宇陀さんが「もちろんです」と言った。
しばらく、ふたりで静かに本を開いていた。
図書室に、本のページをめくる音だけがあった。
「……先輩」
「……何ですか」
「進路調査票って、もう書きましたか」
央が少し、慧を見た。
「……書けていないですね」
「俺もです。1年生にも配られて。一番最初の進路調査票って、何を書けばいいんですかね」
「……正直に書けばいいと思います」
「正直に書くと、空欄になります」
「今は空欄で構いません。空欄でも出せますから」
「そうなんですか」
「笠置先生……こっちの担任もそうおっしゃっていました」
慧が少し考えた。
「勢多先輩は、将来何がしたいか、今は分からないですか」
「……分かりません。好きなことはあります。でもそれが何につながるかが分からなくて」
「好きなことって、本ですか」
「そのひとつです」
慧がまた少し考えた。
「俺、父親が先生なんですけど。本が好きになったのも家に本がたくさんあったから。だから本が好きな人の気持ちって分かる気がするんですけど、父親みたいに先生になるかって言われると、そこはちょっと違う気がして」
「……好きなことの周辺に、自分のやりたいことがあるとは限らないですよね」
「そうなんですよね。それが分からなくて空欄になりました」
「それは、正直な空欄ですね」
慧が少し笑った。
(……よく話す後輩だ)
悪くなかった。
自分が高校1年のとき、こういう話を誰かとしたかどうかを考えた。
あまり覚えていなかった。
夕方になって、慧が帰った後、みおが図書室に来た。
教室の方から来たらしかった。
「……今日も来てましたか」
「慧くんが来ていたので、少し話していました」
「そうですか」
みおが棚の前に来て、央の斜め向かいの椅子に座った。
「今日、棚を整理してもいいですか。来週の当番まで待てない気がして」
「どうぞ」
みおが立ち上がって棚の前に立った。
少し確認してから、本を並べ直し始めた。
央が本を読みながら、少し聞いた。
「……進路調査票、書けましたか」
みおの手が少し止まった。
「……少し、書きました」
「何を書きましたか」
「数学か理科系の方向で、とだけ。学部や大学は、まだ決めていないです」
「理系は決まっているんですね」
「……得意なので」
「それだけで十分な理由だと思います」
みおが棚の本を戻しながら言った。
「央さんは書けましたか」
「……書けていない」
「……そうですか」
少し間があった。
「好きなことはあるのに、書く言葉にならない、という感じですか」
「宇陀さんにも同じことを言われました」
「そうですか」
みおが少し振り返った。
「わたしは逆で、書ける言葉はあるのに、それが本当にやりたいことかどうかが分からないです」
「……どういうことですか」
「数学が得意で、理系の方向が向いていると思っています。でも得意なことと、やりたいことは同じじゃないかもしれないので」
「……みおは、数学が好きですか」
みおが少し間を置いた。
「……好きです。ただ、好きだから向き合い続けられるのか、それとも得意だから好きと思っているだけなのかが、まだ分かっていないです」
央が本を少し閉じた。
「それは難しい問いですね」
「そうですね。でも、進路調査票を書こうとして初めて考えました。これまでは、得意だから、という理由で十分だと思っていたので」
「……今日から考え始めた、ということですか」
「考え始めました」
みおが静かに言った。
央が少し、みおを見た。
(……みおも、答えが出ていないんだな)
書けていた、というから何か分かっているのかと思っていたが、そうでもなかった。
書ける言葉がある人でも、その向こうに問いがある。
「……書けている方が、考えやすいかもしれません」
「……どういう意味ですか」
「言葉にしてみると、その言葉の外側が見えることがある。数学・理系と書いたなら、その外側に何があるかが見えてくるかもしれない」
みおが少し、棚の前で止まった。
「……そういう使い方があるんですね、進路調査票の」
「宇陀さんが言っていました。書ける言葉にまで育っていない、と。だったら、育っている言葉から始めればいいのかもしれない」
みおが少し頷いた。
「央さんにも、育っている言葉、ありますか」
「……今は、ありません。でも今週末、少し考えてみます」
「……そうですか」
窓の外が、夕方の色になっていた。
4月の最後の光が、棚の間を通り抜けていた。
図書室を出て廊下を歩いていると、太秦が合流した。
どうやら別の教室に用事があって遅くなったらしかった。
「おうくん、葛城さん。まだいたんだ」
「図書室にいた」
「そうか。俺も今から帰るとこ。ちょうどよかった」
三人で廊下を歩いた。
太秦が少し前を向きながら言った。
「さっきさ、教室の席順のこと笠置先生に聞いたんだよ」
「……何を聞いたんですか」
「席替えっていつやるかって。そしたらさ」
太秦が少し笑った。
「今年は当分このままでいくって言ってた。去年もほぼ変えなかったじゃん、笠置先生」
「……そうですね」
「おうくん、去年隣の席だったのが今年は斜め前になったじゃん。それって結局、去年の方が近かったってこと?」
央が少し、太秦を見た。
「近さは、席の距離だけで決まるものではないと思います」
「まあな」
太秦が頷いた。
「でも見えるか? 斜め前で」
「……見えています」
「そうか。まあ、それならいいか」
太秦が前を向いた。
それだけだった。
みおが少し、足の下を見ながら歩いていた。
太秦が何を言いたかったかは、おそらく分かっていたと思った。
みおが何も言わなかったのも、分かっていたからかもしれなかった。
(……それでも、見える距離だ)
央は思った。
隣の席ではなくなったが、それが失われたことではないと感じていた。
斜め前という距離は、隣より遠い。
でも、見えないわけではない。
校門を出たところで、太秦が自転車の駐輪場の方に曲がった。
「じゃあな。先に帰る」
「また明日」
「うん。葛城さんも」
「……また明日」
みおが静かに言った。
ふたりで歩き始めた。
4月の夕方は、まだ少し明るかった。
「太秦さんは、やさしいですね」
みおが言った。
「太秦がやさしい、ですか」
「……遠回りに言ってくれるので」
「遠回りに言うのがやさしいかどうかは分かりません」
「やさしいと思います。直接言わずに、でも聞きたいことを聞ける人は、相手のことをちゃんと考えている気がします」
央が少し間を置いた。
「……そうかもしれませんね」
みおが前を向いた。
「進路のこと、今週末少し考えます」
「俺も考えます」
「一緒に、ということではないですが」
「……分かっています」
「でも、どこかで話せたら」
「話せます」
みおが少し、口の端を動かした。
それだけだった。
4月の風が一度吹いた。
5月が近かった。
GWの手前に、ふたりはそれぞれ、まだ答えの出ていない問いを持っていた。
それが今日のことだった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




